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歴史・民俗学

葛藤の狭間で生き続ける祭り-近江中山の芋競べ祭りからの報告-

矢田 直樹 / Naoki YADA

滋賀県文化スポーツ部文化財保護課主査

写真1 近江中山の芋競べ祭り(撮影:筆者)

滋賀県庁に民俗文化財の担当として奉職し10年目を迎えた。県内各地の祭りや民俗行事を訪ねて回るうち、地域でしばしば「改革」と称される民俗文化の変容が、進んでいることが気になりだした。この改革が地域の個性や誇りを失わせることとなり、地域の活力の低下を招くことになってしまっているのではないか。 地域や保存会の方々と「滋賀県民俗文化財保護ネットワーク」を結成するなど民俗文化財の保護を通じ、活力ある地域を目指し模索を続けている。

はじめに

滋賀県は、県の中央に琵琶湖があり、湖に面して平野が広がり、さらにその平野の周囲を山が取り囲むという地域である。周囲の山々から流れ出た水は、ほぼすべて琵琶湖に流れ込むという琵琶湖の集水域が県域であり、かつての「近江」国が現在の滋賀県に引き継がれている。古くから政治文化の中心に近く、人と物資が行き交う東西日本列島の結節点としての立地性を有してきたのが滋賀県である。

滋賀県の祭り・芸能の特色

近世の近江にはおおよそ1,400の行政村があったとされ、平野部の村は中世の惣村に起源を持つ。村の人家は密接して建ち、氏神の鎮守の森、寺院の大きな屋根が遠くからでも見て取れるという集落景観をしている。村落共同体(ムラ)は地縁を基礎としており、現在の自治会に引き継がれ、村では、氏神を中心とした祭りや年中行事があり、その祭礼において芸能が奉納されている。このように地域は民俗文化を伝承する基盤となっている。

 

地域の祭りにおいて、特に民俗芸能などについては、いわゆる「保存会」組織が結成され、日々の伝承活動が行われている。この保存会も基本的には地域の住民、自治会員、氏子により構成されており、年間を通して地域の運営や活動と一体となっていることが滋賀県の特徴と言える。

地域の現状と課題

滋賀県でも2014(平成26)年より人口の減少局面に入った。しかしながら民俗文化を伝承しているような集落においては、都市部への人口流出は昭和40年代から続いている。地域の戸数や人口は減り続け、それに反して65歳以上の高齢者の人口は増え続けており、高齢化率はどんどん右肩上がりという状況である(図1)。

 

地域から人口流出が続く主たる要因は、地域の産業構造が大きく変わってしまったとことにある。かつての生業の中心は、農業や林業、漁業を中心とする第一次産業であったが、現在はそのような状況ではなく、青年層・壮年層の進学や就職により地域からやむを得ず離れてしまい出身地域から生活の基盤が他所に移ってしまっている。このような世帯が増えてくると、地域社会のあり様は変わらざるを得なくなる。今まで続けられてきた地域の祭りや民俗行事を続けることは難しくなり、「改革」という言葉で表現される民俗文化の大きな変容が各地で起きている。

 

 

図1 余呉町の人口推移図(出典:平成28年度滋賀県民俗文化財保護ネットワーク研修会記録 平成29 年 2 月)

この民俗文化の継承課題は、「人」「資金」「熱意」ということに集約できると考えている。「人」は祭りの担い手や後継者に関するもの。「資金」は祭りの運営費や用具等の修理に関するもの。そして「熱意」は、祭りへの意欲の低下や無関心などである。いずれも即解決できる問題ではなく深刻な課題である(図2)。

中世の惣村の成立以来、強固な結束を誇ってきた地域であるが、近年の社会経済環境の激変は、民俗文化の継承をより困難な方向へと向かわせている1)

図2 民俗文化財の継承課題に関するアンケート調査結果(出典:滋賀県民俗文化財保護ネットワーク研修会記録 平成28年3月)

