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考古学

ナイルの恵みとヌビアの文化遺産

伏屋 智美 / Tomomi FUSHIYA

ワルシャワ大学地中海考古学センター研究員

ギリシア人歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と言葉をのこした。ナイル川が運ぶ肥沃な土によって、農耕が発達し巨大なエジプト文明を築き上げたことを形容している。

 

その上流、スーダンにおいてもナイル川は、紀元前2500年頃に勃興した王国ケルマをはじめ、クシュ王国、中世ノバディア、マクリア、アルワ3王国など、ナイル流域に豊かな文明社会の発展させてきた。スーダン北部では現在も農業が主要産業で、ナイル川は最も重要な資源である。とりわけヌビア地域の生活文化・社会経済は、ナイルとともに育くまれてきた。

図1 スーダンの地図

現代ヌビア地域は、エジプト最南の街アスワン付近の第1急端1)から南の第3急端と第4急端の間、東から西へと流れていたナイル川が南から北へと曲がるデッバの街まで、約720キロメートルのナイル川両岸地域のことを指す(図1)。第1急端から第3急端周辺までの地域では、耕作地帯は川から数百メートルほどの細長い土地に限られる厳しい環境である。農耕はもとより、飲料水や生活用水、漁業、過去には交通もナイル川に依存してきた。

 

この地域の人口の大半は、ヌビア語(ヌビイン方言とアンダーンディ方言)を話す、または祖先にヌビア語話者を含むヌビア人が占める。しかし、ヌビア地域の人口構成は多様である。例えば8世紀ごろから定住し始めたアラブ人、16世紀からヌビア北部地域を支配したオスマン帝国の領地から移住したボスニア、コーカサス、ハンガリー人、ヌビア砂漠やリビア砂漠で交易を営んでいた人の定住、奴隷として移住させられた人々の子孫、ラクダの放牧をするアラブ系民族、より最近ではスーダン国内外の内戦を逃れた人々、エジプト人ビジネスマンなどさまざまな人々が暮らす地域である。何世代にもわたって共存してきた人々は、アラブ系であってもヌビア語を話す人がいたり、結婚・家族関係を通じてヌビアの文化と祖先の文化の両方にアイデンティティをもつ人がいたり、一方でヌビア人としてのアイデンティティを誇りにする人たちもいる。ヌビアは数千年の間にさまざまな人、文化が入り混じった地域である。このように歴史的に多様な地域ではあるが、ナイル川を中心に彼らの生活文化を考えると、ここにはエジプトなど別のナイル川流域とは違った特異な文化が発展してきたことがみてとれる。

 

ここでは、住居と産後の儀礼から、ナイル川とヌビアの人々がどのように関係を育んできたかを紹介したい。一つ断っておきたいのは、ヌビア地域全てに統一した、単一の「ヌビア文化」が存在するとは言い難いことである。ヌビア地域内で生活様式や言語、慣習、儀礼、伝統文化の継承には、共通点と村々で少しずつ異なる面がみられる。本稿で紹介する住居についてはアブリ周辺、産後の儀礼についてはデッバの対岸、ガッダール村での調査をもとにしている。前者はヌビア語ヌビイン方言の話者が多く住み、後者はアンダーンディ方言の話者がわずかにのこる村であり、ともに住民はイスラム教徒である。別の村では少し内容や意味合いが異なることがある。

 

私が初めてヌビアで調査を開始したのは2014年、アブリ周辺地域であった。主に欧米人やエジプト人が書いた研究文献よりも、実際のヌビアに暮らす人々にとっての「文化遺産」とはなにかを探りたく、「ヌビアの文化遺産とはどんなものですか?」と聞き回った。揚水装置サキア2)ヌビア語、儀礼、楽器・音楽、食文化や「平和的」といった人間性まで、いろいろな答えが返ってきた。そのなかには、伝統的住居、いわゆる「ヌビアの家」が含まれていた。アブリの街や周辺の村々には、この伝統的住居に住む家族もいたり、すでに住まれてはいないが、取り壊さず家畜小屋等、再利用している住居も数多くのこっている(写真1)。

