歴史・民俗学
岩手県から北海道へ渡った神楽
写真1 かつての展示の様子
明治末から大正時代にかけて岩手県からの移住者によって北海道にもたらされた早池峰神楽系の神楽。彼等が持ち込んだ神楽関係資料を用いて、虻田郡ニセコ町を中心に道内10地区で奏上していた狩太神社神楽を紹介する。
北海道博物館のクローズアップ展示
北海道博物館では、平成27(2015)年のオープン時から総合展示内にクローズアップ展示を7カ所設けている。この展示は、資料や話題を定期的に入れ替えるコーナーで、それぞれの担当ごとに新たに収集した資料の公開や資料の劣化を防止するため、年に3回から6回の展示替えを行っている。
表1 厚沢部町から収集した神楽関係資料一覧
筆者は、総合展示3テーマ「北海道らしさの秘密」にあるクローズアップ展示5を担当する1人として、厚沢部町から平成24(2012)年に収集した神楽関係資料(表1、計24点:舟山ほか、2013;舟山、2014)を、令和2(2020)年度においても、4月11日(土)から8月13日(木)まで、写真1のように展示する予定である。
写真2 神楽講社札表
写真3 神楽講社札裏
「神楽講社札」と「神楽聲聞記」の資料的価値
収集した神楽関係資料は、岩手県から北海道への団体移住の一形態として神楽衆が存在していたことを示している。とりわけ、神宮教岩手本部発行の明治22(1889)年の「神楽講社札」(写真2・3、表1-18〜24)や、虻田郡ニセコ町の狩太神社の神楽本である大正3(1914)年の「神楽聲聞記」(写真4・5、表1-17)の情報は、岩手県花巻市大迫町の神楽衆が北海道で活動した実態を示す上で、その資料的な価値は極めて高い。
写真4 「神楽聲聞記」(1914)表紙
写真5 同左、裏表紙
中村良幸(註1)氏は、「神楽講社札」(1889)に記された稗貫郡外川目村の住所や古老の聞き取りから、現在の花巻市大迫町外川目の「合石や栃沢出身の人達」が持ち込んだことを明らかにした(中村、1991;50-52)。合石地区の神楽について、昭和15(1940)年に発行された外川目尋常小学校編『郷土教育資料』を引用し、「今から百年前に合石部落に創められ、中絶して後明治卅九年、内川目村大償神楽を師として復活した」こと、あわせて「一時は、衰微したるも、大正六年頃よりまた復活して現在に至る」ことをあげて、合石神楽(註2)の伝承過程を示している。
これによると「神楽講社札」は、明治39(1906)年に大償を師匠とする以前の古い形態の神楽を保持していた合石地区の神楽衆の存在と活動の根拠になる資料といえる。
写真6 「神楽聲聞記」(1914)の「月名付」(7月~12月)と奥付
次に、「神楽聲聞記」の奥付にある天明年中(1781-
写真7 「神楽聲聞記」(1914)に記された神楽祭の役と「月名付」(1月~6月)
合石神楽と狩太神社神楽について
門屋光昭(註3)氏は、厚沢部町の神楽関係資料を詳細に検討するとともに、伝承元と伝承先の聞き取り調査を行い、合石神楽の北海道移住、狩太神社神楽の結成と消長を報告している(門屋、1993)。まず、7枚の「神楽講社札」の内、北海道へ移住したのは、第187号(表1-24)の佐藤政蔵としている(門屋、前掲;35)。
政蔵は、神楽仲間の月当番を記したと思われる「月名付」1月の久右ヱ門(写真7)、5月の久吾(写真7)、久三の父である(門屋、前掲;41)。そのほか神楽仲間には、佐藤千代松家、佐藤久八家、佐藤村松家、佐藤倉松家、佐々木萬吉家、佐々木巳之松家、佐藤才四郎家の家族と、佐藤政蔵家を加えて8家族が神楽に関わっていることを明らかにした(門屋、前掲;41-42)。
写真8 「神楽聲聞記」(1914)に記された回村巡業先の町村と神楽祭入用物
家族の渡道時期は、外川目村より虻田郡狩太村昆布番外地、現在のニセコ町へ入植した佐藤貞蔵の転籍届から明治39(1906)年頃と推定している(門屋、前掲;42)。狩太神社神楽の成立年は、「神楽聲聞記」をまとめた大正3(1914)年とし、昭和10(1935)年前後まで、狩太神社を本拠地としながらも他の町村へ回村巡業(通り神楽、写真8)などの活動をしていたとする(門屋、前掲;52-55)。
図1 合石神楽と狩太神社神楽の位置図
8家族はニセコ町周辺に移住後、滝川市へ「月名付」8月の時蔵(写真6)がいる佐々木萬吉家が明治40(1907)年に転籍したほか、厚沢部町には「月名付」9月の辰蔵(写真6)と3月の新八(写真7)がいる佐藤久八家が大正元(1912)年、そして佐藤政蔵の家族が大正4(1915)年に転籍、さらに常呂郡置戸町へ「月名付」6月の村治(写真7)がいた佐藤村松家が昭和2(1927)年に転籍している(門屋、前掲;45-48)。ニセコ町の狩太神社周辺に残ったのは、「月名付」2月の菊蔵(写真7)と4月の村蔵(写真7)のいる7月の佐藤千代松家(写真6)、11月の亀次郎(写真6)がいる佐藤倉松家、12月の嘉壽(写真6)がいる佐々木巳之松家、10月の長次郎(長二郎)(写真6)がいる佐藤才四郎家となる(門屋、前掲;48)。
