歴史・民俗学
江戸のパワースポット巡り ②庶民信仰で人気だった寺社
北渓写「東都金竜山浅草寺図」(国立国会図書館ウェブサイトから転載) 浅草寺は広大な寺域をもち、開帳や富くじも頻繁に行われていた。北側には新吉原が、東側には隅田川があって、境内と門前町は江戸屈指の盛り場となっていた。
現在、正月になると多くの人が初詣に訪れるが、こうした風習が定着したのは明治時代のことで、幕末の江戸の人たちは地元の氏神社や、その年の恵方にあたる寺社に参詣するのが一般的だった。
江戸では18世紀中頃になると、日帰りで出掛けられる江戸とその近郊の寺社が注目されるようになった。五不動・六地蔵・六阿弥陀や七福神めぐりなど1~2日で参詣できるものから、御府内八十八ヶ所参り・弁財天百社参りなどさまざまな巡拝コースが誕生したことや、講という信者組織によって富士山や大山などに数日から1ヶ月ほどかけて参詣の旅に出る者も増えていった。
彼らのなかにはストレス発散や娯楽を求めて寺社を訪れる者、自然とのふれあいや名所・名物を堪能して好奇心や知識欲を満たす者、何らかの願いを果たすために願掛けをする者などさまざまであった。天保5・7年(1834・36)に刊行された『江戸名所図会』で紹介されている名所の大半が寺社であることからも、江戸の人々にとって寺社が身近で魅力的な存在だったことがわかる。そしてこれらの足跡は、現代の東京にも断片的に残されているのである。
江戸の稲荷
江戸に多いものとして、「伊勢屋稲荷に犬の糞」という表現があるが、実際に江戸には大小さまざまな稲荷社があったことが知られている。武家屋敷では屋敷神として稲荷が祀られることが多く、また各町には複数の稲荷社があって、2月の初午(はつうま)のときには特に賑わったという。
なかでも王子稲荷(東京都北区岸町一丁目)は「関東惣社」と称し、大晦日の深夜、関八州の狐たちが官位を乞うため装束を身にまとって参詣に来るといわれ、別格の稲荷社とされていた。江戸中期からは風を切って上る凧をモチーフとした火除けの凧守が評判となり、現在でも初午には凧市が開かれている。
王子稲荷と並んで人気を集めたのが、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征中に創建された由緒をもち、「関東惣司」を称する妻恋稲荷(現妻恋神社 東京都文京区湯島三丁目)で、正月2日の夜に枕の下に敷いて寝るとよい夢を見るという宝船の図柄の「夢枕」が売り出された。
また、外堀の神田川沿いにあった三崎稲荷(東京都千代田区神田三崎町二丁目)は、初午に疱瘡(ほうそう 現在の天然痘)の薬を出すことで知られていたほか、参勤交代で大名が江戸に入る際にはここに参拝し、帰国する際には道中安全を祈願したといわれ、現在では交通安全の御利益があることで知られている。
稲荷のなかには流行神と化すものもあって、宝暦頃に江戸橋広小路周辺の道路拡張で土中から出現した翁稲荷(現在日枝神社日本橋摂社境内の明徳稲荷神社に合祀)の事例がある。粗末に扱う者に祟りを引き起こすこの稲荷の霊験が説かれるようになると、またたく間に参詣者が群集をなしたという。その後、嘉永2年(1849)に再び流行り出し、咳止めのご利益があるとされた正受院(東京都新宿区新宿二丁目)の奪衣婆(だつえば)像とともに一時的な社会現象となった。
神仏のデパート・浅草寺