 

写真1 アマラ村にのこる古い村落風景 写真:the British Museum Amara West Research Project

「ヌビアの家」の住居とは、ナイルがもたらす資源によって建てられる。壁は、ナイル川のシルト(沖積土)を型に入れてつくる日干レンガやシルトを動物の糞などと混ぜこねた塊(ジャルース技法)で築く。壁面と床面はシルトとロバの糞を混ぜた泥プラスターを用い、屋根はナツメヤシの幹を跨がせた上にいくつものナツメヤシの枝を並べて、さらに「重し」として泥の塊をのせる。入口には立派な脇柱を備えた特徴的な大きな門がつくられ、扉には貴重な木材が使用される(写真2−1、2−2)。これら基本的な特徴に、村によってまたその時の流行や個人の好みにより、外壁上部に飾りを加えたり、壁面を白、黄、赤色に塗ったり、幾何学文様を描いて飾る。

写真2−1・2−2 大きな門は、ヌビアの家の特徴であり、各住居で個性的なデザインがみられる 写真:the British Museum Amara West Research Project

アブリ周辺では以前は白色が塗られていた家もあったようだが、いまでは多くの伝統的な住居の壁には色は加えられず、壁面に泥プラスターを塗る女性たちの指の跡でヤシの木を描いたようなデザインが主流になっている(写真3)。ヌビアの家の間取りは、たいていメインの入口から入ると大きな中庭がひろがり、いくつかの部屋、台所、「ベランダ」とよばれる風通しのよい屋根のあるスペースと天井が他よりも高い客間の「サローン」が中庭を囲む。その中庭の床面も、女性の手で手入れされ、ヤシの木を描いたようなデザインで覆わる。

写真3 ナイル・シルトを用いたプラスターで壁面を手入れする女性 写真:the British Museum Amara West Research Project

ヌビアの風景に河岸や中洲の島にしげるナツメヤシの木は、ナイル川とともにかかせない(写真4−1、4−2)。枝いっぱいに実をつけたナツメヤシはヌビアでは豊かさのシンボルである。栄養価の高いナツメヤシの実(デーツ)は、厳しい環境下で生きるヌビアの人々にとって貴重な栄養源であり、質の高いヌビア産はスーダン国内において高値で取引される換金作物である。さらに資源の乏しいヌビアでは、重要な建築部材でもある。

写真4−1・4−2 ヌビアの風景には、ナイル川とナツメヤシの茂みがかかせない。左(4−1)写真:the British Museum Amara West Research Project、右(4−2):Mosaab Sorta作成

ナイルシルトとナツメヤシの二つの重要な資源で建てられた家が文化遺産としてあげられるのは、建築部材やデザインが伝統的な方法を用いているからだけではない。伝統的な住居は、「記憶の思い出箱」としての役割を担っているためである。

 

インタビューに応じてくれた20代の若い男性は、ヌビアの家には祖父(やその世代)が使用した道具や生活用品、聞かせてくれた昔話、生活習慣などを思い出すきっかけを与えてくれるため、それらも含めてヌビアの家が文化遺産だと説明してくれた。ヌビアでは使用しなくなった古い道具、容器、生活用品は、家の中の1室にまとめて保存している家庭がみられる。またアブリ近辺のエルネッタ島には、元の住民は亡くなって空き家になった現在も子孫によって定期的に清掃され、使用されている住居がある。毎年イード(イスラム祭日)の最初のお祈りを終えた後、親族一同がこの祖先の家に集まり、お茶を飲むそうだ。この住居に関連する男性は、あまり詳しく説明しなかったのだが、先祖とのつながりを保つためにこの家が手入れされ、利用され続けているのではないだろうかと私は理解した。

 