つまり、大正3(1914)年の狩太神社神楽の結成の時点で、「月名付」3月の佐藤新八、8月の佐藤時蔵、9月の佐藤辰蔵の3人は町外から神楽仲間に参加していたことになる。しかも、「神楽講社札」の当事者である佐藤政蔵家の「月名付」1月の久右ヱ門、5月の久吾、久三の3人は、大正4(1911)年には町外となっている。
写真9 権現様
写真10 胴幕向かって左側(部分)
写真11 同左右側(部分)
神楽仲間の動向
大正10(1921)年に新調された権現様(写真9、表1-1)の胴幕(写真10、11)には、10名の名前がみられる。門屋光昭氏によると、胴幕の名前の内、神楽仲間に記載のないのが佐藤時蔵と佐藤新蔵で、佐藤時蔵は佐々木時蔵と判断している(門屋、前掲:39)。実際には、久三、副寿の記載もない。
表2 「神楽聲聞記」(1914)の「月名付」にある名前と胴幕にある名前一覧(舟山、2014:254)
大正3(1914)年当時の「月名付」の名前と胴幕の名前を整理すると表2のとおりになる。ここで推論の域はでないが、「月名付」3月の新八は、昭和26(1951)年に没するまで神楽仲間を抜けた形跡がないことから、新蔵は新八の誤記ではないかと考えている。副壽は、「月名付」12月の嘉壽の行下に追記された「福寿」のことと思われる。
「神楽聲聞記」にあって胴幕に記載がないのは、「月名付」6月の佐藤村治と、大正9(1920)年に亡くなった9月の佐藤辰蔵のほか、11月の佐藤亀次郎、12月の佐々木嘉壽である。辰蔵の欠員は、「月名付」10月の長次郎が9月に移り、新たな10月を久三が受け継ぐ。同時に、久右ヱ門は1月から4月、菊蔵は2月から3月、村蔵は4月から5月、久吾は5月から7月、村治は6月から8月、千代松は7月から1月、時蔵が8月から2月に変更となっている。この変更や佐藤政蔵一家の転籍により、千代松、菊蔵、村蔵の3世代が名実ともに神楽仲間の主体となったのではないかと考える。また、胴幕に記載のない村治が担当していた「月名付」の8月は、7月の久吾を再度変更し、空いた7月に芳三が追記されている。
このように「月名付」には、転籍などの脱会者や死亡者に「×」、「死」、新たな担当者が追記される。これらの追記によると、狩太神社神楽の「月名付」は、大正3(1914)年の設立から7カ年の間に、少なくとも2度の変更があったことがわかる。また、胴幕(写真10、11)の名前は、道央から道南までの広い範囲に分散した神楽仲間が、大正10(1921)年以降も集まって活動したことを示しているのである。
写真12 「神楽聲聞記」(1914)に記された神楽由来
権現様の胴幕にある「天照皇大神」(写真9)は、狩太神社の祭神とは結びつかない(舟山ほか、2013:313)。胴幕の祭神の由来として着目するのは、「神楽聲聞記」の表紙裏にある「伊勢大神楽」という記載と(写真12)、神宮教岩手本部が交付した「神楽講社札」を、移住先の北海道にまで持参したことにあると考える。狩太神社の神楽仲間は、ニセコ町の狩太神社の祭礼だけに神楽を奉納するだけではなく、広範囲に活動する根拠とするため、神宮の天照皇大神を新調した胴幕に取り入れたのであろう。
これまで、先行研究を頼りに神楽関係資料について、特に「神楽講社札」、「神楽聲聞記」、権現様の胴幕を再検討してきた。その結果、神楽仲間は、「神楽聲聞記」の成立時期にはすでに、一つの地域に定住して活動することが難しくなっていたことが理解できた。しかも、「神楽聲聞記」には、「月名付」の変更や補充を余儀なくされ、最終的には神楽仲間が半減し、伝承が困難になっていく過程が記されている。
今後も神楽関係資料の精査、検討を進めていけば、合石神楽の古い形態と北海道における早池峰神楽系の神楽の回村巡業の内容を明らかにすることができるのでは、と展示の前に改めて考えているところである。
1.合石神楽(あわせいしかぐら):花巻市大迫町外川目の合石集落に江戸時代末期から伝わる早池峰神楽系の神楽
2.中村良幸:花巻市総合文化財センター文化財専門官
3.門屋光昭:民俗学者(1946-2007)
参考文献
門屋光昭 1993「北海道に移住した芸能集団の消長―早地峰系合石神楽の場合―」『民俗芸能研究』第17号、pp.20-59
中村良幸 1991「北海道に渡った神楽文書―その発見の経緯と内容―」『早地峰文化』第4号、pp.46-54
舟山直治、池田貴夫、村上孝一 2013「厚沢部町から収集した神楽関係資料」『北海道開拓記念館研究紀要』第41号、pp.287-326
舟山直治、2014「神楽関係資料からみた移住者の祭神と神楽の伝承(一)」『北海道開拓記念館研究紀要』第41号、pp.287-326