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動向

近現代考古学をめぐる問題 ―東京の近現代遺跡から―

谷川 章雄 / Akio Tanigawa

早稲田大学人間科学学術院 名誉教授

はじめに

近現代考古学の調査・研究動向については、すでに櫻井準也※1や斉藤進※2によってまとめられている。その歩みを簡単に振り返ると、1970年代に産業考古学、1980年代に戦争遺跡考古学(戦跡考古学)の分野が注目され、1980年代中頃から盛んになってきた近世考古学の延長上に、近現代の遺構・遺物の調査・研究成果が徐々に蓄積されるようになった。その後1990年代中頃になり、近現代考古学の枠組みが提唱されるに至ったのである。

 

近年近現代考古学が多くの関心を集め、その重要性が改めて認識されたのは、2019年に始まった東京都港区高輪築堤跡の発見とその保存問題であったように思われる。高輪築堤跡は、明治5年(1872)に新橋・横浜間に開業したわが国最初の鉄道において、本芝・八ッ山下間の海中に堤を築いて線路を敷設した、世界的にも珍しい海上築堤であり、日本の近代を象徴するような遺跡である。言い換えれば、これを契機に近現代考古学をめぐる状況は新たな段階を迎えることになったのである。ここでは、高輪築堤跡が所在する東京の近現代遺跡の様相をたどりながら、今後の近現代考古学のめざすものを考えてみたい。

東京の近現代遺跡の様相

筆者はかつて東京の近現代遺跡の様相について述べたことがあるが※3、現段階では以下に述べる5つに整理できるのではないかと考えている。

 

①殖産興業から産業革命、資本主義の発展へ

産業考古学の分野が含まれるが、これは日本の資本主義をめぐる問題につながる。東京都墨田区横川一丁目遺跡※4から、明治30年代中頃の三田土護謨製造合名会社の工場の横川につながる用水もしくは排水に使用した溝が検出され、スポイト、パッキング、ワッシャー、エボナイト棒・管、ゴム栓などのゴム製品などが出土した(図1)。

図1 三田土護謨製造合名会社跡出土のゴム製品(出典:墨田区横川一丁目遺跡調査会『横川一丁目遺跡』1999)

三田土護謨製造合名会社の前身は、明治19年(1886)に創業した近代ゴム工業発祥の土屋護謨製造所である。なお、江戸城外堀跡の市谷堀※5の埋め土からは、大正11年(1922)に社名変更した三田土ゴム製造株式会社製のゴム製子供靴が出土している。これは大正12年(1923)の関東大震災後にゴム製靴の需要が増加し、国内外向けの生産が伸びていった頃のものと考えられる。

 

②近代的軍隊の創設から「帝国」の時代へ

図2 陸軍被服廠跡出土の木札(出典:墨田区横網一丁目埋蔵文化財調査会『本所御蔵跡・陸軍被服廠跡』2002)

戦争遺跡考古学の分野が含まれ、軍都東京の様相を示すものである。目黒区大橋遺跡※6では、陸軍騎兵実施学校、近衛輜重兵大隊、陸軍輜重兵学校の煉瓦積みなどの建物跡・防空壕・下水枡・ごみ穴・道路などが検出され、兵営内で使用されていた食器・ガラス製薬瓶、馬具・蹄鉄・弾丸・手榴弾などが出土している。また、墨田区横網一丁目遺跡の陸軍被服廠跡※7からは、日露戦争のときに、横浜市長市原盛宏ら全国の篤志家が寄付した毛布等の荷物に付けられていたと推定される木札が出土した(図2)。これは当時の人々の戦争に対する動向を示す物的資料である。

 

アジア・太平洋戦争戦時下の東京に関するものとしては、春日町(小石川後楽園)遺跡第22地点※8から、昭和19年(1944)11月頃に設置された陸軍高射砲第118連隊の陣地が発掘された。ここには九九式八糎高射砲6門があったが、高射砲砲床、砲側弾薬置場、砲側待機所、蛸壺壕、連絡路もしくは排水溝等が出土している(写真1)。

写真1 陸軍高射砲第118連隊跡の高射砲砲床(出典:武蔵文化財研究所『春日町(小石川後楽園)遺跡第22地点』2023)