近年は、雨量の増加や手入れの煩雑さから、コンクリートにトタン屋根、カラフルな色に塗られた、いわゆる「ハルツーム様式」の家が増えている。そのなかで、ヌビアの家は住居としての役割が徐々に減っている。しかし、地元で手に入る、地元の生活、社会経済を支えてきたナイルとナツメヤシで建てられた家は、文化遺産として役割を代えながら、地元住民に大切にされていくように思える。

 

ヌビア地域には、ナイルに関連する儀礼がいくつか記録され、ナイルには天使が宿るといわれてきた。1960年代前半に第1急端から第2急端の間のある村で実施された調査によると、天使の性別は男性と女性がいて、善い天使と悪い天使が存在すると記述されている。善悪の対照的な性質は、ナイル川が恩恵と破壊を流域住民にもたらすことと関係しているのだろう。古代からナイル流域の農耕には水分をたっぷり含んだ肥沃な土をもたらす夏季の氾濫が不可欠で、ヌビア地域の一部の耕作地はいまでも氾濫に頼っている。しかし、ナイル川の氾濫が通常の水位を超えると、河岸近くに集中する農地や住宅地に大きな影響をもたらす。2020年9月には、1912年観測開始から最高位の水位を記録した洪水がハルツームから南部を襲い、100名の犠牲者と10万件の住居を破壊した。

 

破壊をもたらす面がありつつも、その恩恵を農業以外にも見出してきた。ナイル(またはそこに住まう天使)は、妊娠・出産・(男子の)割礼・病気治癒に対する恵をもたらすと考えられ、ナイル川岸で主に女性により儀礼が執り行われる。そのうちの一つ、産後の儀礼についてガッダール村の男性が話してくれた。産後の時期に最も重要と考えられている40日目には、村の女性たちが集まり、アル・アルバイン3)とよばれるナイル川で儀礼がおこなわれる。

 

別談だが、女性にインタビューをしていても男性が割って入って話すことがヌビアではよくある。女性はヌビアの文化遺産の知識を豊富にもっていると男性も認めるものの、外に発信する地元の情報源は男性だと認識されているようである。下記の儀礼は実際、女性(と子ども)のみが参加するため、今後は直接女性から具体的に意味合い等について、聞きたいと願っている。つまり、まだ調査中の内容である。

 

ヌビア地域では、女性は自身の両親の家に戻り出産し、その後40日間滞在する。出産後はナツメヤシの枝が自宅の門に飾られ、家族や近所の人々がお祝いに訪れる。女性と子どもたちは直接母親と新生児に挨拶し、男性は客間に案内される。出産後40日間は母親と新生児は、同じ部屋で寝起きし、24時間、必ず誰か一人が付き添っている。これは母親が精霊(ジン)を怖がったり、なにかよくないことが起きるたりすることを防ぐためである。

 

伝統的には母親と新生児はさまざまなお守りに囲まれて40日間を過ごす。二人が寝起きする部屋の入口の床には木の杭がうたれ、ベッドのそばの壁には、コーラン、剣、黒・赤・黄・白・緑の石と銀の留め金でつくられた数珠の3点で三角形状にかざられ、ベッドの下には短剣または小さな斧とデーツの種とソルガムが置かれる。これらは、悪い精霊から母子を守る魔除であるが、いまでは揃える母親家族もすくなくなったそうだ。40日間、ベッドの下は掃除をせず、毎日清めのためのお香(べホール・ロバーン)を朝に、いい香りのするアカシアの木からつくられたべホール・シャッフが午後に毎日焚かれる。後者は産後の緊張した筋肉や皮膚をほぐす役割があるという。

 

その後40日間の間にいくつかのお祝いが執り行われる。子供の誕生の3日後は母子ともに出産からの危険がなくなったと考えられ、子ヤギが生贄として解体される。8日目は、名付けのお祝いが行われる。村のシェイフが早朝に訪れ、自分の名前を覚えるようにと、子どもの右耳にアザーン(イスラム教の礼拝への呼びかけ)を囁き、左耳にイカーマ(もう一つのイスラム教の礼拝への呼びかけ)を囁く。その後柔らかく潰したナツメヤシの実を子どもの口に含ませ、良いことだけを話すいい子に育つようにと祈る。その後ヤギ(双子なら二頭)が解体され、近所や友人を招待した朝食をとる。

