歴史・民俗学
アコリスの神々
古代エジプト人の世界の中核を成していたのは神々であった。各地の神殿では国家神や地方神の祭祀が王権の庇護のもとで行われ、人々の日々の暮らしも神々に対する信仰とともにあった。アコリス(テヘネ・アル=ジャバル)遺跡にも、そのような当時の宗教の痕跡が残されている。
神殿の神々①アムン・マイケンティ
アコリス遺跡の北側の都市遺構と南側の居住地遺構(「南区」)を隔てる岩山の北面には中王国時代の岩窟墓群が営まれたが、その最も東の墓はアムン・ラーを主神とする岩窟神殿(「西方神殿」)として再利用され、ローマ皇帝ネロによって列柱室の増設などの整備が行われた(写真1)。テーベの神アムンは、中王国時代に太陽神ラーと習合した国家神アムン・ラーとなり、新王国時代にはエジプト各地にその神殿が造営された。「西方神殿」は、第19王朝ラメセス2世の王名を刻んだ石材が発見されていることから、遅くともこの王の治世には存在していたとみられ、第20王朝時代の史料には「アムン・マイケンティの家」(ペル・アムン・マイケンティ)としてその名が記されている。神殿がある岩山は、ワディ(涸れ谷)によって東部砂漠の山塊から隔てられて南北に伸び、横たわった野獣のような形状を呈している。「前方に突き出たライオン」を意味する「マイケンティ」の名はおそらくこのような岩山の形に由来するもので、そこを聖地としたアムン神がアムン・マイケンティ(「マイケンティのアムン」)と呼ばれたのだろう。
写真1 西方神殿の外観 提供:アコリス調査団(以下同)
「西方神殿」に隣接する「祠堂B」から出土した奉献碑断片(図1)は奉献場面の一部であり、寄進を受ける神々として、羽飾りのついた冠をいただくテーベのアムン・ラー神とともに、牡羊の頭部を持ち、日輪と角、羽飾りを頭上にのせたアムン・マイケンティ神の姿が表されている。この二柱の神と対面する位置に刻まれた奉献者の像は欠落しているが、添えられた銘文から、この人物が、新王国の王権が衰え国土の統一が失われた第3中間期初期のテーベのアムン大司祭ピヌジェム1世であることがわかる。彼はエジプト南部を支配したアムン神官団の「神権国家」の支配者であり、この「神権国家」と中部エジプト以北を支配する第21王朝の境界はアコリスの約70km北のエル=ヒバに位置していた。両勢力の関係は概ね平和的だったとみられるが、この奉献碑は、「神権国家」にとって勢力圏の北限に近くアムン神殿を有するアコリスが重要な戦略拠点だったことを暗示している。
図1 ピヌジェム1世の奉献碑断片
「西方神殿」付近からは、さらに地方分権が進行する第22王朝後期にテーベを拠点として自立したリビア系「テーベの第23王朝」第6代オソルコン3世の奉献碑(図2)も出土している。奉献場面は欠落しているが、寄進について記した銘文の箇所が残っており、高価な金属製容器12個に入れた胡麻油をアムン・ラー・マイケンティ神に奉納したことが記されている。オソルコン3世はアムン大司祭となった後、対抗勢力との闘争の末に即位した王であり、彼にとってもアコリスのアムン神殿との繋がりは、中部エジプトにおける地盤固めのために欠かせないものだったのだろう。
図2 オソルコン3世の奉献碑断片
神殿の神々②ソベクと他の神々
アコリス「南区」の南に聳える岩山の西側面には、新王国後期第20王朝ラメセス3世の磨崖碑※1(写真2)が刻まれており、それには鰐の頭部を持つ男神ソベクが王に湾刀を授け、アムン神が王の背後に立って守護する場面が表されている。このアムンは、ピヌジェム1世奉献碑のテーベのアムン神と同じ姿だが、添えられた銘文によればアコリスの地方神アムン・マイケンティである。ソベクは、アコリスの約10km北西の「アナシャ」(ナズラト・アル=アムダイン)の主神であることが銘文で示される。ラメセス3世の治世は、リビア人や東部地中海地域の「海の民」の侵攻、国内経済の悪化などに示される不穏な時代であり、王権の威信を保つため、エジプト各地の神殿で寄進や建築活動が盛んに行われた時代でもあった。この王と二柱の地方神を表す磨崖碑は、アコリスなど中部エジプトの3カ所で確認されており、いずれもこのような建築活動に伴う採石活動に関連して、採石場のある地域の神々と王との密接な関係を示すことで王権の誇示をはかったものとみられる。
写真2 ラメセス3世の磨崖碑
豊穣の力を秘めた水神として古くからエジプト各地で崇拝されていたソベクは、「西方神殿」域出土の奉献碑などヘレニズム・ローマ時代の史料で、アムンとともにアコリスの神とされている。「祠堂B」からはソベクの聖獣である鰐のミイラが出土し、入口にはアナシャの主でありナイルの氾濫をもたらす神ソベクに捧げたグラフィティ(写真3)が記されており、アナシャから勧請されたソベクがこの祠堂で祀られていたとみられる。「西方神殿」の石材の一つには、ヘルモポリスのトト神などとともに、鰐頭の男神の姿のソベクと、隼の頭部を持つ鰐の姿のソベクの浮彫が刻まれている。