芋競べ祭りの事例

今回報告させていただくのは「近江中山の芋競いもくらべ祭り」でのことである。我々が垣間見た地域の厳しい現実と苦悩、さらに希望を記すことで、これまで継承されてこられた皆様のご苦労に少しでも報いることができればと考えている。

 

「近江中山の芋競べ祭り」は、国の重要無形民俗文化財に指定されており、滋賀県蒲生郡日野町中山という地域で毎年9月1日に行われてきた全国でも唯一無二の祭りである(写真1)2)

中山は、丘陵の尾根と谷が入り組み、そこに水田と里山がひろがるという農村集落である。地域は中山西と中山東に分かれており自治会もそれぞれで、西は約40軒、東は約70軒である。

 

この祭りを一言で言うと、「集落の東谷と西谷の二つの地区が栽培している里芋のうち最も丈の長いものを両地区の境にある野神山に運び上げ、特設の祭場で儀礼的にその長さを競いあう行事」となるが、大きくは以下の要素にまとめることができる。

 

① 西と東がそれぞれでトウノイモという独特の里芋を栽培し、里芋を青竹に括り付けその長さを儀礼的に競い合う。

② 子どもの「山子」、青年の「山若」、長老の「おとな(宮座)」という年齢階梯制により祭祀が運営されている。

③ 東西両地区の境にある野神山という祭場で儀式が行われ、祭場は床面に河原の石を敷き詰め、その周囲を竹矢来で囲んだ独特の空間である(写真2)。

④ 祭りに供せられる神饌は独特なものが用意され、儀式の中で献じられる(写真3)。

⑤ 祭場での儀式は山若が中心となって行い、山若は一番尉いちばんじょうから七番尉までの七名で、各山若には決められた役割が与えられており、東西それぞれの作法に則り進められていく。

⑥ 「芋打ち」という芋の長さを比べる儀式は東西どちらかが負けを認めるまで何度も続けられ、西が勝てば豊作、東が勝てば不作と言われるが、勝負がつくとそれぞれの芋を交換し、東西の融和が図られる。

 

ぜひとも現地でご覧いただきたい祭りである。

写真2 野神山の祭場(撮影:筆者)

写真3 芋競べ祭りで用意される神饌(撮影:筆者)

芋競べ祭り継承の危機

2016年(平成28年)の夏頃、この年の祭りが行えないかもしれないという情報が町教育委員会を通じて飛び込んできた。当時、我々は、祭りを継承していくのはたいへんな状況にはあるが、祭りを中止するところまでは至っていないと認識していたため、たいへん驚き現地に急行した。状況をお尋ねすると、山若から祭りへの不参加の申し出があったというもので、やはり、「人」と「熱意」という継承課題が噴出したものであった。

 

地域では、おとな、両自治会から選出された方、東西の自治会長など、9名により構成される検討委員会が設けられ、中止、継続も含めて議論することとなった。

当方では、文化庁の民俗文化財担当の調査官に状況を報告し指導を受けるとともに、地元にお願いし、検討委員会を傍聴させていただくこととした。

 

初回の検討委員会は、2016(平成28)年7月28日に開催され、座長の選出や検討委員会設置に至る経緯の情報共有、今年の祭りは代理の山若を立てて例年通り実施すること、次年度以降の祭りについて検討することなどが申し合わされた。当方からは、この祭りが指定されている理由とその重要性などについて説明をさせていただいた。以後、月1度のペースで会議を行い、2017(平成29)年3月末をめどに結論を出すこととなった。

 

第2回は9月13日、第3回は10月13日に開催された。両回では各委員から率直な意見が出された。

芋競べ祭りにおける主役は、東西それぞれの山若であるが、山若は13歳になると山若の一番下の七番尉(もしくは六番尉)として入り、最終的に一番尉を務めて山若卒業となる。新たに山若が入ってくることにより、一番年長の山若が晴れて卒業できるという、いわゆる「ところてん突き出し」の方式のしきたりとなっている。

 

