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動向

ウクライナ戦争(2)生物考古学標本の危機

インナ・ポティエヒナ / Inna Potiekhina
ウクライナ科学アカデミー考古学研究所生物考古学部門長、PhD

オレクサンドラ・コザク / Oleksandra Kozak
ウクライナ科学アカデミー考古学研究所生物考古学部門主任研究員、PhD

図1. ロシア軍に略奪された後のマリウポリ郷土史博物館( 写真はウクライナのマルチメディア報道プラットフォーム「ウクルインフォルム(UKRINFORM)」より https://www.ukrinform.ua/rubric-ato/3486341-kultura-pid-vognem-ukrainski-muzei-pisla-obstriliv-rosian.html )

ウクライナの主権とウクライナ人の基本的人権に対するロシアの侵略は、文化遺産、遺跡、博物館、収蔵品、学術情報、そしてウクライナの考古学者、生物考古学者、人類学者の仕事に深刻な被害を与えている。ドネツィク、ルハンスク地方の一部とクリミアが不法に併合されて以来、ウクライナ領土から多くの考古学的発見物や生物考古学的標本が持ち出され、ロシアの機関(例えば、エルミタージュ、モスクワ大学人類学研究所・博物館、ロシア科学アカデミー民族学・人類学研究所、サンクト・ペテルブルクのクンストカメラなど)がこれらの収蔵品の不法「所有者」となっているのが現状である。奪われた考古学的資料は、ウクライナの国立考古学機関の許可なく、広く出版・展示・公開がなされている。

 

ウクライナの東部と南部では、多くの遺跡と豊かな文化遺産のほとんどが破壊の脅威にさらされている。戦地では、多くの文化的・歴史的モニュメントが完全に破壊された。取り返しのつかない損失としては、世界的に有名な新石器時代のマリウポリ埋葬地の貴重な考古学的・人類学的資料が保管されていたマリウポリ地方歴史博物館が、ロシアによって略奪された例がある(図1、2)。

図2. 略奪され焼かれた、初期新石器時代のマリウポリ埋葬地の展示(写真は図1と同じくhttps://www.ukrinform.ua/rubric-ato/3486341-kultura-pid-vognem-ukrainski-muzei-pisla-obstriliv-rosian.html)

この巨大な埋葬地と関連するカルミウス集落の独特な収蔵品は、2022年の博物館火災で焼失し、集落遺跡自体も攻撃により破壊された。また、ロシア占領軍は、マリウポリ美術館から有名な画家であるイワン・アイヴァゾフスキー、アルキップ・クインジなどによる絵画作品を持ち去った。これに加え、スキタイの金製品を多く所蔵していたケルソンやメリトポリの博物館も略奪された。紀元前12000年から中世におよぶペトログリフで知られるカムナヤ・モヒーラ遺跡は、ロシア軍によって解体された。この歴史的保護区から盗まれた数百の遺物は、占領下のクリミアに運ばれた。

2023年6月初め、ロシア軍は、この国の環境や文化・歴史的遺産に対して、新たな恐るべき罪を犯した。彼らはドニプロ川のノヴァ・カホフカにある大規模なダムを爆破し、ウクライナ南部のドニプロ川流域にある数百の考古学的遺跡に大規模な洪水と破壊を引き起こしたのである。

 

ウクライナ人のアイデンティティを破壊することを目的とした、ロシアによるこのような文化的歴史的価値の意図的な破壊と盗用は、キーウのウクライナ国立科学アカデミー考古学研究所の学術保管庫に収蔵されている生物考古学(古人骨および動物骨)標本にも深刻な懸念を抱かせている(図3)。

図3. 人類学標本が保管されているウクライナ国立科学アカデミー考古学研究所の学術資料保管庫(撮影:O. Kozak)。

考古学研究所の人類学標本は、3万以上の骨格標本を含み、ヨーロッパで最も代表的なものの一つと考えられている。これらは、数世代にわたるウクライナの人類学者の努力によって築かれたもので、現在は生物考古学部門の科学スタッフによって管理されている(図4)。

図4. ウクライナ領土内の人類学的コレクションを管理する「ウクライナ国立科学アカデミー考古学研究所生物考古学部門」の科学スタッフ(戦前の写真 / 画像提供:I. Potiekhina)。

この保管庫では、中石器時代の洞窟墓、新石器時代の集団墓地、新石器時代のドルメン、青銅器時代の古墳、スキタイのクルガン、中世の地下墓地や有力者の石棺、近世の教会墓地など、幅広い時代の様々な埋葬遺跡から発掘された人骨を所蔵している。これらの人類学的資料は、南はクリミアから北はポリシアまで、東はドネツィク草原から西はカルパチア山脈まで、ウクライナ領土の様々な地域から出土したものであり、年代が明確で、考古学的文脈との関連性が高く、文化的帰属が明確である。これらの標本群は、古代の様々な民族文化集団の起源、人類学的構成、遺伝的つながりとその移動、人口動態、先史社会における食事と食糧戦略、古代集団の健康状態や病気の広がり、主要な活動タイプの特定、ウクライナの考古遺伝学的地図、文化伝統、儀礼、儀式の研究といった東欧史の重要問題を扱う上での貴重な資料となっている。

図5. 一部の標本はすでに再梱包・整理され、避難の準備が整っている(撮影:O. Kozak)。

2022年2月にロシアのウクライナに対する本格的な軍事侵略が始まって以来、標本を管理するウクライナの人類学者や生物考古学者の研究活動は停止している。我々が今優先しているのは、骨格コレクションを破壊や略奪、その他可能性のある損失から守ることである。また、人類学収蔵庫の警備を緊急に強化することも重要である。

 

現在、生物考古学部門では、人類学的・古生物学的標本の保護と、避難準備のために必要な目録の作成・梱包を行なっている。常に空襲があり、電気の供給や暖房の停止があり、ロケット弾が飛んでくることもあるという、戦時中の厳しい環境の中での作業である。すでに梱包し直され、整理されている標本も少なくない。新石器時代と中石器時代の資料のほとんどと、初期青銅器時代と鉄器時代の人類学的標本数千点(ヤムナ、カタコンブ文化、スキタイ文化など)を含むステップ地帯の古墳出土標本の一部、そして紀元後10~18世紀の資料の一部も整理されている(図5)。しかし、青銅器時代中期・後期(ズルブナ文化、ビロゼルスカ文化)、中世の標本のほとんどは、今後の処理・目録作成・再梱包を必要としている(図6)。

図6. 多くの収蔵品について、整理、目録作成、再梱包が必要である(撮影:O. Kozak)。

戦時下において、国家財政の中心が軍事的な必要性に向けられ、スタッフの一部が避難したり軍事行動に参加したりする現状では、生物考古学標本室は多大な外部支援を必要としている。我々は、貴重な科学的情報源であり、固有の歴史的遺産である古代の生物考古学的コレクションの回復不能な損失を防ぐために、あらゆる援助(梱包材、箱、3Dスキャナーなど)を受け入れる準備ができている。ウクライナ国民は、国の主権を守るために協力してくださるすべての方々に心から感謝している。しかし、この戦争は一国の国益に関する次元をはるかに超えた、文明に対する野蛮の戦争であり、文化に対する破壊行為の戦争である。私たちは、私たちの祖先の遺骨が踏みにじられるのを防ぐために、世界が私たちに協力してくれることを願っている。

 

(翻訳:庄田慎矢 / 国立文化財機構奈良文化財研究所国際遺跡研究室長)

■ウクルインフォルム(UKRINFORM)日本語対応サイト https://www.ukrinform.jp/

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