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考古学

古代マヤのゲーム「パトリ」①

五木田 まきは / Makiha GOKITA

東京文化財研究所 アソシエイトフェロー

古今東西、あらゆる文明において人類は多種多様なゲームを生み出しています。メソポタミア文明のウルのロイヤルゲーム、アフリカのマンカラ、エジプトのセネト、ローマのタブラ、中国の六博、朝鮮のユンノリ、日本の盤双六、そしてバックギャモン、チェス、囲碁、将棋…とボードゲームだけを挙げてみても枚挙に暇がありません。ある時代・地域に独特のものもあれば、時代も地域も全く異なるのにどこか似通ったものもあります。Johan Huizingaという歴史学者が人間を「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」と表したように、「遊び」「ゲーム」は人類の特徴の1つと言えるでしょう。15世紀まで旧大陸の社会との接触がなかったアメリカ大陸の諸文明においても様々なゲームが生まれています。その1つに、メソアメリカ1)で広く行われていた「パトリ」というゲームがあります。

パトリの歴史をひも解く―古代から現代まで

16世紀のスペイン人の記述によると、パトリはアステカの言語であるナワトル語で「豆」を意味し、転じて豆をさいころとして使用したゲームもパトリと呼ばれていたと記されています。また、パトリと呼ばれるゲームの図像は、複数のメキシコの絵文書にも見られています2)。さらに、20世紀初頭に入ると、中米の先住民集落で調査をした人類学者たちにより、類似のゲームが報告されるようになりました3)。こうしたエスノヒストリーや民族調査で記述されたパトリで使用されていたボードの形状が、古代の建物に刻まれたグラフィティ(線刻)の形状に酷似していることから、これらのグラフィティもパトリと呼ばれ、パトリゲームのボードだったのではないかとみなされるようになります。

 

パトリグラフィティは、メキシコ中央高原のテオティワカンやアステカ、そしてマヤ地域のほぼ全域から出土しています(図1)。時間的な広がりを見ると、マヤ地域では紀元5世紀から12世紀にかけての建造物からパトリグラフィティが発見されており、パトリは古代マヤ文明の長い歴史を通して広く行われていたものと考えられます。

図1 メソアメリカの範囲とマヤ地域におけるパトリ出土遺跡(作成:筆者)

マヤ地域で現在確認されているパトリグラフィティの中で最も古い事例は、マヤ南東部、「非マヤ」文化圏との結節点とも考えられているホンジュラス西部のコパン遺跡から発見されたものです(写真1)。マヤ文明の建築には古い建造物の上に増改築を繰り返す「重層建築」という特徴がありますが、コパンの有名な「神聖文字の階段」を有する神殿26の内部にもいくつもの建造物が存在しています。これらの建造物からパトリが複数発見されています。発見された建造物の建設年代から、このパトリが刻まれたのは紀元425年から435年のマヤ文明の時代区分に言うところの古典期前期に推定することができました。また、同遺跡からはメソアメリカにおける代表的な遊技である「球技」を行う場である球技場の床面からもパトリが報告されていることも、ゲーム同士の関連性やそれぞれのゲームの性質を考察する上で考慮に入れなければなりません。

写真1 コパン遺跡(神聖文字の階段):およそ1250の石のブロックにはマヤ文字が刻まれている。総文字数は約2200に上り、アメリカ大陸に現存する16世紀以前の最長の碑文である。(撮影:筆者)

この他、マヤ地域では現在のグアテマラの世界遺産の遺跡であるティカル、メキシコのパレンケやチチェン・イツァなどからもパトリグラフィティが発見されています。マヤ遺跡にみられるパトリグラフィティは、方形や円型、十字を基本とし、それらを組み合わせた多様な形状があります。最近に発見されたものとしては2015年にティカルの北のアクロポリスにおいて検出されたものがあり、細かくマス目に区切られたほぼ正方形の外枠に十字が内接した田の字状の図像が確認されています(写真2、3)。

写真2 発掘中のティカル北のアクロポリス出土のパトリ(提供:中村誠一氏)

写真3 斜光撮影したティカル北のアクロポリスのパトリ(提供:中村誠一氏)

現在、21遺跡から63のパトリの発見事例が確認されています。マヤ地域では数多くの未発掘の遺跡や建造物がジャングルに眠っており、世界各国からいくつもの調査隊が発掘調査を行っています。発掘調査が進むことにより新たなパトリが発見され、パトリの歴史的変遷について新たな見地が明らかになるかもしれません。今後のさらなる調査の進展が望まれます。

 

いったいパトリとはどのようなゲームだったのか、次回はその謎に迫ります。


(1)    メソアメリカとは、Paul Kirchhoffの文化要素の分布研究により定義された、先スペイン期 にメキシコおよび中央アメリカ北西部において、共通的な特徴をもち高度な農耕民文化によって支えられた様々な文明(マヤ 、テオティワカン 、アステカ など)が発展した地域をさす文化史的領域を指す。
(2)    16世紀の征服期に描かれた『マリアベッキアーノ絵文書』 、『フィレンツェの絵文書』 。征服前のアステカ時代に描かれたとされる『バチカンB絵文書』 『ボルボニコ絵文書』 、『オーバンのトナラマトル』 、そして十四世紀に描かれたミシュテカの『ヴィンドボネンシス絵文書』 である。植民地時代に描かれたアステカの『フィレンツェの絵文書』や『マリアベッキアーノ絵文書』には、マス目で区切られた十字のパトリコースを挟んで向き合う人と豆のようなものが描かれている。『ボルボニコ絵文書』や『バチカンB絵文書』には、二色で塗り分けられたマス目を持つ、四隅が突起した方形のパトリのコースが描かれている。ミシュテカの『ヴィンドボネンシス絵文書』では、ボルジア絵文書のものとよく似たパトリのコース、点棒、豆、骨のダイスが確認できる。
(3)    例えば、Karl Sapper, “Spiele der Kekchi-Indianer”, Anthropological papers: written in honor of Franz Boas, G.E. Stechert & Co., New York.Sapper 1906, pp.283-289、Stewart Culin, Games of the North American Indians, Dover, New York. Culin 1975, pp. 141-143、Lieve Verbeeck, “Bul: A Patolli Game in Maya Lowland”, Board Game Studies 1, 1998, pp. 82-100、Alfonso Caso, “Un antiguo juego mexicano: el patolli”, México Antiguo T.II, No.10, 1925, pp. 203-211、Roy A. Beals and Pedro Carrasco, “Games of the Mountain Trrascans”, American Anthropologist Vol.46, 1944, pp. 516-522などがある。

五木田 まきはごきた まきは東京文化財研究所 アソシエイトフェロー

1985年東京都生まれ。金沢大学大学院人間社会環境研究科博士前期課程修了。同後期課程在籍中。2017年より現職。専門は文化資源学、博物館学。2013年よりホンジュラス共和国コパンルイナス市において、文化遺産保全に向けた博物館活動と地域コミュニティ関与の在り方について研究を続けている。