山若となる青年は進学や就職などにより地域に住んでいない者も多く、祭りには地元に帰ってきて務めている。地域には現在、山子となる子どもが数名しかおらず、そういった状況の中で、現在の山若の多くはこの先も山若を卒業できないという事が自明となっている。十数年山若を務め続けている者もいるなかで、これから先いつまで山若を務め続ければよいのか、これ以上、山若を務め続けることは難しいと訴えたのである。山若の主張ももっともであり理解できる。

 

また、野神山の祭場は、山子が中心となり、草刈りや石ならべなどの整備が行われてきたが、近年は山子だけでは整備できないため地域在住者が総出により行うなど、祭りの準備などについて負担が増えていた(写真4)。

写真4 山子による祭場の整備(撮影:筆者)

会議では、県内大学生に応援を頼む案、野神山の祭場をコンクリートで固めてしまう案や野神山での行事を熊野神社で行う案、神饌を簡略化するなどさまざまな意見が出された。また、単に祭りを「続ける」という言葉についても個人によりその捉え方はさまざまであり、祭場に芋を供えることだけを行うことや熊野神社で神事を行えば祭りを「続ける」ことになるという意見もあった。さらには祭りをやめてしまうことも致し方なしという意見や行事のかたちを変えてでも続ける必要があるのかとの意見も出された。

 

この2回の委員会では祭りを現状のまま続けることは困難であるが、安易に中止するのではなく、なんだかのかたちで続けていくことが確認された。

芋競べ祭り継承に向けた検討

写真5 神饌のオリ(御鯉)作り(撮影:川島朱実)

第4回は11月16日、第5回は12月15日に行われ、実際にどのようにすれば継承していけるのかについて具体的な議論が行われた。検討委員会として当面今後10年間の継承を目標として以下のような検討案が取りまとめられた。

 

① 山若の役を務める年齢に関するしきたりを緩和するとともに、東西それぞれの山若役を両地区全体で担うことができようにすること。

② 多くの人の協力が得られるようにするため祭礼日を9月第一日曜日とすること。

③ 祭場はこれまで通り野神山とし、祭礼日までに両地区において整備すること。

④ 神饌の準備はこれまで通りとするが、個人ではなく地区として準備することも可能とすること(写真5)。

⑤ 行事の内容は可能な限りこれまで通りとすること。

⑥ 保存会は氏子全員を会員とし、祭りを継承していく組織として機能するよう規約を改訂し役員構成などの体制の強化を図ること。

 

以上のような検討案が取りまとめられ、検討委員会としては祭りを何とか残し、続けたいという気持ちを強く持って全区民に示すことが重要であるとの意識統一を行い、東西両地区それぞれで2月に行われる住民総会(中山では「総寄り」と称されている)に諮ることとなった。

各地区2017(平成29)年2月19日に行われた総寄りの結果を受けて第6回は3月17日に行われた。西では祭りの実施は困難であるとの意見もあったが、山若など祭りに参加できる人を集める努力をするとともに、東の支援を受けてでも続けていこうとのことで意見が一致した。東は可能であれば現在のかたちを維持しつつ祭りを続けていくことで意見が一致した、とそれぞれの報告があり、両地区の総寄りにより検討案の同意が得られた。保存会の新しい会則を全戸に配布し周知を図るとともに、検討委員会の委員を中心に保存会の新しい体制が発足した。

 

以上、9か月6回にわたり議論が積み重ねられてきた結果、地域の総意としてできる限り芋競べ祭りを継承していこうという結論に至ったのである。

2017年以降の芋競べ祭り

ではその後、芋競べ祭りがどうなったかについて記しておく。新しい保存会が発足し、2017(平成29)年9月の祭りに向けて準備が進められた。具体的には、まずは東西それぞれにおいて山若役として参加してもらえる人を探すということである。

 

東の山若は、これまで通り青年が務めることが決まったが、西の山若は難しい状況であった。日頃は中山を離れて暮らしているが、比較的近年まで西の山若を務めていた山若OBの方3名がこの危機に手を挙げてくださった。あと3名の山若は地区在住で、はるか前に山若を卒業した方(自称「山老」)が務めることとなった。祭礼当日は天候にも恵まれ野神山の祭場において祭りが行われた(写真6)。