江戸最古の寺院である浅草寺(東京都台東区浅草二丁目)は、推古天皇36年(628)3月18日に地元の漁師の網にかかった観音像を祀ったことに由来し、本堂には多くの参詣客を集めている。その一方で、稲荷・地蔵・不動・薬師・弁財天・恵比寿・大黒天などさまざまな末社や小祠が境内の各所に所狭しとあって、あらゆるご利益に対応していたことや、本堂裏手の「奥山」といわれる一帯を中心に見世物などの興行が盛んに行われていたことにも大きな特徴がある。
なかでも7月9・10日の千日参(四万六千日)は「昼夜参詣の老若引もきらず」(『東都歳事記』)というほどで、このとき境内で赤いトウキビを売ることで知られていた。これを買い求める人々は、天井や軒端にこれを吊るして雷除けの守札としたが、現在でも浅草寺では雷除の札を発行している。
また、現在宝蔵門(仁王門)の右手にある久米平内堂は縁結びのご利益で知られる。これは久米平内という武士が多くの人を殺めたことを悔い改め、自らの像を刻んで浅草寺の参詣者に踏みつけさせたことに由来するという。その後、境内にお堂が建てられ、この踏みつけが恋文を付けると解釈されるようになった。そして宝蔵門内の中は江戸時代、毎月8日に公開していて、まだ疱瘡に罹っていない子供に向かって右側の仁王尊の股をくぐらせると、疱瘡に罹っても軽く済むといわれ、この日には多くの子供が訪れたという。
その他にも節分のときに観音堂で出される守護札は厄災除け・安産に効があるといわれ、奥山左方の三途の川の老婆像には口中の病をもつ者が願掛けに訪れるなど、浅草寺にはさまざまな願いを抱えた人々が絶えず訪れていたのである。
武家屋敷の神仏
二代歌川広重「江戸名勝図会 虎の門」(国立国会図書館ウェブサイトから転載) 丸亀藩京極家の上屋敷は外堀の虎ノ門見附の外にあった。本図には10日の公開日に町人たちが次々に門をくぐっている様子が描かれている。
江戸には大名家の江戸屋敷や旗本屋敷が建ち並んでいたが、これらのなかには邸内に国元の大社や氏神を勧請し、特定の日に江戸市民に一般公開する場合があった。なかでも大岡忠相(ただすけ)の立藩した西大平藩では、文政11年(1828)、領内豊川村妙厳寺の荼枳尼天(だきにてん)を赤坂の下屋敷内に鎮守として祀るようになった。これが豊川稲荷で、現在曹洞宗妙厳寺東京別院として、都内では珍しい仏教系の稲荷となっている。
同様に、赤羽の久留米藩有馬家上屋敷に文政元年(1818)に勧請された水天宮(のち、明治5年に日本橋蛎殻町に移転)、延宝7年(1679)に虎ノ門に屋敷拝領以来国元の金毘羅社を祀る讃岐丸亀藩京極家上屋敷などがよく知られているが、水天宮は毎月5日に、金毘羅社(現虎ノ門金刀比羅宮)は毎月10日に藩邸内を一般に公開していたため、その日には多くの参詣者を集めた。
一方、旗本のなかでも屋敷内の神仏の利益を謳う場合があった。たとえば、江戸ではまじないとして野狐に化かされることを防ぎ、狐憑きを落とす効果があることで知られていた「能勢の黒札」といわれる護符があった。これは表面を黒々と塗った札で、旗本能勢家が2月の初午の大祭のときに外神田の上屋敷内の鷗稲荷から発行していた。能勢家は領地の妙見信仰をもとに本所の下屋敷にも妙見堂を建て、勝小吉が息子麟太郎(海舟)の開運を祈願したことで知られる。明治維新後、能勢家の屋敷は取り払われるが、下屋敷内の妙見堂だけは残り、上屋敷内の鷗稲荷もこの境内に移され、現在に至るまで黒札は魔除けの札として発行され続けている。
現在の「能勢の黒札」 筆者所蔵
