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動向

神奈川県における「戦争遺跡」の史跡指定に関わる諸問題について

谷口 肇 / Hajime Taniguchi

神奈川県教育委員会教育局生涯学習部文化遺産課

写真1 移設された第三海堡電灯所(撮影:筆者)

はじめに

神奈川県は、幕末開港の地である横浜、製鉄所(造船所)や鎮守府が設けられ、我が国近代の重工業や軍事の拠点となった横須賀を抱えることもあり、数多くの「近代化遺産」、「近代遺跡」が所在する。それらの中には、明治期以来、東京湾を防衛する目的で沿岸部に設置された砲台、県内各地に設けられた各種の軍需工場(工廠)、飛行場のほか、第二次世界大戦末期に築かれた大小の地下壕など、軍事関連施設の遺構が含まれる。これらは、今日「戦争遺跡」と一般に呼称される。

 

筆者は、神奈川県の文化財保護行政に携わる中で、「戦争遺跡」を含む近代遺跡の保護にも関わってきたが、その業務を通じて「戦争遺跡」の適切な保存については様々な課題、問題が残されていることがわかってきた。本稿では、あくまでも神奈川県内での自身の経験からではあるが、「戦争遺跡」の史跡指定に係る問題点についての私見を述べることとしたい。

文化庁の近代遺跡調査と「軍事に関する遺跡」

文化庁は、平成期に入ってから、近代の文化遺産の保護について積極的に検討するようになったが、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災における近代歴史的建造物の被災も契機となって、翌年に建造物を対象とした「国登録有形文化財」の制度を発足する。登録対象は、おおむね竣工後50年を経過した物件であり、この時点では第二次世界大戦前の近代建造物が文化財として登録可能という時期的な目安が公に示された。

 

一方、土地に関わる史跡については、平成7年3月の指定基準改正により、近代まで指定可能として、同年6月に広島市の「原爆ドーム」が史跡に指定された。その上で、文化庁は、平成8~10年(1996~1998)に都道府県を通じて「近代遺跡」の全国調査を実施する。対象とする時期幅は、幕末・開港期からおおむね第二次世界大戦終結時点ということで、おそらく史跡指定基準の緩和及び建造物登録制度発足に呼応して、保護すべき近代の遺跡の全国的なリストアップを企画したものと思われる。調査項目は「エネルギー産業」「重工業」「社会」「文化」など大きく8分野に分けられるが、その大分野の「政治」の中に「軍事に関する遺跡」という小分野がある。

 

意外かもしれないが、文化庁では、「戦争遺跡」という用語を使用しない。使うのはこの「軍事に関する遺跡」である。戦争に関係する遺跡の呼称は、1980年代に沖縄方面など第二次世界大戦の戦闘行為に直接関わる「戦跡」から始まり、民間の研究者が主導して用語としての「戦争遺跡」が定義づけられ、今日では第二次世界大戦時に限らず、明治・大正期から我が国の軍事に関連する近代の遺跡を広くカバーする意味合いで一般化するに至っている。文化庁の「軍事に関する遺跡」の内容もほぼこの一般的なものである。筆者が以前、文化庁の調査官に直接伺ったところでは、「戦争」という用語は広範過ぎるので、それこそ戦国時代の合戦も含まれてしまう、そうなると中近世の城郭なども全て「戦争遺跡」になってしまう、といった返事を受けたことがある。なお、この平成10年度調査時の神奈川県の回答として、「軍事に関する遺跡」については、猿島砲台跡(写真2)など37箇所を報告している。

写真2 猿島砲台跡(提供:横須賀市)

文化庁の次の作業は、都道府県から報告された数多くの近代遺跡事例について、各分野ごとに国として重要と考える物件を選別し、それらの歴史的、文化財的価値等を取りまとめた報告書を刊行することである。しかし、最初に刊行された平成14年(2002)の「鉱山」の後、順調に刊行が進んだわけではなく、元号が変わった現時点でも全ての分野の報告書が揃ったわけではない。「軍事に関する遺跡」も未完のままである。

 

こうした事態に近代遺跡の国史跡指定を目指し、報告書に取り上げられることによる「国のお墨付き」を必要と考えた自治体は反発し、文化庁と自治体担当者の会議の席上で特に「軍事に関する遺跡」の報告書早期刊行を要望するなどの動きもあった。そこで文化庁は、平成25年(2013)1月に都道府県に対して、近代遺跡について個別に「調査研究が進み、その意義等が評価できるなど指定や登録の条件が整ったものについては、西南戦争遺跡等これまでも指定や登録の手続きを進めてきており」、報告書刊行は必ずしも前提にはならない、との見解を通知し、合わせて「近代遺跡調査対象物件一覧」が提示された。要するに近代遺跡全般について、自治体側で調査研究を進めるなど、通常の史跡指定の手続きを踏めば、報告書刊行前でも指定は可能とのことだが、わざわざ「西南戦争遺跡」を例示しており、「軍事に関する遺跡」報告書刊行遅延問題を意識した通知とも思われる。結果的に指定を希望する自治体側にボールを投げ返した形となった。

