歴史・民俗学
琉球・沖縄の三線―「ウトゥイムチ(おもてなし)」の体現の器―
もてなすこころ
2020年の東京オリンピック誘致のコンセプトの一つは「O・MO・TE・NA・SHI」だった。ホスピタリティの高さが世界の共感を呼んだ。半世紀前の東京オリンピックは、1964年のことであった。当時は戦後19年目でアジア初の開催であった。世界で唯一の被爆国の戦後復興を印象づけることが、当時の誘致コンセプトであったように思う。それから半世紀を経て、日本人の季節感や繊細な気質をはじめ、食文化においても「和食」が世界遺産として世界で共有されてきた。そこには味わいのあるおもてなしの心がある。国によってその方法は異なるものの、もてなす心には普遍性があるように思う。
琉球国の王城・首里城には、王殿につながる七つの門があった。その外門には「守禮門」があり、「守禮之邦」の扁額※1が掲示された。また、城内の第一門の「歓会門」には同一名の扁額が掲示され、おもてなしの心を感じ取ることができる。そのことは、賓客への礼節を重んじ歓待する心を表している。沖縄のことばにも、「ウトゥイムチ(お取り持つ)」という、おもてなしを表すことばがある。人と人(の縁)を取り持つことが、もてなすという意味になる。
現存する琉球最古の石碑は、1427年に建立された「安国山樹華木之記碑」というものである。ここには、首里城外苑の安国山に樹華木を植栽し、遊覧できる場所として整備したことが刻まれている。また、1458年に鋳造された旧首里城正殿鐘(一名:万国津梁の鐘)には「異産至宝十方刹」の銘文も刻まれ、多くの外国の産物や宝物が国中にあふれる国家像が描かれる。これらは王国の権威とともに、賓客をもてなす国家の心構えを示している。
描かれる「ウトゥイムチ」
さて、王国時代、琉球の官吏たちは冊封使※2たちを数ヶ月にわたってもてなした。冊封使録の『中山伝信録』(1721)には、首里城内で冊封使一行をもてなすために特設舞台を設けた中秋の宴の状況が描かれる。
『中山伝信録』(1721)に描かれた中秋の宴の図 沖縄県立博物館・美術館所蔵
また、絵画資料の「進貢船の図」にも、琉球の市井の人々のもてなしの光景が描かれる。この絵には、那覇港にくりだす多くの琉球の人々の姿が描かれ、その中心に帰国した琉球船(進貢船)の姿が大きく描かれる。その周囲に目を移すと、数隻の小舟が描かれる。小舟をさらに詳細に見ると、なんと海上で楽器を奏でる姿を見ることできる。
「進貢船の図」 沖縄県立博物館・美術館所蔵
「進貢船の図」の部分アップ 沖縄県立博物館・美術館所蔵
三線への関心がなければ、小舟で三線を演奏する人にもさほど注意が払われることはない。ここでは三隻の小舟で演奏される5挺の三線を確認することができる。このような場面でも、三線は演奏された。弾き手は、士族ではなさそうである。市井の人々である。海上でどのような楽曲を弾いていたのであろうか。よくよく耳を傾けると、潮騒に混ざって、人々の歓喜のざわめきと、舟上で奏でられる三線の音色がかすかに聞こえてくるようである。「この絵に別の画題を」と尋ねられたら、「進貢船と琉球人のウトゥイムチの歓喜」と題するだろう。
現在、首里城や那覇港が描かれる屏風絵が5点確認されているが、その中にも、舟上の三線奏者たちの姿を見ることができる。これら絵画資料には、琉球の市井の人々の「ウトゥイムチ」のこころがあふれている。
「イチャリバチョーデー」と海外に伝播する三線文化
三線楽は王国時代から賓客をもてなすものとしてあった。一方で、自身の慰めの楽器としてもあっただろうと思われる。400年の歳月を経て、今日三線楽はますます隆盛をきわめ、王国当時の奏楽人口をはるかにしのぎ、県民のみならず、国内外の多くの人々に楽しまれている。
近代になると、沖縄県は海外移民を多く輩出する県になった。地租改正にともない、土地の私有化が始まり、税は物納税から現金税へと変化した。そのため、1900(明治33)年頃から「ジン モーキティクーヨ(金を儲けてこい)」と、出稼ぎを目的にしたハワイ、北米、南米などへの移民が始まった。その時、出稼ぎをして儲けて帰ってきた人たちと、現地に残った人たちがいた。その後者の人々が今日、沖縄県系の子孫たちとして、初期移民から4代、5代の世代になっている。世界中には、約41万人ともいわれるウチナーンチュ(沖縄人)がいる。
