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歴史・民俗学

無形の民俗文化財の保存 ―方策の共有と議論の継続のために―

石垣 悟 / Satoru ISHIGAKI

東京家政学院大学 現代家政学科 准教授

秋田の竿灯(撮影:筆者)

はじめにー文化財保護法の改正と無形の民俗文化財

文化財保護法第一条には「この法律は、文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的とする」と文化財保護の趣旨が掲げられる。文化財保護でいう「保護」には、「保存」と「活用」という2つの意味がある。この保存と活用は、並列・同等関係にあるわけではない。まずはしっかり保存し、その上で保存に影響を及ぼさない範囲で適切に活用するという関係にある。さらに言えば、その活用は保存にフィードバックされてしかるべきで、それこそが文化財保護でいう活用の本質であろう。

 

平成30年、この活用をこれまで以上に重視する視座から文化財保護法が改正された。その目玉の1つに文化財保存活用地域計画がある。都道府県の策定する総合施策(大綱)に基づいて市町村が策定する計画で、それが国に認定されれば、市町村が計画に基づき自己裁量で文化財保護を遂行できる。加えて「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」も改正され、その文化財保護を教育委員会以外の部署が遂行できるようにもなった。この改正は、それまでの改正とは大きく様相を異にする。それまでの改正は保護対象の拡大と手法の拡充、いわば「量の改正」であったのに対し、今回の改正は制度運用の在り方の刷新という「質の改正」である。日本の文化財保護制度は、新たな局面に入ったとみるべきだろう。

 

本稿で主題とする無形の民俗文化財も、ある面で改正の影響を大きく受ける可能性がある。というのは、現在、無形の民俗文化財は保存の大きな岐路に立たされているからである。平成28年に共同通信が調査した全国の都道府県指定の無形の民俗文化財の現状によれば、休止・廃止が60件あった(日本経済新聞2017年1月3日記事)。それは全体(1651件)の4%弱に過ぎないが、行政の保護措置にも関わらず奏功しなかった例が少なからずあったことを示す。また、群馬県教育文化事業団が平成20年に調査した県内の民俗芸能と祭り行事の現状によれば、平成9年以降の約10年間で民俗芸能は855件中220件(約26%)が中断・廃絶し、祭り行事は846件中74件(約9%)が中断・廃絶・継承危機にあるという(群馬県教育文化事業団2009)。過疎化や都市化、少子高齢化などの社会状況や生活形態の変化で、伝統的な組織や伝承システムでの無形の民俗文化財の保存は難しくなっている。

民俗文化財とは何か?

民俗文化財は、文化財保護法上では「衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」(第二条第三項)と規定される。条文は、範域とその資料性を明示するが、民俗文化財とは何かという問いの答えとしては必ずしも十分とはいえない。

 

その答えは、文化財の頭に「民俗」の語が付されている点、また民俗文化財の登場が昭和29年の法改正であった点の2つに注目するとみえてくる。多岐にわたる文化財の種別の中で、民俗文化財だけは唯一民俗・・学という学問の名を直接冠する。地理学に基づく地理文化財、歴史学に基づく歴史文化財などの種別はない。また「民俗」は、一般用語ではなく、民俗学が対象に付与した学術用語である。つまり、民俗学の学術用語をそのまま冠した文化財が民俗文化財なのである。

 

しかも、それが登場した昭和29年は、柳田國男や澁澤敬三、折口信夫といった日本の民俗学を創り上げた重鎮が存命で、民俗を文化財として保護する方策を検討する民俗資料部会にも名を連ねていた。要するに、当時の民俗学者の考える民俗をベースに、その中から行政が保護対象としたのが民俗文化財なのであった。

 

この2点を勘案して民俗文化財を定義すれば、「各地域の人々が上の世代から受け継いできた生活文化=民俗のうち、行政が保護対象としたもの」となろう。中でも無形の民俗文化財は、今を生きる人々の行為や言葉、感情など形の無い部分ということになる。

無形の民俗文化財の保存とは?