また、千代田区文部科学省構内遺跡※9の防空壕からは、鉄帽・小銃・教練用機関銃・演習用擲弾筒・模擬銃部品・模擬手榴弾・銃剣・軍刀が出土している。これらは文部省構内にあった、丸ノ内青年学校(昭和10年・1935開校)の教練に使われた銃器類が敗戦直後に廃棄されたものとされ、戦後社会の出発点の一つの姿を示している。

③文明開化と西洋文化の受容

近現代にもたらされた西洋文化は多岐にわたるが、考古資料から社会史・生活史における西洋文化の受容の様相がうかがえる。中央区明石町遺跡※10では、明治元年(1868)に始まる築地外国人居留地の発掘調査が行われた。フランス人ア・ハーブルの居住地のごみ穴やキリスト教の修道会であるサン・モール会の建物跡・井戸・ごみ穴などが検出され、ア・ハーブルの居住地のごみ穴からは西洋陶磁器やワインボトル・ジンボトル・ソーダ瓶などとともに、食用と推定されるウシの骨が大量に出土した(写真2)。築地外国人居留地は、洋館やキリスト教会、ミッションスクールなどがある西洋文化の窓口であった。

写真2 築地外国人居留地の出土遺物(出典:明石町遺跡調査会『明石町遺跡』2003)

 

新宿区信濃町遺跡※11からは明治11年(1878)創業の四谷軒のガラス製牛乳瓶が出土した(図3)。

この牛乳瓶は和紙かコルク栓で蓋をしたものという。東京の牛乳は、明治2年(1869)明治政府通商司によって畜産技術の伝習、乳製品製造・加工、消費宣伝を目的とした、築地牛馬会社が設立されたことに遡る。これは日本人の健康増進を意図したものであった。東京の搾乳業は明治3年(1870)頃に始まり、ガラス製牛乳瓶は明治19~20年(1886~1887)以降とされる。

図3 四谷軒のガラス製牛乳瓶(出典:新宿区信濃町遺跡調査団『信濃町遺跡』1999)

写真3 百人町三丁目遺跡第3次調査出土の文字徳利(出典:新宿区遺跡調査会『百人町三丁目遺跡Ⅲ』1996)

④前近代の社会・文化の伝統と変容

近代に入っても、前近代すなわち江戸時代の社会・文化の伝統は引き継がれており、一方で変容していくものもあった。新宿区百人町三丁目遺跡第3次調査※12では、関東大震災前後に埋め立てられた池跡から大量の文字徳利が出土し、記された地名、店名・屋号、電話番号などの分析から、約2km圏内の酒屋の徳利であることが判明した(写真3)。

これは大正時代末期まで江戸時代と同様に、通い徳利が用いられていたことを示している。なお、江戸時代の通い徳利である灰釉徳利の容量は1升を基準に分割した1升・5合・2合半であるが※13、近代の文字徳利は1合を基準に加算した3合・5合・1升であり、4合・7合・9合もあった。こうした徳利の容量にみる分割から加算の変化は、近代における変容と考えられる。

 

⑤近代的インフラストラクチャー

近現代に敷設された鉄道・水道・下水をはじめとする産業・生活基盤である。東京の鉄道関係の遺跡は、冒頭で触れた高輪築堤跡とつながる港区汐留遺跡※14の旧新橋停車場跡が知られている。駅舎・プラットホーム、機関車用転車台・機関車庫・石炭庫、器械場・鍛冶場・鋳物場、発電所、上水木樋・鉄管、圧力式水道管、下水などが検出され、煉瓦や常滑産土管、車両のプレート、切符・改札鋏(パンチ)・旅客の手荷物の引換え票(チェッキ)、職工長などのバッチ、郵便袋の錠前、タガネ・ヤスリ・スパナ・ハンマーなどの工具などが出土した(写真4)。

写真4 旧新橋停車場跡の機関車用転車台(出典:東京都埋蔵文化財センター『汐留遺跡―旧汐留貨物駅跡地内遺跡発掘調査概要Ⅰ』1995)

また、文京区大塚遺跡第3次調査※15では、大正時代の市電車庫、昭和3年(1928)以降の市営バス(都営バス)車庫関係の遺構が検出され、東京市電局の「電路」刻印煉瓦、東京市電気局マークの碗、バス停看板・行き先案内表示板などが出土している。

近現代考古学をめぐる問題

上述のような東京の近現代遺跡の様相を見ると、以下のような近現代考古学をめぐる問題を指摘することができる。

 

