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動向

照空隊陣地の発掘とその成果の公開―横浜市戸塚区舞岡熊之堂遺跡―

古屋 紀之 / Noriyuki FURUYA

公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長

舞岡熊之堂遺跡空撮(B区調査時 平成30年。提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

舞岡熊之堂遺跡の発掘

横浜市戸塚区に所在する舞岡熊之堂遺跡は、市営墓地造成に伴って平成30年5月~令和2年3月に本発掘調査が行われた。戸塚の街が広がる柏尾川中流域の沖積低地を西側に見下ろす、標高約60m程度の丘陵上に立地しており、丘陵尾根上の約6,000㎡を発掘したところ、縄文時代中・後期の集落跡、弥生時代後期の環濠集落跡などと伴に、照空隊陣地が良好な状態で見つかったのである。

 

照空隊陣地の発見は全くの偶然で、発掘前に地元住民の話として「戦争時に敵機を見張る施設が尾根上にあったらしい」という断片的な情報はあったものの、主任調査員を担当した筆者に、戦時中の防空陣地の知識はおろか、戦争遺跡に対するまともな知識・関心もなかったため、小規模な防空壕がいくつか見つかる程度だろうと”タカ”をくくっていた。現にE区と呼ばれる遺跡南端の高まりに、発掘前から横穴が小さく口を開けており、この穴がそれに相当するのだろうと考えていたのである。

照空隊陣地の発見

照空隊陣地の一部が姿を現したのは、平成30年5月に北側のB区の表土剥ぎを始めてすぐのことであった。当初、戦争遺構の認識が無いままの検出であったため、大きな攪乱と誤認して、重機で覆土の大半を除去したところ、長軸23mの精美な柄鏡形の遺構が姿を現した(写真1)。この時点で教育委員会の担当に連絡し調べてもらったところ、隣の川崎市麻生区黒川地区に三十年前に発掘された同様な事例があり、太平洋戦争時の陸軍照空隊陣地の照空灯掩体跡であることが分かった1)

写真1 発掘中の照空灯掩体跡(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

この時、黒川地区の先例が大きく作用してか、市教育委員会では、これら照空隊陣地に関連するものを調査対象とし、遺構・遺物として位置づけることとした。その判断に基づき、以後は覆土除去の段階からベルトを設定し、覆土の断面観察を行いながらの調査となった。

 

黒川地区の発掘では、照空隊の中隊本部と分隊陣地が完全な形で発掘され、しかも当時存命だった元兵員の方々(北海道帯広の部隊だった)に手紙を送り、検出された遺構の機能や、当時の陣地での活動の様子などの聞き取りを行った。その結果、「照空灯掩体跡」、「聴音機掩体跡」、「離隔操縦機掩体跡」、「通信室」、「待機所」、「中隊長指揮所」など、多くの遺構の具体的な機能が明らかになり、その他、「兵舎」や照空灯に電源を送る「電源車」が停められていた位置も判明した2)。舞岡熊之堂遺跡の発掘では、これら黒川地区の調査・聞き取り成果を援用することによって、ほとんどの遺構の性格を明らかにすることができたのである。

分隊陣地と中隊本部

図1 舞岡熊之堂遺跡全体図(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

舞岡熊之堂遺跡も黒川地区と同様に分隊陣地(B区)と中隊本部(E区)がセットで存在していた(図1)。尾根北部のB区全体に分隊陣地が占地しており、北部に照空灯掩体跡があり、そこから南に40m隔たったところに分隊陣地の各施設(聴音機掩体跡、通信室、待機所等)が見つかり、北側照空灯掩体跡との間はケーブル溝でつながれていた。また、分隊陣地の北・西・南側は外郭溝によって区切られており、範囲は南北70m×東西40mの規模に達する。また、遺跡南部の丘状部(E区)では中隊本部と見られる遺構群が検出された(写真2)。丘頂部には二つの地下室と、機関砲座と見られる台座跡1基が存在するが、それらを取り囲むように、丘の中腹に大規模な多角形状の囲郭施設が検出された(写真3)。底面幅約5mの大きな掘り込みで、南西部・西・北西・北東にそれぞれ辺を持っており、西側と北東側に1ヶ所づつの出入口施設が検出されている。おそらく未調査区の東側にも及んでいると見られる。これらの囲郭施設は黒川地区では検出されておらず、その性格は不明である。壁沿いには溝がめぐり、そのすぐ内側に1.8~2.0m間隔で長方形の柱穴が整然と並んでおり、広い地下空間として機能していたのであろう。ところが、土層観察の結果、この囲郭施設はある時点で埋め戻され、いくつかの地下室とそれらをつなぐ狭い通路に造り替えられていたことが判明した。爆撃に強い構造に直したのであろうか。