辞典類で「保存」を引くと「そのままの状態を保って失わないこと、原状のままに維持すること」(広辞苑第五版)とある。この定義は、有形文化財や記念物、有形の民俗文化財など、る動産や不動産についてはそのまま当てはまる。状態を変えずにそのまま維持することが保存であり、故に文化財やそれを取り巻く環境が変わる(または変わった)ときは許可申請や届出を行うことになる。

 

これに対して無形の民俗文化財は、そもそも維持すべきい。人の行為や言葉、感情などをそのまま維持することの難しいことはすぐに了解されるだろう。無形の民俗文化財は、現在生きている人が担っている生きた文化財である。従って、変化に関する許可申請や届出の規定もない。

 

では無形の民俗文化財の保存とはどういうことか?それは民俗文化財の補助メニューに端的に反映されている。民俗文化財には有形のそれと無形のそれがあり、それぞれに補助メニューが設けられている。有形の民俗文化財は、指定されると文化財の修理や収蔵施設の建設・改修に補助がでる。有形の民俗文化財では、それ自体を可能な限りそのまま維持して後世に伝えることが保存であり、その経費の一部を行政も負担する。これに対して無形の民俗文化財は、指定されるとそこで用いる用具や施設の修理・新調や伝承者の養成などの経費に補助金がでる。つまり、無形の民俗文化財では、状態をそのまま維持することではなく、持続させることが保存であり、その経費の一部を行政も負担する。ここでいう持続には、年を超えた継続と世代を超えた継承の2つの意味がある(※記録保存はここでは取り上げない)。

無形の民俗文化財の現実

表1は、静岡県掛川市の「遠州三熊野神社大祭の袮里ねり行事」(平成31年・国選択)の参加者について、全参加者数と町外の参加者数、またその割合を集計したものである。この行事では、神社の春の大祭(4月)に氏子域13町から13基の山車がでる。山車は、袮里と呼ばれ、高さ5m以上、重さ約2tにもなる。袮里の曳行には一定の人手が必要で、年齢階梯的な役割に基づいて各町の住民が行ってきた。表1の青年と練係ねりがかりは、その実働の役である。青年は、高校生から30歳頃までの者で、袮里を曳く。袮里の曳行には少なくとも20名以上必要となる。青年を抜けて練係(30~50歳)になると、曳行する袮里の周辺警備をする。やはり20名ほどを要する。

 

表1の参加者数は13町の合計である。過去3年間をみてもわかるように、青年では5~7割近く、練係でも3~5割近くを町外、つまり地域に歴史的に縁のない者に頼る。町ごとの詳細はださなかったが、過去3年間で青年、練係とも自町だけで賄えたのは1町だけで、残り12町は何らかの形で町外の応援を得ている。特に袮里を曳く青年は、直近の令和元年をみても4町が8割以上、1町は9割を町外に頼る。町外の応援がなければ半分近い袮里が巡行できないのである。

 

表1 遠州三熊野神社大祭の袮里行事の参加者 作成:著者(田中興平氏提供データをもとに作成)

平成29年 平成30年 平成31年(令和元年)
人数


参加者
(人)
町外参加
者(人)
町外参加者
の割合(%)
参加者
(人)
町外参加
者(人)
町外参加者
の割合(%)
参加者
(人)
町外参加
者(人)
町外参加者
の割合(%)
練係 270 132 48.8 283 122 43.1 276 91 32.9
青年 283 150 53 282 158 56 265 179 67.5
ちい袮里 220 126 57.3 207 115 55.6 198 111 56.1

この現実は、今や都会や田舎に関わらず全国的にみられる。あの京都祇園祭の山鉾行事ですら、学生ボランティア/アルバイトや日本文化を体験する留学生などの応援を得ている現状がある。今や地域に受け継がれた伝承システムでは無形の民俗文化財を十分担えないのである。民俗文化財の登場した昭和29年当時は恐らく誰もここまでの事態を想定していなかった。むしろ、こうした文化事象は無形の民俗文化財とすら見なされなかった。しかし、65年後の現在は逆で、当初想定した無形の民俗文化財はもはや幻想にすぎない。伝承の現場に目を凝らせば、(無形の)民俗文化財は再定義を迫られているとすらいえよう。