 

この時の「近代遺跡調査対象物件一覧」における「軍事に関する遺跡」は全国55箇所で、これらは全国調査で集約した中から文化庁によって選択された特に重要な物件であり、実質的に当面の国指定あるいは登録候補とみなされることになる。

神奈川県の「軍事に関する遺跡(戦争遺跡)」の文化財指定

この55箇所の中に神奈川県内からは、5箇所が選ばれた。①「日吉台地下壕」(横浜市)、②「陸軍登戸研究所」(川崎市)、③猿島砲台跡を含む「東京湾防衛砲台群」(横須賀市)、④「旧横須賀鎮守府関係遺跡」(横須賀市)、⑤「相模野海軍航空隊(厚木基地)」(大和市・綾瀬市)である。この中で④⑤は米軍基地内に所在し、測量・図面作成等の詳細調査は当面困難、また、①②は私立大学敷地内であり、土地所有者である大学側との調整が必要となる。したがって指定への手続きが比較的容易であるのは公有地が多い③になる。実際に横須賀市は、この通知以降、「猿島砲台跡」とタイミングよく自衛隊通信基地が移転したばかりの「千代ケ崎砲台跡」(写真3・4)について、文化庁の指導を受けながら、調査研究など国史跡指定への手続きを計画的に進め、平成27年(2015)3月に「東京湾要塞跡」として国史跡指定告示を実現した。

写真3 千代ケ崎砲台(提供:横須賀市)

写真4 千代ケ崎砲台・塁道(撮影:筆者)

神奈川県教育委員会(以下「県教委」)では、平成25年(2013)4月に発覚した、横浜市の日吉台地下壕坑口の毀損事案及び平成27年(2015)の戦後70年を受け、それぞれ平成25年6月と平成27年2月の県議会で「戦争遺跡の保護の検討」について答弁している。この時の議員の質問は「戦争遺跡について」であったため、県教委としても一々「文化庁の言う軍事に関する遺跡」などと言い換えはせず、「いわゆる戦争遺跡」という調子で答弁を行った。この時、文化庁に事前の了解を得た上で「「戦争遺跡」という名称は、一般的に、幕末・開国頃から第2次世界大戦終結までの軍事や戦争に関する施設、及び戦争による被害の痕跡の総称として用いられております」と答弁し、これが現在に至る県教委のスタンスになっている。対文化庁や公文書上では「軍事に関する遺跡」を使用し、議会答弁を含めた外向けには「いわゆる」を付した一般的な意味合いでの「戦争遺跡」を使う、という形であり、本県以外でもほとんどの自治体がこのような使い分けを採用していると思われる。

 

また、議会答弁を受けて「戦争遺跡」の県指定史跡への指定を検討するため、平成27年度以降、県内各地の「戦争遺跡」の現地を視察し、当該市町村とも協議を行ったが、後述するように様々な問題があり、現時点でも県史跡指定は実現していない。その代わり、横須賀市教育委員会の協力の上で、市指定重要文化財であった「東京湾第三海堡構造物」(写真1)の県指定重要文化財への(格上げ)指定を平成30年(2018)3月に行った。これは本来、「東京湾要塞」の一部として、横須賀沖の東京湾上の人口島に大正期に完成した砲台(「堡」は「とりで」の意味)であったが、関東大震災で崩壊、水没し、暗礁と化していたものを戦後に国土交通省が一部を引き上げて横須賀市海浜部の2箇所に移設したものである(写真5)。本来設置された土地から切り離されているので「史跡」ではなく、有形の文化財として「重要文化財」、その中でも美術的な価値というより歴史的な価値が評価されるという意味で「歴史資料」というジャンルでの指定となった。

写真5 第三海堡構造物の移設作業(提供:NPO法人アクションおっぱま)

「戦争遺跡」の文化財指定にあたっての課題・問題点

筆者が県教委の担当者として、上記「戦争遺跡」の取扱いや国県指定の手続きを通じて感じた課題や問題点は数多い。特に先述の日吉台地下壕毀損事案は、そもそも当該箇所が当時「埋蔵文化財包蔵地」として未周知だったことに起因する。いわゆる遺跡の存在する土地は、文化財保護法上「埋蔵文化財包蔵地」とされ、その範囲内で掘削を伴う土木工事等を行う場合、事前に当該市町村を通じて県教委に届出を行う必要がある(政令市には届出の処理権限が委譲されている)。市町村は、既往の分布調査等に基づき、それぞれ埋蔵文化財包蔵地の分布地図(これを遺跡分布地図といい、個別に台帳も作成)を作成し、県教委が取りまとめるが、遺跡分布地図に示された埋蔵文化財包蔵地を「周知の埋蔵文化財包蔵地」、地図・台帳に登載することを「周知化」と言う(土地所有者の承諾は不要)。ということは逆に現在未発見で地下に埋もれたままの「未周知」の埋蔵文化財包蔵地も数多く存在する。日吉台地下壕の毀損箇所は、この「未周知」の場所であったため、埋蔵文化財が地下にあることを開発事業者が認識しないまま、崖面を掘削して現れた坑口のコンクリート構造物を毀損してしまった。