写真2 中隊本部跡空撮(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

写真3 「囲郭施設」調査風景(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

照空隊陣地研究

調査終了後、令和2年7月から出土品の整理作業を開始するとともに、照空隊陣地のことを調べ始めた。照空隊は高射砲部隊と組んで防空を担当する部隊で、まだ射撃用レーダーが開発される以前に、照空灯や探照灯と呼ばれる大型のサーチライトで夜間飛行する敵機を照らし出した部隊のことである(写真4)。高射砲に関する書籍はいくつかあるものの、照空灯や照空隊そのものを主要テーマにした書籍は無く、この分野の知識が無い筆者にとっては、その研究は容易な事ではなかった。幸い、数人の戦争遺跡研究者や近代軍事史の研究者に助力を得て、段々とその実態が分かるようになってきた。

写真4 照空灯(米国立公文書館所蔵。提供:工藤洋三氏)

はじめに参照したのが、『本土地上防空作戦記録 関東地区』「付図第二 高射第一師団展開要図」・「付表第三其五 高射第一師団陣地一覧表 高射第百十七連隊」3)である。これにより、今回の発掘で発見された陣地が「高射第1師団 第117連隊 第3大隊 第14中隊宮根」とそれに伴う分隊陣地の1つであることが明らかになった。「宮根」とは「熊之堂」の東南隣の字名である。また、照空隊の運用方法については、旧日本陸軍の『砲兵照空教範』(アジア歴史資料センター C01002297500)や戦後に刊行された『高射戦史』(下志津修親会 1978)が参考になった。また、照空灯や聴音機などの兵器類については、インターネット上で公開されている「日本陸海軍の探照灯と空中聴音機」4)が最も参考になった。照空灯で照らす前に、聴音機で敵機の位置・方向・速度を割り出しており、6ヶ所の情報を中隊本部で精査し命令を与え、分隊陣地では離隔操縦機によって指示された方向へ照空灯を向け、一気に光を照射して敵機を光芒の中に捕捉する、という運用方法だったようだ。これら既存の文献に加え、個人的には当時の士官候補生の手簿(写真5)5)を入手して知識を補完したり、未だ陣地跡に照空灯の残骸が残る小笠原諸島に出かけ、照空灯の実物を見学したりなどした(写真6)6)。なお、地元紙『まいおか』の112号(1996.9.10発行)に、陣地に関する聞き取り調査が掲載されており、これも参考になった。

写真5 士官候補生の術科手簿(筆者個人蔵)

写真6 小笠原父島「長崎の照空灯」(撮影:筆者)

普及活動―横浜市戸塚区での展示・講座

写真7 戸塚区役所における展示会(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

こうした成果をもって、令和4年に遺跡が所在する地元戸塚区で展示会・講演会を開催した。展示会場は戸塚区役所・舞岡地区センターを巡回することとし、会期は、戦争に対する意識が高まる8月を中心に据えた。多くのパネルで遺跡の内容から照空灯の仕組みまで丁寧に解説し、8月20日に戸塚公会堂で行った講演会には100人以上の参加者が、真夏の酷暑をおして参加した(写真7)。

 

展示・講演会に対する反響が非常に大きかったことが、その後のアンケート分析から判明している。この時、ウクライナ戦争が市民の戦争に対する意識を高めていたこともあるが、とにかく地元にこのような戦争遺跡が眠っていたことが、大多数の市民にとっては意外な事であり、同時に興味をかきたてられた、ということもあるだろう。戦後80年を待たずして、陣地の記憶は忘れ去られていたのが実態であった。