 

40日目は最も重要な日である。前日の39日目から家族はお祝いの準備を始める。村の女性たちは母親の家に集まり、菓子やドーナツをつくり、母親と子の40日間、最後の水浴びに立ち会う(写真5)。40日目の午後、村と女性の子どもたちが集まり、ナイル川へと向かう。途中モスクに立ち寄り母親と子が初めて共に祈りを捧げる。河岸へ一行が到着すると、まず母親が川の水で自身の顔を洗い、続いて子の顔を洗う。その後年長の女性たちが、ナイルの天使が好む甘いお菓子、ソルガム、小麦の種を祈りの言葉を唱えながら、川へ投げ込む。

写真5 地元のお祝い事に集まる女性たち 写真:Courtesy of Polish Centre of Mediterranean Archaeology, University of Warsaw, photographed by T. Fushiya

その後一行は、ガッダール村の隣にあるオールド・ドンガラ遺跡にあるイスラム教徒の墓地へと向かう。ガッダール村民の祖先の多くはシェイフやファキといったイスラム知識人や首長で99あると言い伝えられているドーム型聖者廟(コッパ)(写真6)に埋葬されている。母親の祖先のコッパへと女性たちは向かい、母親はコッパ内に入り、埋葬墓の近く  の砂を手にとり、祈りの言葉を唱えながら自身や子の首に砂を擦り込む。ほかの女性たちも続いて砂を手にとり自宅に持ち帰る。聖者廟内の埋葬墓付近の砂は神の恩寵(バラカ)をもたらすと信じられている。その後、女性たちは母親の家に戻り、儀礼が終了する。これで母親は40日後初めて、同じ部屋、同じベッドに居座ることから解放される。

写真6 オールド・ドンガラの聖者廟。写真:Courtesy of Polish Centre of Mediterranean Archaeology, University of Warsaw, photographed by T. Fushiya

このように子どもの誕生を祝う最も重要な40日目の儀礼は、ナイル川でおこなわれる。この他に別のヌビア地域では、7日目と40日目に同様の儀礼を実施したり、40日目に生まれた子を何度かナイル川に浸す儀礼を実施したりするところもある。ナイルの天使は、とりわけ女性や子どもに恩恵を与えてくれると考えられているようである。

 

本稿では2つの事例の紹介にとどまったが、ヌビアに暮らす人々にとって、ナイル川の恩恵は農業に限らず、生活文化のさまざまな側面に関係している。これらの文化遺産は、ヌビアの文化がいかにナイル川とともに育まれてきたかをあらわしていると言えるだろう。

  • 急端(カタラクト)は、川幅が狭く花崗岩の岩盤が現れる急流地域で、船での通過が難しく、歴史上では政治・文化の境界の役割を担ってきた。例えば、エジプト南部のアスワン付近の第1急端は、古代からエジプトとヌビアの境と定められていた。
  • 紀元3世紀ごろから1960年代頃まで灌漑に欠かせなかったサキアは厳しい自然環境で農耕を営んできたヌビアのシンボル的な文化遺産である。
  • アルバインはアラビア語で40を意味する。

伏屋 智美ワルシャワ大学地中海考古学センター研究員

1981年愛知県生まれ。早稲田大学で学士、イギリス、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで修士号、オランダ、ライデン大学考古学部で博士号を取得。エジプトにおいて考古学や遺跡修復マネジメントプロジェクトに従事したのち、現在スーダンにおける考古学と地元コミュニティの関係について研究をおこなっている。近著に野口淳、安倍雅史編『イスラームと文化財』の「エジプト・「アラブの春と文化財」」がある。