担い手とは何か?あるいは新たな担い手

地域と歴史的に縁のない人の応援という現実をどう考えるべきか?無形の民俗文化財の担い手とはどういう人をいうのか?体験や思い出作りでやってくる一見さんは担い手とはいえまい。やはり継続的な関わりをもつことが担い手の最低限の条件であろう。

 

その点で一定の成果をあげているのが、富山県魚津市の「魚津のタテモン行事」(平成9年・国指定)の「たてもん協力隊」(以下、協力隊)である。この行事は、諏訪神社の例祭に合わせて8月第一金・土曜日に行われ、氏子域7町から7基のタテモンがでる。タテモンは、台座に三角状に吊るした100個近い提灯を立てた巨大な作り物で、高さ約20m、重さ5t近くにもなる。車輪はなく、半ば力任せに引きずって動かす。これを町から神社まで曳行し、境内で担ぎ上げて回転させる奉納を行った後、再び町に戻る。曳行には約70名、奉納には約40名が必要とされる。町外の応援として協力隊を頼むのは曳行の方で、奉納は安全面に配慮して町の男性だけで行う。

魚津のタテモン行事(撮影:筆者)

資料1 「たてもん協力隊」募集チラシ

協力隊は、魚津たてもん保存会(以下、保存会)の要望を受けて、国指定の翌年(平成10年)から魚津市が予算措置を講じて行ってきた事業である。その募集は毎年6月に入ると始まる。期間は7月中旬までの約1か月半で、市のホームページや広報に掲載され、申込書のついたチラシ(資料1)やポスターが市内の学校やスーパーや公共機関、隣接市町の公共機関、県内の大学などに配布・掲示される。参加資格は小学生から70歳頃までの男女で、未成年は保護者の同伴が義務付けられる。2日間のうち1日だけの参加も可能であるが、両日とも行事が完全に終了する23時頃までの協力が条件となる。定員は表向き350名とされているが、実際はその年の各町の要望に基づくため(保存会が集約して市に伝達)、例年300名程度となる。協力隊が決定すると、市は各人に決定通知をだす。また、名簿を作成して保存会に渡し、保存会は名簿と各町の要望を照合して協力隊を割り振る。行事当日、協力隊は近くの公民館に集合して手続きをし、行事の概要や注意事項の説明を受ける。その後は割り振られた町に移動してタテモンの曳行に協力し、タテモンが町に戻ると解散となる。

協力隊の参加範囲は、魚津市内だけでなく、富山県内の市町村や県外にまで及び、家族での参加も少なくない。市がこの事業を20年以上続けてきた結果、近年ではリピーター、つまり毎年継続的に参加する者が増えつつある。市は、当初から継続的参加者を確保するためにさまざまな工夫を凝らしてきた。例えば、協力隊には毎年1人1枚、たてもんTシャツと諏訪神社の御守が配布される。たてもんTシャツは、毎年デザインや色が異なり、その年に参加した証として収集する参加者も多い。デザインも当初は市が作成したが、平成26年以降は市内の中学校や高校の美術部が作成し、募集時に事前公開される。また市は、募集が始まると前年の参加者や過去に何度か参加した人にチラシを直接郵送する。そして行事が終了すると、汗を流してもらうために市内の温泉や銭湯の割引券を配布し、1週間後には礼状も送付する。各町も行事の最後に一緒に記念写真を撮ったり、子供の協力隊をタテモンに乗せてあげたり、菓子やジュースを配ったりと積極的な交流を図る。協力隊の申込書には自身の希望する町名を記載・希望できるようにもなっており、町と協力隊とに良好な関係ができると、毎年同じ町へ参加する協力隊が生まれる。近年では継続的固定的協力隊を一定程度確保する町もでてきている。協力隊どうしも同じ町での再会を楽しみに毎年参加するなど好循環が生まれつつある。ユネスコ無形文化遺産への記載(平成28年)前後からは締切前に300名に達するようにもなっており、現在では協力隊のリピーター率は全体の4割近くにも及ぶという。ただ一方で、各町の曳き手は年々減少しており、今後は350名を目途とした募集も検討している。いずれにしても、20年以上にわたる事業の結果、町外からの継続的固定的参加者が育ち、彼らの協力なしでの巡行は難しくなっている。今や彼らも立派な担い手といっていいだろう。