また、麻布一本松に屋敷を構える旗本山崎家では、屋敷内に蝦蟇池と呼ばれる池があり、ここにはあるとき池の主の蝦蟇蛙が家臣を池に引きずり込んで殺してしまったお詫びに、池の水で書いた札を火除の札とする方法を教えたという伝説があった。これが「上の字様」と呼ばれる札で、防火や火傷に効果があるとされ、蝦蟇蛙が付近の大火から屋敷を救った直後の文政4年(1821)から売り出した。この札は明治維新後は山崎家の家臣だった清水氏が発行していたが、やがて近隣の末広神社から出されるようになり、現在は十番稲荷神社(東京都港区麻布十番一丁目)から授与されている。
なお、「清正公様」で親しまれている白金の覚林寺(東京都港区白金一丁目)は、寛永8年(1631)に熊本藩細川家の中屋敷跡地に日延が創建したものである。日延は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられた李氏朝鮮の王子で、加藤清正を祀った清正堂を建立した。清正の武運にあやかり、勝負祈願の寺と知られ、現在でも葉菖蒲の入った「勝守」が頒布されている。
願掛け・まじないと神仏
王子権現の鎗祭(『江戸名所図会』、国立国会図書館ウェブサイトから転載) 7月13日の祭礼では、「参詣の輩、神前に小き鎗を納め、先に余人の納る所の鎗と取かへて家に収め、火災盗難除の守とす。翌年此鎗に一本を添て奉納す。故に又やりまつりともいふ。」(『東都歳事記』)といわれ、火災避け・盗難除けの鎗を取り交わす風習があった。
願掛けやまじないといえば、両国回向院(えこういん)(東京都墨田区両国二丁目)にある鼠小僧の墓石を削ると金運や勝負運が上がるとか、巣鴨の高岩寺の本尊延命地蔵尊(とげぬき地蔵)の御影を患部に貼ったり、喉に骨が刺さったとき飲んだりすると治るといわれるなどの独特の風習があるが、江戸では特定の神仏に願掛けをし、無事に成就した際には御礼として何らかのものを納めるという習慣があった。文化11年(1804)に刊行された『願懸重宝記』には、江戸で代表的な願掛け31例が紹介されている。その願いはさまざまだが、医療事情が未成熟だった当時は病気平癒を祈願するものが多い傾向にあった。
例えば、小石川の源覚寺(東京都文京区小石川二丁目)の閻魔像は「こんにゃくえんま」と呼ばれ、眼病治癒にご利益があるとされ、こんにゃくを備える習わしがある。また、本所業平橋西詰の南蔵院(関東大震災後に葛飾区東水元に移転)は「しばられ地蔵」で有名である。これは石の地蔵尊に願い事を掛けながら縄を掛け、願いが叶ったら縄を解いて花を供えるというもので、現在も大晦日の夜に縄解き供養が行われている。
また、鈴木春信の錦絵で知られる谷中笠森稲荷の水茶屋鍵屋のお仙も願掛けと深い関係性があった。そもそも笠森稲荷(東京都台東区谷中七丁目)は「瘡守稲荷」とも表記し、疱瘡や腫物の治癒に効果があるとされていた。祈願する者は土の団子を供え、無事治癒すれば御礼参りをしたうえで、今度は米の団子を供えたというのである。つまり、笠森お仙はこの祈願掛けで訪れる参詣客に団子を売る水茶屋の集客競争を有利に勝ち抜くために売り子として選ばれたわけであり、器量のよいお仙が店頭に立ったということになる。お仙の人気はこうした参詣客の評判から発したものだったのである。
このように、江戸の神仏は当時の社会状況を反映した独特の慣習を持っていたが、中身は現代の人々とさほど変わっていないこともわかるだろう。江戸の人々が神社仏閣に向けた想いは、時空を超え形を変えパワースポットとして現代に受け継がれているのである。
笠森稲荷(『駿河舞』2巻、国立国会図書館ウェブサイトから転載) 鳥居の下の女性がお仙と思われる。手に持った団子の皿が願掛けに用いられるのである。
公開日:2019年1月22日