より分かりやすく―ブックレットの刊行と3D動画

写真8 ブックレット表紙(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

今回、開発に伴う調査によって、はからずも陣地の記憶が再発掘されたということになる。それでは、発掘をした市外郭団体としては何を為すべきなのかを考えた。一つには、壊される遺跡に対して、発掘調査報告書を刊行して正確な記録を後世に遺すことであるが、もう一つとして、市民に分かりやすくその成果を伝えることだと感じた。発掘調査報告書は、訓練を受けた専門家でないと、その内容を正確に読み解くことは困難である。そこで、市民向けに分かりやすいブックレットを作成して刊行した(写真8)7)。また、戦争遺構は多様であり、その形態を図面や写真だけで市民にも分かりやすく伝えるのは難しいのではないか、と感じていた。発掘を担当した筆者自身も、調査開始当初は慣れない遺構の構造に戸惑ったものである。そこで、いまはだいぶ普及した感のあるフォトグラメトリの技術を利用した3D化を実践した。測量会社に委託して、ドローンで遺構を細かく撮影し、測量データと合成しながら、遺跡全体の3Dモデルを構築した。当初、展示会場にノートPCを置いて、見学者に3Dモデルを直接操作してもらおうと考えたが、おそらく上手く操作できない人もいるのではないかと思いなおし、3Dモデルを基にした遺跡解説動画を編集・作成して、より分かりやすく遺跡の形状と照空隊陣地の解説を伝えようと試みた。この動画作成は幸いにも市当局の理解を得られ、作成費用を整理作業予算に計上し、報告書にDVDを添付することで合意することができた。また、さらに許可を得て、これをYouTube上にアップし、展示会前に誰でも見れるように公開した(写真9)8)。この動画をウェブサイトやSNSで宣伝し、また戦争遺跡研究者のネットワークにおいても拡散してもらった。これが功を奏し、展示が始まる前に話題となり、多くの方々に展示会場に足を運んでいただくことになった。

写真9 舞岡熊之堂遺跡の3D動画(提供:(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター)

事業を終えて

舞岡熊之堂遺跡の戦争遺構は、市当局の理解もあり、調査対象となり、その成果も十二分に公表することができた。開発に伴う調査なので、遺跡自体は失われるが、その記録を3D化し、インターネット上にも公表できたことは、非常に幸いなことと言えるだろう。私にとっても、多様な形状を示す遺構群を最先端の技術で分かりやすく表現し公表する、ということが文化財を活かすことに直結するということに気づかされた貴重な体験だった。すべての関係者に感謝する次第である。なお、遺跡の詳細については発掘調査報告書9)を参照していただきたい。


1)金井安子 「黒川照空隊陣地跡」、『しらべる戦争遺跡の事典』、柏書房 2002年
2)黒川地区遺跡調査団(編)『黒川地区遺跡群報告書』Ⅳ・Ⅶ、1992・1995年。また、調査を担当された大坪宣雄・杉本靖子の両氏から調査中の様々なことについてご教示いただいた。
3)防衛研究所戦史研究センター所蔵 資料番号「本土-東部-12」
4)「日本陸海軍の探照灯と空中聴音機」(https://www17.big.or.jp/~father/aab/kikirui/sl.html)、(最終閲覧日:2023年8月13日)
5)中吉 廣(士官候補生)『術科手簿 第二部』、1941年
6)令和4年3月に、小笠原諸島父島の「長崎の照空灯」を実地見学した。
7)(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター(編)『横浜市戸塚区舞岡熊之堂の戦争遺跡―太平洋戦争末期の照空隊陣地の発掘―』、シリーズ「横浜の遺跡」vol.1、2022年
8)「横浜市戸塚区 舞岡熊之堂の戦争遺跡 3DCG動画」、公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター - YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=m58Fly-uaaM)
9)(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター(編)『横浜市戸塚区舞岡熊之堂遺跡発掘調査報告書』、2023年

公開日:2023年8月28日

古屋 紀之ふるや のりゆき公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長

1974年、東京生まれ。2006年、明治大学大学院博士後期課程修了。博士(史学)。多摩美術大学非常勤講師、東京都北区飛鳥山博物館非常勤職員、大田区教育委員会非常勤職員を経て、2008年より(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターに調査研究員として赴任。主に港北ニュータウン遺跡群の報告書刊行業務に携わる。その後、横浜市三殿台考古館館長を経て、現在、埋蔵文化財センター所長。専門は弥生時代~古墳時代の考古学。主著『古墳の成立と葬送祭祀』雄山閣、2007年。平成30年からの舞岡熊之堂遺跡の発掘で、初めて戦争遺跡に触れる。

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