 

加えて注目すべきは、これまで町の男性に限っていた奉納にも町外の応援を期待しつつあることである。令和元年、ある1町の要望を受け、市が継続的協力隊数名に直接声を掛けて初めて奉納にも参加してもらった。タテモンを担ぎ上げて激しく回転させる奉納は危険が多く、曳き手を5年以上経験した者でないといけないとされる。今回は比較的安全なタテモン後方で担いだが、行事の中核に町外の者が参加したこと、また参加可能な者が育っていることは、行事の今後を占ううえで注目される。協力隊は20年を経て新たな段階に入りつつあるともいえよう。

次世代の後継者の育成・確保

魚津市の協力隊事業は、現在減少・不足している担い手を地域の外から確保する一方法である。長い目で見ればこれも後継者の確保に結びつくが、より積極的に次世代の後継者を確保する取り組みも各地でさまざまになされている。

 

福岡県北九州市戸畑区の「戸畑祇園大山笠行事」(昭和55年・国指定)は、毎年7月の飛幡八幡宮などの祇園祭に際して4地区から4基の大山笠が巡行する。昼は旗を立て豪華な幕を張った幟山笠、夜はピラミッド型に組んだ提灯を載せた提灯山笠という2つの姿で巡行する大山笠は、高さ約10m、重さ2.5tにもなる。車輪はなく、台座に渡した棒を高校生以上の男性約80名で担ぐ。

 

いっぽう中学生の男子も、大山笠より一回り小さな山笠を担いで行事に参加する。この山笠は、小若山笠あるいは小若といい、やはり4地区から4基でる。一回り小さいとはいえ大山笠の中古部材を再利用した本格的な造りで、高さ約8m、重さも1tほどある。やはり80名ほどで担ぐ。小若山笠は、昭和40年代末から50年代にかけて、当時たくさんいた中学生の活躍の場をつくって大山笠の後継者を育てるために導入された。実際ここから育った後継者も多い。

小若山笠(撮影:筆者)

子供山笠(撮影:筆者)

さらに注目すべきことに、戸畑では小学生以下の子供も小さな山笠を曳く機会をもってきた。この山笠は、子供山笠といい、幟山笠か、博多祇園山笠に似た人形山笠で、どちらも車輪がつく。昭和30年初めにはすでにあったとされ、特に人形山笠は周辺の祭で使った中古を借用・購入したり、福津市津屋崎の人形師に作らせたりするというから、いわゆる「博多うつし」の一種である。子供山笠をだす単位は、大山笠や小若山笠をだす4地区の下にある子供会である。子供の多かった時代は50以上もの子供会があってそれぞれ子供山笠をだした。子供の減った現在も9つの子供会が子供山笠をだす。

 

このように戸畑では、生まれると親に連れられて子供山笠の曳行に参加し、中学生になると小若山笠を担ぎ、高校生以降、大山笠を担ぐこととなった。

 

実は、子供時分から大人とほぼ同じ形で行事に参加させるシステムをもつ行事は意外に多い。秋田県秋田市で8月上旬に行われる「秋田の竿灯」(昭和55年・国指定)でも、大人の操る重さ50㎏もある大若とは別に中若、小若、幼若という3種の竿灯がでる。その登場経緯をみると、まず明治末期にたくさんいる子供のためにと小若(重さ15㎏)が作られ、その後、いくつかの町で小若よりやや大きい中若(重さ30㎏)が作られ、さらに昭和28年には幼稚園児や小学校低学年のための幼若(重さ5㎏)が作られた。

ちい祢里(撮影:筆者)

また、高知県室戸市の「吉良川御田八幡宮神祭のお舟・花台行事」(平成26年・国選択)では、氏子域4町からでる4基の山車(花台)とは別に、一回り小さな山車が氏子域全体から1基でる。子供花台といい、平成20年から登場し、花台を曳く若衆(15歳以上の男性)に加入する前の子供が曳行する。

 