沖縄のことわざに「イチャリバチョーデー」というのがある。「イチャリバ」とは、「出会う」という意味。また、「チョーデー」とは「兄弟」という意味だ。意訳すると、「出会いは(その縁として)兄弟のような親しい関係の契機になる」。この言葉は来客に対する最高のおもてなしのこころかもしれない。
集落や島に対して、他者が呼ぶあだ名がある。本島北部離島の伊是名島は、「イハジューテー」といわれる。「イハ」とは、その島名を意味する。「ジューテー」の語源はよく分からないが、三線などを演奏する人たちことを「ジューテー」といったりすることから考えると、「イハジューテー」とは、奏楽者が踊り手を支えるように、ウトゥイムチの心を感じる。いずれにしても、もてなしを行う気質のことをいうようだ。島の生活は決して豊かでないが、遠方からの客を接遇する行動原理は、もてなすこころの究極を表しているように思える。
戦前に外国に移民した人々の社会においては、みんなで助け合う相互扶助の精神が豊かであった。貧しくとも心豊かな沖縄の共同体のこころが保たれていた。
こんな体験が私にはある。学生時代、ボリビアからの沖縄県系移民の子弟たちと交流したことがあった。彼らは、その祖父母たちから「ウチナーンチュ」のこころの寛容さと「ユイマール(相互扶助)」を教えられ、大きな期待を胸に祖父母の故郷へやってきた。ところが、戦後復興の中で生活が豊かになり都市化した沖縄は、その心を忘れつつあった。彼らの口から、「『ウチナーンチュ』は思っていた人たちとは異なる」と、祖父母が示した「ウチナーンチュ」のイメージと実像の乖離に悩んでいると打ち明けられたことがあった。
移民した人々は1世紀前に、形見分けとして、または異国で故郷を偲ぶものとして、三線を移民地に持参した。また、大正から昭和始めにかけて、首里や那覇の旧家の多くの秘蔵の家宝三線が、ハワイへ渡った。戦後のハワイでの調査によると、7千挺を超える古三線が確認されている。私はこのことを文化の伝播であり、文化財の疎開だと考えている。地上戦の戦禍にあわずに済んでよかった。世界に散らばる移民による三線持参などを契機に、三線文化は世界中に拡散した。
三線の歴史と三線の特徴
もともと三線楽は、14〜5世紀の中国からの外来文化であった。そこで楽器と奏法が伝播したと思われる。1534年に冊封で来琉した陳侃は『使琉球録』で「楽ハ絃歌ヲ用ヒ、音頗ル哀怨」と記している。また、1575年には島津の殿様の御前で、琉球からの使者が「しゃひせん」を披露したことが、島津家の家老の日記(『上井覚兼日記』)に記されている。『琉球国由来記』(1713年)には、三味線(三線)づくりについて言及があり、南風原や知念の名工を王府が製作者として抱えていたことが分かる。史書『球陽』によると、第二尚氏の尚真王の頃には、士族のたしなみ(学芸)が奨励されており、賓客を歓待するための芸能が発展してきた。組踊創始者の玉城朝薫※3が活躍したのは18世紀初めである。
現在確認される最も古い三線は、下限を1796年とされているもので、徳川美術館(名古屋市)が所蔵する琉球楽器一式21点の中に含まれる三線である。長短の二挺があり、長い方が中国三線で棹長は1mあり、短い方は77cmある。短棹の方が中国三線に比べると1尺ほど短く、今日の三線に準ずる。
琉球の三線の形状を中国の三線と比べると、2カ所に大きな改変がみられる。棹の長さが1尺ほど短棹になったことと、共鳴具である胴の直径が一回り大きくなったことである。これらによって、奏でる音程が高くなり、音量が大きくなった。中国三線は、ベースのような脇役だったのが、琉球三線は、声楽の伴奏楽器として主楽器として躍進した。その中からよく鳴る三線が誕生することになり、家宝として代々継承されていった。
指定文化財になった三線
楽器としての三線が工芸品として指定文化財になっている都道府県は、沖縄以外にはない。戦後米軍施政権下の沖縄では、1950(昭和25)年の日本の文化財保護法公布後、その法律を模して琉球政府の文化財保護法が1954(昭和29)年に公布された。そして、琉球政府文化財保護委員会が戦後の混乱の中で、荒廃した王国時代の史跡・旧跡の保護のために、文化財指定を積極的に行っていった。この法律は、戦禍を免れた文化財の島外流出を防止する役割も果たした。動産の資料も積極的に文化財指定を行っていった。その最初のモノが三線であった。
