歴史・民俗学
グラフィティが語るヘレニズム時代の採石活動
アコリスの南にあるニュー・ミニヤ採石場跡に残されたエジプト語民衆文字(デモティック)とギリシア語で書かれたグラフィティは、ヘレニズム時代初期の採石活動とエジプト社会を考えるための貴重な手がかりを提供してくれる。
アコリスとニュー・ミニヤの採石場遺構
アコリスの南北にはヘレニズム時代からローマ時代にかけて操業した石灰岩の採石場があった。涸れ谷を挟んだ北の採石場からは、地中海に面した大都市アレクサンドリアの舗石のために、ローマ軍の将校の監督下で石が切り出されたことを記した後一世紀の碑文が見つかっており、南に伸びる河岸段丘にも、切り出し途中で放棄された石材や掘削の跡といった活発な採石活動を偲ばせる景観が広がっている。
採石場の大きさのみならず、採石作業の過程で赤いインクで書かれたグラフィティが数多く残されているという点でユニークなのが、アコリスの約12km南に位置するニュー・ミニヤ採石場跡である。岩石砂漠上に造成された現代の都市ニュー・ミニヤの南部からナイル川に向かって、南東方向1km弱にわたって伸びる谷は垂直または水平に削り取られ、人の手が加えられてつくられたことが一目瞭然である(写真1、 2)。壁面や横穴の天井面には、エジプト語民衆文字(デモティック)とギリシア語で書かれたグラフィティが見つかる。
写真1 ニュー・ミニヤ採石場全景:谷の深部から南東方向の開口部を望む 撮影:周藤芳幸(以下同)
写真2 ニュー・ミニヤ採石場の東側側面
何が、いつ、なんのために書かれたのか
グラフィティに書かれる情報は不明なものもあるが、日付、人名、三つの数字という要素のすべて、あるいはその一部が、ひとまとまりのものとして書かれている(写真3)。例えばギリシア語で「治世35年ハテュル月6日、デメトリオス(の)、3 1/3、3 1/3、1」と読めるものがある。現在の元号と似て、ある王の治世の開始年を元年とし、次の王が即位することで改まる「治世年」は、グラフィティの年代を特定する手がかりとなる。
谷の上部の東側では谷の奥に向かって、治世34年から39年まで、そして治世3、4年と書かれたグラフィティが概ね年代順に並んでおり、西側には2、3年のグラフィティが見られる。これは谷の上部のグラフィティが治世39年(前246年)まで統治したプトレマイオス2世の治世末期から続く3世の治世にかけて書かれたことを示している。谷の底部の最深部には、治世21、22、23、25、26、2年が見られ、治世26年目(前222年)に死去したプトレマイオス3世の晩年から、次の王である4世の統治の初めに書かれたと考えられる(写真4)。したがって採石場遺構は前250年代から220年代にかけての状況を示しているのである。
写真3 グラフィティの例(本文に訳を挙げたグラフィティとは異なる)
写真4 ニュー・ミニヤ採石場の東側・北側。谷の上部と底部で異なる年代のグラフィティが書かれている。
また、グラフィティが書かれる言語は、時代が進むにつれてエジプト語のみから、エジプト語とギリシア語の併用へ、そしてギリシア語のみへと変わっていく。ギリシア語を用いるマケドニア人の王を戴くようになったエジプトでは、領域部の採石場の記録に使われる言語もゆっくりとであるが変わっていったのである。
月と日に注目すると、同一の日付をもつ隣接するグラフィティもあれば、数カ月の隔たりがあるものもあり、採石活動(例えば1日や1カ月の作業量)を一定期間ごとに記録するためにグラフィティが書かれたわけではないことが分かる。人名は採石に関わった石工もしくはそのリーダーの個人名を、三つの数値は、グラフィティが書かれた壁面・天井面に直面する空間の体積、つまり岩石の掘削量をキュービット※1(約53cm)を単位として示している。したがって、グラフィティは、誰の責任でどれだけの作業をしたのかという労働量を把握し、そのチェックが行われた日付を合わせて記したものと考えられるのである。ここから想定できるのは、役人か書記が採石場に不定期に訪れ、作業の進展状況を確認する姿である。そして測量の過程でグラフィティが書かれたのであろう。
ギリシア語を書くエジプト人書記
書記たちは石工や現地の監督者に対して権威をもつ存在だったであろうが、彼らは彼らなりにプトレマイオス朝の支配がもたらした変化に対応しようとしていたことをうかがわせるのが、グラフィティに見られる綴りの誤りである。例示したグラフィティに書かれたギリシア人名デメトリオスは、正しくは(ラテンアルファベットに直すと)Demetriosと綴られるべきであるが、グラフィティではDemetoriosとoが一つ多く書かれている。エジプト語を母語とする現地の書記たちは、ギリシア人名を正しい綴りで書くことが出来ず、耳に聞こえたままに母音を多く書いてしまったのだろう(なおエジプト語では母音を記すことが原則的にないため、ギリシア語の単語のなかで子音の後に母音を記すかどうかを覚えるのには苦労したかもしれない)。
石工と労働者たち
石工とおぼしき人名には、デメトリオスのようなギリシア人名も、(アコリス周辺地域で篤く信仰を集めたトキの姿を取る神トトにちなんだ)トトエスのような伝統的なエジプト人名もある。採石場内には、ギリシア人名の多い区画もエジプト人名が優勢な区画もあるが、グラフィティから判断する限り、彼らは同じ内容の作業に携わっていた。民族によって異なる役割が与えられていたというのは考えがたいのである。
最後に、採石活動の労働力として地域の住民が広く用いられていた可能性を指摘したい。グラフィティの日付のうち月名に注目すると、特に春先から夏の氾濫の時期にかけての月名が多い。すでに指摘したようにグラフィティの日付は実際の作業ではなく、役人によるチェックの日付を指していると考えられるのだが、農閑期である氾濫の季節に実際の作業が集中して行われた可能性はある。そうでなくとも、石材の搬出と輸送が容易になるナイル川の増水期は、採石場が活気づいた時期であろう(写真5)。こうした季節労働の担い手として地域住民が期待されていたのは想像に難くない。採石場での労働には囚人や捕虜が強制的に従事させられたというイメージが強いのだが、ナイルのほとりの採石場は地方の住民たちから切り離されたものではない。むしろ彼らを組み込んだ国家事業の姿を垣間見せてくれるのである。
写真5 採石場のナイル川・氾濫原にもっとも近い箇所
※1 古代の長さの単位。王の肘から中指の先までの長さをもとにしていた。
(参考文献)
・内田杉彦「ニュー・メニア採石場におけるデモティックのグラフィティと知の伝達」『HERITEX』2 2017 p.173-183.
・周藤芳幸『ナイル世界のヘレニズムーエジプトとギリシアの遭遇ー』名古屋大学出版会 2014
・周藤芳幸「ニュー・メニア採石場のギリシア語グラフィティと情報伝達」『HERITEX』2 2017 p.155-162.
・髙橋亮介「ギリシア語パピルス史料から見たプトレマイオス朝エジプトの採石活動」『人文学報』歴史学・考古学編 46 2018 p.1-21.