こうしたシステムの多くは明治以降に生まれたようである。当初は必ずしも後継者育成だけを目途としたわけではなかったが、結果的に幼少時から行事に触れることで子供たちに憧れや愛着を醸成した。一度行事を離れても再び参加する際にはそのハードルを下げる効果もあったようである。

 

ただし、現在、このシステムも刷新が必要となりつつある。それを示すのが表1のちい袮里(「ちい」は小さいを意味すると推測される)である。掛川の袮里行事でも、大人の曳く袮里とは別に一回り小さな袮里を各町が1基ずつもっている。これをちい袮里と呼び、秋の例祭(9月)で中学生までの子供が曳く。昭和初期にはすでにあったといわれ、後継者育成に大きな役割を果たしてきたが、表1からわかるように、子供の減少した現在、全体の半分以上を町外の子供に頼っている(うち2町は9割以上を町外の子供に頼る)。次世代についても地域と歴史的に縁のない人に頼らざるをえない現実が生じており、システムの維持には新たな工夫が求められるだろう。

おわりに―事例の共有に向けて

無形の民俗文化財は、生きた文化財である。元気な時もあれば、病気の時もある。症状も風邪程度の場合もあれば、重篤な場合もある。また仮死状態になる時もあれば、再び息を吹き返す時もある。社会状況や生活形態に応じて生じるさまざまな症状の要因として、現在、最も深刻なのは、行事の担い手や後を継ぐ世代の絶対的な不足であろう。民俗文化財の登場した当時は地域やそこに縁のある人が民俗を担っていたが、この伝承システムは今や完全に機能不全に陥っている。拙稿では、その処方の1つとして、地域とは歴史的に縁のない人に継続的・継承的に参加してもらう可能性を取り上げてみた。

 

拙稿では触れなかったが、担い手の問題でもう一つ注意しなければならないのは、そもそもなぜ無形の民俗文化財を担うのか、という担い手側の意思である。それは、端的にいえば、その人の生活や人生に何らかの意味があるからであろう。かつては日常生活の中での楽しみや深い信仰などがその意味だったと考えられるが、生活や生業の在り方が劇的に変わった今、何が意味にあたるのか?1年後が待ち遠しいという心持ち、自然や歴史への畏敬や敬意、祭り行事の日が近づくと躍動してくる心などさまざまであろうが、各人の生活や人生における意味をいかに育んでいけるか、これについても民俗学と行政の両面からの議論が待ったなしであろう。

 

本特集では、文化財保護の現場に何度も足を運び、自ら取り組んできた諸先生から、無形の民俗文化財の保存に何ができるのか、その可能性をできるだけ具体的に論じていただいた。いずれも単なる理論提示にとどまらず、実践的可能性を内包したものとなっている。各内容が正解とは限らないが、小川直之も指摘するように、多様な正解の共有こそ急務であろう。本特集を叩き台に、各々の現場に即した「正解」を試みていただき、またその結果を共有していただければと思う。

参考文献
  • 小川直之2020「無形民俗文化財をどう継承するか」『文化財の活用とは何か』六一書房
  • 群馬県教育文化事業団2009『群馬のふるさと伝統文化』
  • 文化庁文化資源活用課2018「文化財保護制度の改革」『文化遺産の世界』33号
  • 文化庁文化資源活用課2018「文化財保護制度の見直しについて」『月刊文化財』663号

公開日:2020年7月20日

石垣 悟いしがき さとる東京家政学院大学 現代家政学科 准教授

1974年秋田県秋田市生まれ。筑波大学大学院歴史人類学研究科、新潟県立歴史博物館学芸課研究員、文化庁文化財調査官を経て現職。主な著書に「ムラを評価すること」『日本民俗学 231号』(日本民俗学会 2002年)、『日本の民俗〈4〉食と農』(共著、吉川弘文館 2009年)、『来訪神 仮面・仮装の神々』(共著、岩田書院 2018年)、『日本の食文化5酒と調味料、保存食』(編著、吉川弘文館 2019年)などがある。2003年度に日本民俗学会研究奨励賞受賞。2020年度に日本博物館協会棚橋賞受賞。