考古学
テル・エドフ―古代エジプトの州都の発掘―
テル・エドフとホルス神殿の塔門 ©Tell Edfu Project
図1 エドフ遺跡平面図 ©Tell Edfu Project
古代エジプトで”ベフデト”と呼ばれたエドフの古代都市は、現在のアスワンとルクソールの間のエジプト南部に位置している。王朝時代のエドフは上エジプト第2州の州都であり、宗教上の重要な中心地でもあった(図1)。地域の神であるベフデトのホルス神に捧げられた大規模な神殿複合体は、現在、この遺跡で最も目を引く存在になっている。
この神殿はプトレマイオス朝時代の前237‐57年に建立され、この時代で最も大きくまた保存状態のよい神殿である。神殿の西側には、印象的な丘の形をした古代の都市遺跡を見ることができる。こうした丘状の遺跡はアラビア語で「テル」と呼ばれ、町が数千年のあいだ折り重なっていったことで形作られた。テルの西側の地表面に表れている大きな住宅の壁は、プトレマイオス朝の神殿と同時代のものである。しかしその下層には、より古い時代の集落址を見ることができる。
今日、古代のテルの北面と南面は大きく失われている。これは、現地で「サッバーク」と呼ばれる肥料の採掘が行われたためである。サッバークとは古代の建造物に使用された日乾レンガのことで、細かく砕いて畑にまくことが数百年前から盛んに行われてきた1)。
ゾーン2の発掘:前3000年紀中葉の大型建造物
エドフの町の起源は、少なくとも第3王朝(紀元前2650年頃)まで遡る。ただしこの知見は、おもに文字史料と間接的な証拠(土器、石製容器、道具類)に依っている。筆者らが指揮するイエール大学の調査チームは、最古の集落址の考古学的証拠を見出している。それは第5王朝(紀元前2414-2375年)8代目のジェドカーラー・イセシ王の治世に遡るものである。プトレマイオス朝の神殿のすぐ横に位置する50m×25mの発掘区(ゾーン2)で、第5王朝末に年代付けられる二つの大きな建物(北の建物、南の建物)が姿を現した。それぞれの建物の東側には、周囲を幅1mの日乾レンガ造の壁で囲まれた広い中庭が配置されていた(図2)。
図2 ゾーン2。古王国時代の二つの大規模建造物 ©Tell Edfu Project
北の建物は、奥行2.5-3mの傾斜した分厚い外壁を備えた特徴的な遺構である。東面に小さな入口があり、木製のドアとまぐさが原位置に残っていた(図3)。室内の大部分はサッバーク取りで破壊されていたため、建物の機能を詳しく知ることはとても難しくなっている。
2022年シーズンの調査では、上階につながる小さな階段が入口の脇で発見された。北の建物の西側では大きな砂岩のブロックを並べた基礎が確認され、建物のこちら側の壁の位置を知ることができた。その結果、建物はほぼ正方形で、非常に厚い壁を巡らせたレイアウトを持っていたことが明らかになった。内部に階段があったことからも、この建物が塔だったことはほとんど間違いないと私たちは考えている。ただ、現在はおよそ3mの高さしか残っていないため、塔の本来の高さがどれくらいあったのかは不明である。
図3 北の建物の詳細 ©Tell Edfu Project
北の建物の隣には、囲い壁で隔てられたもうひとつの印象的な遺構、南の建物が位置している(図4)。この構造物も厚い外壁を備えるが、その奥行は1mほどしかなく、北の建物同様、室内はほとんど残存していなかった。建物の西側で私たちは、在地の砂岩ブロックを並べた基礎を検出した。この基礎は良好に残っていたものの、かつてその上に建っていた日乾レンガの壁の大部分は、サッバーキン(サッバーク掘り人)によって破壊されていた。
南の建物の入口はまだ確定できていない。建物の南部分は後代の建物址の下に隠れているため発掘できておらず、西部分は石造の基礎だけが残っている状態である。室内で唯一確認できたのは、建物の南側へと降りていく階段と、その先の小部屋だけである。建物内部で行われた活動について、確かなヒントを与えてくれる発見がない現時点では、南の建物の正確な機能を知ることは難しい。
図4 南の建物の詳細 ©Tell Edfu Project
二つの建物の東側にある中庭部分は多くの遺物が出土し、建物の機能についてもいくつかの情報を提供してくれる、より有望な場所である。ここでは銅鉱石の小片やるつぼの破片、精錬作業で生じたスラグなどが出土しており、冶金作業、特に銅の加工の痕跡と見られる。さらに封泥の破片が数百点出土し、行政上の活動があったことを示している。ある円筒印章の陰影には、ジェドカーラー・イセシ王のカルトゥーシュとホルス名2)、高位の役人の称号が認められた。珍しい称号として注目されるのは「セメンティウ」で、これは「探索者」を意味しており、王の遠征隊に加わった役人が帯びる船舶や航海に関わる典型的な称号と共に現れる(図5)。
図5 第5王朝のジェドカーラー・イセシ王の名前(上)と「セメンティウの監督官」の称号(下)が記された封泥 ©Tell Edfu Project
銅鉱石と遠征隊に関わる称号という中庭の出土資料は、二つの建物がエドフに新設された王の所領に属しており、東部砂漠への遠征に関係していたことを示唆している。エドフから発し、大きなワディ(涸れ谷)を経由して東部砂漠へと向かう遠征は、銅や金といった天然資源を採掘することを目的にしていた。古王国時代後半のエドフに王の所領があったという推測は、北の建物が塔を思わせる建築上の特徴を備えていることによっても補強される。なぜなら王の所領の古代名は、しばしば塔の決定符3)と共に記されるからである。エドフでの塔の発見は、考古学的に確認されたその最初の事例と言えるだろう。