第一に、「①殖産興業から産業革命、資本主義の発展へ」「②近代的軍隊の創設から『帝国』の時代へ」は、明治政府の富国強兵政策に始まる近代国家日本の様相であり、「③文明開化と西洋文化の受容」「④前近代の社会・文化の伝統と変容」は社会史・生活史に関わるものである。これらは単純に二分されるものではなく、たとえば工場の労働者の生活用具や軍隊の兵営で使われていた食器など、連関しているものとして考える必要がある。また、後者の社会史・生活史に関わる様相は、民俗学とくに「都市民俗学」※16でとり上げられている問題と重なる部分がある。そうして、鉄道・水道・下水などの「⑤近代的インフラストラクチャー」は、国家から社会史・生活史に関わる様相を貫くような存在であった。

 

第二に、近現代遺跡の様相は、近世から近代の連続性と非連続性という問題を内包している。「①殖産興業から産業革命、資本主義の発展へ」に見る近代の資本主義は、近世の産業技術との連続性と非連続性を念頭におく必要がある。また、社会史・生活史に関わる「③文明開化と西洋文化の受容」「④前近代の社会・文化の伝統と変容」は、それ自体が近世から近代の連続性と非連続性の問題である。

 

第三に、近現代遺跡の様相を通して、それぞれの「近代化」の変遷と画期、変化の速度と方向性を追究する必要がある。これは近世から近代の連続性と非連続性とともに、「近世」と「近代」の時代区分をめぐる問題につながるのである。

 

第四に、近現代考古学が歴史考古学であることから、歴史学との関係は重要な問題である。

 

鈴木公雄は近世考古学と歴史学(文献史学)の関係について、「考古学的調査によって得られた成果を、考古学の側から文献史学に対して提出していくこと」であると述べている※17。これは近現代考古学にもあてはまる指摘であり、そうであるならば、今後の近現代考古学がめざすのは、日本の「近代化」の様相を考古学的に明らかにし、歴史学に提出することであろう。それは、無条件に「近代化」を賛美したり、逆に否定するのではなく、具体的な遺跡のあり方に立脚しながら、改めて日本の「近代化」の方向性を明らかにし、問い直すことではないだろうか。


※1 櫻井準也「近・現代」『日本考古学・最前線』雄山閣 2018
※2 斉藤進「近代・現代研究の動向」『日本考古学年報』75(2022年度版)日本考古学協会 2023
※3 谷川章雄「近代都市の考古学」『日本都市史・建築史事典』丸善出版 2018/谷川章雄「総論 近現代考古学の中の高輪築堤跡」『考古学ジャーナル』790 2023
※4 墨田区横川一丁目遺跡調査会『横川一丁目遺跡』1999
※5 新宿区教育委員会『江戸城外堀跡市谷堀』2017
※6 目黒区大橋遺跡調査会『大橋遺跡』1998
※7 墨田区横網一丁目埋蔵文化財調査会『本所御蔵跡・陸軍被服廠跡』2002
※8 武蔵文化財研究所『春日町(小石川後楽園)遺跡第22地点』2023
※9 文部科学省構内遺跡調査会『文部科学省構内遺跡』2006
※10 明石町遺跡調査会『明石町遺跡』2003
※11 新宿区信濃町遺跡調査団『信濃町遺跡』1999
※12 新宿区遺跡調査会『百人町三丁目遺跡Ⅲ』1996
※13 長佐古真也「近世『徳利』の諸様相」『江戸の食文化』江戸遺跡研究会 1992
※14 汐留地区遺跡調査会『汐留遺跡』1996/東京都埋蔵文化財センター『汐留遺跡Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ』1997・2000・2003・2006
※15 東京都埋蔵文化財センター『大塚遺跡』2019
※16 宮田登『都市民俗論の課題』未来社 1982
※17 鈴木公雄「総括」『麻布台一丁目郵政省飯倉分館構内遺跡』1986

谷川 章雄たにがわ あきお早稲田大学人間科学学術院 名誉教授

1953年東京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。早稲田大学教育学部助手、人間科学部専任講師、助教授を経て、人間科学学術院教授。博士(人間科学)。専門は近世考古学。1980年代から近世都市江戸の遺跡の調査にかかわる。高輪築堤調査・保存等検討委員会 委員長。主な論文は、「江戸の墓地の発掘」『甦る江戸』新人物往来社1991 「考古学からみた近世都市江戸」『史潮』新32 歴史学会1993 「総城下町・江戸の成立」『史跡日本史』9吉川弘文館2010など。

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