 

2018(平成30)年、2019(令和元)年も同様に、西の山若OBの方々、山若を長男だけで務めていた時代に次男であるため山若未経験の方など、西の山若は西の出身者、東の山若は東の青年が山若を務めるかたちで例年通り祭りが行われた。検討会後、3度の祭りが無事に行われたこととなる(写真7)。

写真6 2017年の芋競べ祭り(撮影:筆者)

写真7 2018年の芋競べ祭り(撮影:筆者)

あらためて振り返って

検討会を拝聴していた感想としては、これまで西と東ではお互いの内情についての情報共有はオフィシャルな場においてほとんどなされてこなかったようである。それは西と東が対抗するこの祭りの性格によるものと言ってしまえば当然であるが、やはりそこには、苦しい台所事情はお互いに知られたくないということであり、その気持ちも理解できる。今回、東西の両者が一堂に会し検討が行われたことは、祭りの継承にとってたいへん意義があったと言える。

 

また、「氏子」以外の人たちを迎え入れて継承していく意見については賛同を得られなかった。芋競べ祭りは年間を通して行われている神社の祭りの一つであると認識されており、その根幹には氏神への崇敬の念が大切にされていると感じた。

 

今回の危機を通して、地域の人たちが自分たちの文化についてあらためて確認を深める機会となり、祭りを何とか残し、次の世代に引き継ごうという意識を共有する機会となったに違いない。

見学者からは、西の山若の所作や身のこなしは例年にも増して良くなっているとの感想を聞いている。山若役の祭りにかける思いが表出しているのであろう。

 

今回の検討が始まった段階ですでに祭りの存続は危機的な状況であったが、当方としてはなんとか祭りを続けてもらえないかということを願いつつも、地域の皆様の思いを最優先にと考えていた。検討会の段階では本当にこの祭りが継承されるのかなかなか確証を持てなかったことも事実である。

 

芋競べ祭り継承の危機は、地域自らの力で乗り切ることができた。

おわりに

芋競べ祭りでは、継承の最大の課題であった「山若」役について、年齢に関するしきたりを緩和するとともに、東西で山若役を融通しあえるように大幅なしきたりの改訂が行われた。しかし、結果的には、東西それぞれにおいて山若を確保することで祭りが継承されている。これは、祭場における儀式の作法が、東西それぞれで微妙に異なるため、山若をコンバートすることは容易ではないという事情があるにはあるが、地域の人々の思いはそれほど簡単に東西を行き来できるものではないことを示している。これこそが民俗文化の持つ力であり、地域と祭りが持つ底力であると言える。

 

西の山若OBの方にどうして今回、卒業した山若を再び務めるのか尋ねてみた。「東から人を借りる事なんてできない。自分たちの代でそんなことしたら、何を言われるかわからない」とおっしゃられた。この言葉は偽らざる本音だろうが、この何かを言うのは誰か。当然、今の人達もあろうが、彼の頭の中には、自分たちの先祖、そして子孫があったに違いない。

 

祭りを受け継ぐ人たちの心の中には、過去と現在、未来をも含めた経糸と、生まれ育った地域に対する思いや誇り、意地、神仏への信仰という緯糸が複雑に絡まる葛藤のなかで祭りを続けておられるのだと思う。

そういった葛藤が何人分も合わさり撚りがかかり束となったものが祭りであり、太く強くそう簡単に切れはしないし、まるで生き物のように動き続けるのである。

 

2020(令和2)年の芋競べ祭りは、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて中止となった。2021(令和3)年は平穏な世の中でつつがなく開催されると信じ楽しみに待ちたい。