ゾーン1の発掘:前2000年紀中葉の邸宅
テル・エドフで焦点となっているもう一つの調査は、テル南側の頂部で行われている(ゾーン1)。この場所における近年の調査は、いくつかの大規模住宅で構成された街区の発掘になっている。出土した土器と文字史料から、住宅群は第二中間期の終わり(第17王朝)から新王国時代の始め(第18王朝)の移行期(紀元前1600-1500年頃)に年代付けられる4)。大規模な邸宅の日乾レンガ壁がテル頂部の東側で検出された(図6)。この邸宅は大きな砂岩製の敷居を備えた玄関と、複数の部屋で構成されている。敷居の上には石製の脇柱が据えられていた痕があり、両開きのドアを開けて大広間へと入るようになっていた。この大広間には屋根を支える6本の石灰岩製の柱が立っていた痕跡があるが、原位置に礎石があったのは二箇所だけだった。
広間の西壁には長い日乾レンガ製のベンチが備え付けられており、また部屋の三方に設けられた出入り口から、いくつもの側室にアクセスできるようになっていた。すべての出入り口には敷居石が据えられ、白い石灰岩製のドア枠が伴っていた。石灰岩はエドフ付近では採掘できないため、エジプト北部から輸入された資材が使われていたことになる(図7)。
図6 第17王朝~第18王朝初頭の邸宅群が検出されたゾーン1北側 ©Tell Edfu Project
図7 2022年調査時の邸宅の大広間 ©Tell Edfu Project
大広間で最も重要な発見は、玄関の横、部屋の北東隅に据えられた、祖先崇拝のための小さな祠堂である。祠堂には良質な泥漆喰を重ね塗りした日乾レンガの小さな基壇があり、二つの日乾レンガの台座を伴っていた。木製の梁の痕跡と軸受け穴がある二つの脇石の存在は、この祠堂が南側に両開きの扉を備えた木造の構造物だったことを示している(図8)。
図8 大広間の北東隅に設置された祖先崇拝のための祠堂 ©Tell Edfu Project
祠堂周辺の床面からは、邸宅が放棄された時に残された彫像やステラ(碑板)がいくつか出土した(図9)。そのうちのひとつは小さな石灰岩製の「祖先の胸像」で、ルクソール西岸の職人集落址であるディール・アル=マディーナ遺跡の住宅の祠堂から出土したものがよく知られる。また黒色滑石製の座像は、刻まれた銘文からイウフという名の人物で、「エドフ州の書紀」の地位にあったことがわかった。銘文にはイウフの父親が同名のイウフで「裁判官」の称号を持ち、妻であるホリが「家の女主人」の称号を持っていたことも記されていた。母親への言及は背柱の銘文にあり、一般的な供養文を伴っていた。
イウフは第17王朝末のエドフではよくある名前だが、座像の人物は明らかに行政上の重要な地位にあり、地域のエリート層に属していた。出土したステラのひとつには男女の立像が表現されており、邸宅の住人に関する更なる情報を提供している。男性はホルナクトという人物で、「市長」と「神官の監督官」というエドフで最高位の二つの役職を務めていた。
図9 祠堂付近から出土したイウフの座像(左)、祖先の胸像(中)、ホルナクトのステラ(右) ©Tell Edfu Project
これらの出土資料は、おそらくエドフ全体でも最も重要な邸宅の住人たちを浮き彫りにしてくれる。邸宅は住居であると同時に行政上の活動の場だったのかもしれない。ただ、今のところ室内からの出土遺物は比較的少なく、断定するのは難しい。
第17王朝末は、エドフの政治史を考える上でも興味深い時代である。この時代、テーベに興った第17王朝の王たちは地方の重要な町々と同盟を結び、地方のエリートたちは国の機構に再統合されていった。エドフは間違いなく当時の重要な町のひとつで、エリートたちはテーベの宮廷と良好な関係を築いていた。あるエドフの高位の女性は、第17王朝のアンテフ・ネブケペルラー王と婚姻関係を結んでさえいた。おそらく彼女は自身の墓あるいは少なくとも葬祭所領5)をエドフに所有していて、その施設は第18王朝の前半でもまだ維持されていた。
エドフにおける今後の調査は、ゾーン1の邸宅の周囲にある他の住居址の発掘に狙いを定めて継続していく予定である。第二中間期の終わりから新王国時代の始めという、まだ詳しいことが分かっていない時代の街区全体を調査できることは素晴らしい機会であり、今後の成果にも大きな期待が持てると考えている。
(翻訳・附註:和田浩一郎 / 編集部)
註
1)エジプトの伝統的な建築資材である日乾レンガは、ナイル河の上流から運ばれてきた沃土で作られる。そのため肥料になると考えられ、風化した古いレンガを遺跡から掘り出すことが長く行われてきた。
2)古代エジプトの王は複数の名前を用いた。「ホルス名」はそのひとつ。複数の名前のうち「上下エジプト王名」と「太陽神の息子名」は、カルトゥーシュと呼ばれる楕円枠で囲まれた。
3)漢字の部首のように、エジプト語では性質・種類を示すための文字を単語の語尾につけるルールがあった。この文字を決定符や限定符と呼ぶ。
4)第二中間期はエジプトが政治的に南北に分裂していた時代で、テーベ(現在のルクソール)出身の第18王朝によって再統一された。
5)エリート層は死後の供養を維持することに特化した領地を遺すことがあった。これを葬祭所領と称している。
公開日:2023年10月13日