昭和30年に特別重要文化財に指定された3挺の三線があった。「翁長開鐘」、「志多伯開鐘」、「湧川開鐘」である。これら3艇の三線には、「開鐘」という特別な名前が付された。これは、三線の棹の胴に隠れる芯(心)部分に朱書きで「◯◯開鐘」と記されていることに拠る。一説によると、寺院の梵鐘のように遠くまで聞こえる三線、いわゆる「ユーナヤ(善く鳴る)三線(遠くまで響く三線)」のことをさす。
「志多伯開鐘」は、「志多伯」という地名に因んでいる。現在の八重瀬町(旧東風平町)の志多伯で奏でた三線の音が、直線距離で10数km離れた首里城の国王まで届いたという逸話からその名が与えられたようだ。まさに「ユーナヤ三線」である。加えて、「開鐘」と呼ばれる三線は、最も優美な型として知られる「真壁型」に分類される三線であることは興味深い。
三線の七つの型
三線には七つの型がある。「南風原型」、「知念大工型」、「久場春殿型」、「久葉の骨型」、「真壁型」、「平仲知念型」、「与那城型」である。「久葉の骨型」を除いた全てが、製作した工人の名前に因んでいる。例えば、南風原さんが祖型をつくったので、「南風原型」と呼ばれる。
近代以降のウチナーンチュが嗜好する型が、開鐘型といわれる「真壁型」と、「与那城型」である。現在、沖縄県には、県指定有形文化財の三線が20挺あるが、琉球政府時代の1955(昭和30)年から1958(昭和33)年にかけて11挺が指定され、本土復帰後の平成6年に9挺が追加指定された。型の分類でみると、「真壁型」が9挺と圧倒的に多い。
追加指定を行う場合は、現存する三線の悉皆調査を踏まえて行われた。1990(平成2)年から1993(平成5)年までの4カ年で、戦前製作された古三線を求めて県内各地を回って調査を行った結果、612挺の三線の調査を行うことができた。その頂点にある三線9挺が追加指定されたのである。追加指定された三線の中には、沖縄県立博物館・美術館が所蔵する「盛嶋開鐘」や、戦後ハワイから沖縄県立芸術大学に寄贈された「富盛開鐘」が含まれた。戦後行方知れずで、琉球政府時代の指定からもれてしまったものである。
文化財調査は、所有者にとっては結構面倒くさいものであるが、こと三線に関しては、調査者が感謝されることが多かった。人々が自身の所有する三線に興味を持ち、伝来の三線の資料的な価値を知りたいと思うことによる。家宝である三線の型名や特徴などを共有することができ、文化財保護のモデルといえる調査であった。
沖縄県指定有形文化財「三線盛嶋開鐘 附胴」 沖縄県立博物館・美術館所蔵
冠婚祭の主役は三線楽
沖縄では冠婚葬祭のうち、葬を除く冠婚祭では、三線楽は不可欠である。
祭祀の一例では、旧盆期間中、とりわけ沖縄本島中部の集落では、青年団によるエイサー(念仏踊の一種)が集落内を練り歩く。夜中11時頃にもかかわらず大音響で三線を鳴らす演奏者たちと数十人の男女は、一見異様な光景に見えるが、先祖供養の一つで、沖縄では夏の風物詩になっている。締太鼓やパーランクー(手持ちの片張り太鼓)をアクロバティックな所作を交えて打ち鳴らす男子と、手踊りを主体とする女子青年団の踊りを見るのは楽しい。エイサーは、盆の三日間をかけて集落全体を練り歩く。まるで、三線、太鼓の音と演舞で、集落を清めると同時に、祖先への供養の意味を込めたウトゥイムチとも解される。
今日においても集落の共同体の意識は強く、伝統の継承がなされている。この日のために少なくとも1カ月前から、公民館の広場で練習を行っており、決してぶっつけ本番ではない。集落同士の競争意識もあり、集落の境界線で、エイサーの演舞を互いに競う姿も見ることができる。また、結婚式の時にも三線は大活躍である。宴式の幕開けは、三線奏楽や「かぎやで風節」と呼ばれる祝儀舞踊で始まるのが常である。
王国時代に始まったおもてなし「ウトゥイムチ」のこころは、400年以上の時を超えて現代にも息づいており、三線文化によっても「ウトゥイムチ」の心は継承されている。
※1扁額 | 門などに掲げられる横に長い額。 |
※2冊封使 | 中国王朝の皇帝が、近隣国の君主を王であると認めるために派遣する使節。 |
※3玉城朝薫 | 歌や踊り、三線の名手。1718年、冊封使をもてなすための踊奉行に任命され、翌年に、音楽と踊りを交えた歌舞劇・組踊を創作する。組踊は2010年にユネスコ無形文化遺産リストに登録された。 |
公開日:2016年10月3日最終更新日:2020年7月2日