  • 滋賀県内の現在の祭りの現状と課題、継承への取り組みについては、次の報告を参照いただきたい。「滋賀の祭りの現状と課題~アンケート調査の結果から~」「継承へ それぞれの模索 県民俗文化財保護ネットワークが見た5年」『季刊 湖国と文化 第168号 特集 近江の祭り 現在と未来』(公財)びわ湖芸術文化財団、2019年
  • 「近江中山の芋競べ祭り」の詳しい解説は以下の通り。
    近江中山の芋競べ祭りは、中山地区の人々が長きにわたり栽培してきた作物の一種、トウノイモ(唐の芋の意。里芋の一種)の根元から葉先までの長さを儀礼的に競い合い、地区の融和をはかり、生業(畑作、稲作など)の発展を期そうとする行事である。
    この祭りは記録によると、古くは8月行事(旧暦)としてなされていたことが知られる。現行のように9月1日に定着したのは昭和46年以降のことである。
    この祭りは、山子→山若→勝手→おとな(宮座)と連なる年齢階梯的秩序を伴う厳格な宮座制に基づき、整然とした役割分担で準備がなされ、次第が進行する。
    諸準備は基本的に東谷区・西谷区の地区別に分かれ、祭りとの関係や役割分担などとの関係で、各会所・おとなの神主宅(最長老者の家屋)・熊野神社(中山区の氏神)・同社務所およびノガミヤマ(野神山。東谷区と西谷区の境界に位置し、芋競べ行事がなされる)などで行われる。
    山子は数え年8歳から14歳までの男児で、ノガミヤマにある祭場内のイシメクリ(敷石めくり)・イシアライ(敷石洗い)・イシナラベ(改めて敷石を並べる)などが主たる役目である。
    山若は山子を経験した者のうちで数え年16歳以上の者(年長順で定員制。7人)でトウノイモを厳選したり、それを孟宗竹に飾り付ける作業のほか、ナラシと称して本番に備えての練習を積み重ねる。
    勝手は山若の経験者が年長順(当番制。1、2名)に就き、祭りに必要な神饌(オリ〈御鯛。鯛の形をしたもの〉、ブト〈伏兎。白餅ともいう〉、センバ〈ズイキの酢のもの〉、ササゲ〈大角豆。味つけした煮もの〉など)や調度品を確認し、祭りの次第に応じて必要なものを調えたり、おとなの会合に給仕役を務める。
    おとなは勝手の経験者が年長順(定員制。東谷区・西谷区各六人で12名)に就き、芋競べ祭りを含めた地区内の神事一切に責任を持つ。
    祭り当日は、熊野神社の社務所で宮座行事がなされ、続いてノガミヤマへ登って芋競べを行い、その後熊野神社へ帰って祭りの終了行事がなされる。
    山若と山子が、各地区別に列をなして孟宗竹に飾り付けられた芋を担ぎ、決まりの道を通り、竹の菱垣に囲われた祭場にいたる。祭場における東西の境目にあるイモイシ(芋石)を基準に、それをはさんだ左右に東谷区・西谷区の山若・山子が所定の座に着くと、ニバンジョウ(山若のうち2番目の年長者)の発声で、相手方のニバンジョウの確認をとり、東西各々が個別に伝言する形式で進行される。祭りの次第はいずれも特徴ある口調(あるいは口上)と所作で進められ、定型化されている点が注目される。
    この芋競べ祭りは、対象となっている競べもの自体において全国的にみてもきわめて珍しく、もの競べを通しながらも最後には地区(村落)が一体に融和される点でも特色を持っている。(出典:文化庁HP 国指定文化財等データベース「近江中山の芋競べ祭り」 https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/302/95)

公開日:2020年6月15日

矢田 直樹やだ なおき滋賀県文化スポーツ部文化財保護課主査

1975年生まれ。関西大学大学院文学研究科史学専攻博士課程前期課程修了。専門は日本民俗学。
1999年生駒市教育委員会事務局生涯学習部生涯学習振興課を経て、2010年から滋賀県教育委員会事務局文化財保護課に勤務。民俗文化財を中心に、無形文化財、選定保存技術の保護なども担当。著作に「盆行事における精霊祭祀の変遷―塚状祭場を中心に―」植木行宣・樋口昭(編)『民俗文化の伝播と変容』(岩田書院 2017年)などがある。