 

横浜市教育委員会は、事業者からの連絡を受け、日吉台地下壕の大部分を抱える慶應大学の協力の上で、残存部分の調査を急遽実施した。その後、県教委との協議を経て、翌5月には当該箇所を含む、坑口が所在する斜面部を広く周知化した。これがあらかじめ周知化されていれば、事前に工事に係る土木工事届出が横浜市教委に提出され、その内容に基づき、必要であれば当該地における試掘確認調査が行われるなど、坑口の構造物が把握できた可能性があり、横浜市教委は事業者と工事着手前に設計変更等の協議を実施できたかもしれない。

 

この事案について、横浜市教委が後手に回ったと単に批判するだけですむのか、というと必ずしも正しくはない。周知化の対象となる埋蔵文化財の時代は、文化庁の従来の指導によると、原則として「中世」までであり、近世は「地域にとって必要なもの」、近代は「地域にとって特に重要なもの」となっている。当時は近世=江戸時代までの遺跡の周知化が一般化してきた段階であり、近代遺跡の周知化は、当該市町村の判断に委ねられる部分が大きく、文化財的価値付けについて、先述のように文化庁による報告書刊行まで「様子見」の自治体が多かったことも周知化が遅れた一因と推定される。この意味では、周知化の「元締め」である県教委も反省すべき点はある。

 

今日では「高輪築堤」など近代遺跡の取扱いが改めて注目され、文化庁も対応を検討中とのことだが、今現在でも県内の市町村によっては近代遺跡の周知化が進んでいない、砲台跡などの「戦争遺跡」でも周知化が遅れているという事実がある。平成11年(1999)の地方分権によって都道府県と市町村の立場がフラットになったことで、県としては市町村に「助言」はできるが「指導」や「指示」はできなくなった。このため各地の「戦争遺跡」を視察して、当該地が未周知という状況が確認できても県は市町村に対して「周知化した方がよい」と「助言」はできるが、「周知化しろ」と指示や指導は必ずしもできないという事情もある。

 

また、「史跡指定」のためには、当該遺跡が指定に値する文化財的価値を有することを自治体側が調査を実施して、あらかじめ明確にする必要がある。つまり学術的に文化財的価値を証する手続きが必要になり、その調査報告書が指定にあたっての基本資料となる。その調査の根幹が当該遺跡の発掘、測量、図面作成といった地道な作業であるが、地下壕など「戦争遺跡」は大規模なものが多いため、費用も当然高額になる。また、地下壕には内部に土砂や産業廃棄物などが持ち込まれている場合も多く、量が多い場合はその処理費用も高額になる場合がある。これらの調査の費用や手間がネックになって「戦争遺跡」の調査が進まず、結果的に指定も進まないといった状況も見受けられる。自分が県内で目にした「戦争遺跡」の多くは未調査であり、調査予定も当面ないといった状況であった。

 

もう一つ注意する点は、「戦争遺跡」は、通常の縄文時代などの遺跡と異なる「政治性」を帯びる場合があることで、行政側はあくまでも中立の立場で取り扱うようにしなければならない。地域住民が当該「戦争遺跡」に対して相反する感情を抱くこともあり得る。筆者も先の議会答弁の際に相談した文化庁担当者から「戦争を賛美するような表現にならないように」指導を受けた。実際に砲台などは当時の最先端の技術で構築されているが、その優秀性を述べる際などは客観性に徹する必要がある。

 

以上のほかに地下壕の所有者が曖昧になっている問題などがあるが、紙幅の都合があるので省略する。

今後に向けて

以上、「戦争遺跡」の史跡指定には、様々な課題やハードルがあり、一朝一夕に話が進むわけではないが、まずは当該「戦争遺跡」を地元自治体が地域の歴史を語る貴重な文化遺産と認識して、その保存活用を地域政策の中にきちんと位置付けるという「覚悟」が大事になる。「この戦争遺跡は大切だ」という「初期衝動」を史跡指定という恒久的保存措置にいかに昇華していくのか、国県市町村、所有者及び地域住民など関係者間で今後も丁寧な調整を積み重ねていくしかないだろう。

公開日:2023年9月1日最終更新日:2023年11月1日

谷口 肇たにぐち はじめ神奈川県教育委員会教育局生涯学習部文化遺産課

平成元年(1989)神奈川県立埋蔵文化財センターに埋蔵文化財専門職として採用。平成11~13年度(1999~2001)箱根町教育委員会に派遣、国史跡「箱根関跡」の整備事業を担当。平成14年度(2002)に県教育委員会文化遺産課に復帰、埋蔵文化財に関する調整事務を担当、平成23年度(2011)より史跡名勝担当、平成26年度(2014)よりグループリーダー、令和3年度(2021)より副課長として、有形文化財、民俗文化財等を含む県文化財保護行政全般の調整に当たる。