この石材には、「メルネフェル(アコリスの古名)の主」オシリスに言及した銘文も残されており、当時はこの神も「西方神殿」に祀られていたことがうかがえる。「西方神殿」神域からはオシリス神の青銅製奉献小像が数体出土しており、アコリス遺跡からワディを隔てた東の岩山にオシリス崇拝に関わる「穀物ミイラ」の墓地が設けられていることとともに、アコリスにおけるオシリス崇拝の隆盛を示している。「西方神殿」神殿域には豊穣の女神ハトホルの顔を表す「ハトホル柱」の柱頭(写真4)がいくつか残されており、この女神も、おそらくソベクの配偶神として祀られていた可能性がある。
写真3 ソベク神の名のあるヒエラティック・グラフィティ
写真4 「ハトホル柱」の柱頭
アコリス「南区」の西端の崖には、地方の有力者「ヘルゲウスの子、ハコリス」の磨崖碑上部が残されている。これは、彼が国王プトレマイオス5世のため、アコリスを含む行政区の神であったイシス女神(イシス・モキアス)に神殿を奉納したことを記念するもので、碑文の下には、イシスとその配偶神であるオシリスの姿が左右に刻まれている。アコリス「西区」の崖上部にあって、同じくプトレマイオス朝の頃の有力者が寄進したと思われる「祠堂F」(写真5)の内壁には行列をなす神々の浮彫が施されており、そこにはテーベのアムン、トト、アヌビス、クヌムやイムホテプなどとともに、アコリスのアムンとみられる牡羊頭の神、ソベク、オシリス、イシスの姿もみられる。入口横には、我が子のホルスに授乳するイシス女神の図像(写真6)が刻まれており、現在では妊娠祈願の民間信仰のため多くの人々が訪れる一連のスポットの一つとなっている。北側の都市遺構の中心に位置する「中央神殿」(写真7)は、プトレマイオス朝時代にエジプトとギリシアの神々の特徴を融合させて生み出されたセラピス神を祀る神殿(セラぺウム)であり、遅くとも紀元後2世紀には存在していたとみられる。
写真5 「祠堂F」の外観
写真6 「祠堂F」内壁の浮彫。ホルス神に授乳するイシス女神(左端)
写真7 「中央神殿」
護符の神々
アコリスの居住地遺構と墓地、とりわけ新王国時代末期から第3中間期初期に居住がなされた「南区」からはファイアンスで作られたさまざまな護符が出土しており、その中には、甲虫を象ったスカラベや、ホルス神の眼を表したウジャトのような一般的な護符とともに、神々の姿を表したものも含まれる。当時の人々が神殿に祀られている神々に祈願をする機会や場所は限られており、彼らが日常生活で遭遇しうる災厄を避け、福徳を得るためにまず頼りにしたのは、護符として携帯可能な神々であった。このような神々にはアムン・ラーとその妻であるムト、息子のコンスからなるテーベ三柱神(写真8-1)やハトホルのように神殿に祀られた主要な神も含まれるが、人々の生活に直接の関わりを持つ神々の護符の方が人気があった。たとえばライオンの頭部を持つ女神の護符(写真8-2)は、同じような姿の複数の女神のいずれを指すのか曖昧な場合が多いが、頭上に日輪をいただく姿は疫病の神セクメト、上下エジプトの「二重冠」をかぶる姿はセクメトと同一視されたムトを表している。このような護符を携帯することでセクメトを宥め、疫病の害を防ごうとしたのであろう。
しかし護符にしばしば表されたのはむしろ災厄をもたらす魔物を退けるとされた神であり、「南区」からは、家庭の守護神である小人の神で、頭上に羽飾りをいただき、たてがみを生やした姿のベスの護符(写真8-3)が数多く出土している。一方、頭部に毛髪がなく、一般に「パタイコス」と呼ばれる小人の護符(写真8-4)も多く発見されており、工人の守護神プタハと関連づけられているが、似た姿のベスとともに魔除けの神とされていたのかもしれない。カバの頭部と妊産婦の胴体を持つ神の護符(写真8-5)は、妊産婦の守護神として古くから信仰されてきたタウェレト(トエリス)女神を表している。ホルス神に授乳するイシス女神の護符や子どもの姿のホルスの護符(写真8-6)は、イシスが亡き夫オシリスの遺児ホルスを育て上げたとする神話に基づくもので、子どもをあらゆる災厄から守る魔除けだったと思われる。「南区」ではさらに、コブラを象ったテラコッタ小像(写真9)が大量に出土しており、豊穣神であるとともに子どもを育む女神でもあるレネヌテトを表す可能性がある。確認されている護符のなかには、オシリスの姉妹であるネフティスの護符のように、死者の再生のための副葬品として作られたものも含まれるが、護符の多くは生者のためのものであり、平穏な生活、とりわけ当時は生命の危険が伴った出産がつつがなく済み、子どもが無事に成長することが、人々の切実な願いだったことを示している。
写真8-1 「テーベ三柱神」の護符
写真8-2 ライオン頭の女神の護符
写真8-3 ベス神の護符
写真8-4 「パタイコス」の護符
写真8-5 タウェレト女神の護符
写真8-6 子どもの姿のホルス神の護符
写真9 コブラの小像
- 岸壁の表面に神々の姿や碑文などを刻んだもの。
(参考文献)
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- 周藤芳幸『ナイル世界のヘレニズム―エジプトとギリシアの遭遇―』名古屋大学出版会 2014
- 辻村純代「穴潜りの話―エジプト農村の土俗信仰―」『古代文化』第42巻第7号(1990) pp.47-52.
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