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動向

戦争遺跡の保存・活用における市民団体の役割 ―「平和資料館・草の家」の活動を中心として―

出原 恵三 / Keizo Dehara

「平和資料館・草の家」副館長

写真1 整備された高知県南国市の5号掩体(撮影:筆者)

はじめに

戦争遺跡を歴史資料として保存・活用の重要性を最初に訴えたのは本土復帰まもない沖縄においてであった。そして1980年代以降、戦争の記憶の風化が危惧されるなか、全国的に戦争の実相・悲惨さを伝える手段として戦争遺跡保存の重要性が認識されるようになり市民運動として広がっていった。今日では「近代史研究の資料」、「平和学習・生涯学習の教材」などとして市民社会に定着してきていると言えよう。

 

戦争の記憶は「ヒトからモノへ」、これは1998年の第2回戦争遺跡保存全国シンポジウム沖縄大会で掲げられたスローガンであるが、それから四半世紀を経て「モノ」(戦争遺跡)自体も限界に来ており積極的に保存策を講じなければ消滅の危険に晒されているものが少なくない。1995年文化財保護法の指定基準の改訂以降、行政による調査・保存も行われるようになってきたし、戦争遺跡の悉皆調査も取り組みも行われはじめるなど積極的な側面も見られるが、前近代の遺跡に比べるとその対応はまだまだ脆弱であると言わざるを得ない。2022年10月現在で文化財指定・登録されている戦争遺跡は342件である1)

 

そしてその脆弱さは活用の側面にも端的に表れている。戦争遺跡を活用するためには、戦争遺跡の位置付けが重要となるが、特に行政においては戦争遺跡を東アジア近代史の脈絡にどのように位置付けるのか歴史認識とも直結する問題であり、ダークツーリズムを生んだヨーロッパとは異なり日本の場合、戦争遺跡という言わば「負の遺産」との向き合い方が定まっていないところにも大きな要因があろう。

 

ここでは、筆者が所属する平和資料館・草の家(以下「草の家」)における戦争遺跡の保存や活用の実践を通して得た成果や課題について紹介し、戦争遺跡保存の意義や「草の家」が今後果たしていくべき役割などについて述べたい。「草の家」は1989年に開設した高知市に所在する民立民営の小さな資料館である。戦争の加害、被害、抵抗についての調査や戦時中の資料(遺物)の収集・保管・展示、戦争遺跡ガイド、平和学習講座などを行うとともに平和や人権、環境問題などに取組む民主団体のセンター的な役割も担っている。

戦争遺跡の保存

「草の家」では、南国市前浜の旧高知海軍航空隊掩体群(掩体)、高知市朝倉の旧陸軍歩兵第44連隊弾薬庫・講堂(弾薬庫・講堂等)、旧高知海軍航空隊耐式通信所などの保存運動に主体的に取組み保存を実現してきた。ここでは前二者についてその概要に触れたい。

 

⑴掩体の保存

高知海軍航空隊は1944年3月に練習航空隊として開庁するが翌年2月には特攻基地となる。掩体は空襲から飛行機を守るために作られた施設で土製、木製など41基が作られたが、現在はコンクリート製の7基が水田の中にまるで古墳のように点在している。高知を代表する戦争遺跡である。これを文化財指定し保存しようという運動が始まったのは1997年夏のことである。元高校教師らが呼びかけ人となって「掩体を文化財に推進する会」が発足し、署名活動や学習会、見学会などに取組み、98年3月には保存署名7159筆を南国市長に提出、2004年夏には戦争遺跡保存全国ネットワーク(以下、全国ネット)の第4回大会を南国市で開催し全国からの支援も受けた。その結果同年、南国市は「えん体整備検討委員会」を設け、2006年2月念願かなって7基全てが南国市史跡となった。市は当初から掩体の歴史的重要性は認識していたが、掩体を抱える地元からは「掩体を見るたびに当時のことを思い出すのでなくしてほしい」「掩体は農作業の邪魔、撤去してほしい」などの声が少なからず聞こえていた。地元住民の合意を得るためには10年の歳月を要した。

写真2 生活の匂いのする3号掩体(撮影:筆者)

またコンクリート掩体はマニュアルに沿って作られた規格品であり7基全てを指定することへの抵抗もあった。しかし同一規格のものでも一つひとつが固有の歴史情報を発信しているのである。例えば1号掩体は機銃掃射の弾痕が無数に残っている。これは沖縄上陸を目前にした1945年3月19日、米軍が西日本の航空基地を攻撃した際に被ったものである。高知と沖縄戦が繋がる。3号掩体は「生活の匂いのする掩体」と呼んでいる(写真2)。柿の木が植えられ蕗が繁茂し、天井は煤けている。飛行場作りには多くの朝鮮人労働者が使われていた。戦争が終わっても帰国できずに数年にわたって掩体を住居として暮らしていた。掩体が戦後どのように使われたのかということを通して戦争が何をもたらしたかその一端を知ることができよう。7号掩体は農道と用水路を跨いで構築されている。有無を言わさぬ軍隊の理不尽さが伝わってこよう。遺跡からしかすくい取ることができない貴重な情報が多くあることを示している。コンクリート製の飛行機掩体は全国で48カ所、122基が確認されているが、残存掩体の全てを文化財指定しているのは南国市のみである。全てを残すことに意義があった2)

⑵弾薬庫・講堂等の保存

旧歩兵44連隊は1897年に開庁した「郷土部隊」として県民の記憶に深く刻まれている。44連隊兵営の多くは戦後高知大学へと変貌を遂げたが、弾薬庫・講堂(写真3・4)は戦後長きにわたって大蔵省、財務省の管理下にあり偶然に残されてきた。2011年閉鎖に伴い売却処分が危惧されたことから「草の家」では同年5月に「保存会」を立ち上げ見学会、高知市市長への学術調査と保存要請を行った。その後市議会でも何度か取り上げられたが保存への方向性は全く見られず、2015年に高知市は学術調査を実施しすることを発表し調査終了後は解体やむなしとの方針を示した。調査の結果、建物が兵営創立期に遡るものであり建築史的にも和洋折衷の貴重な建物であることが判明し、2016年春に行われた調査報告会では地域住民を中心に80余名が参加し保存を望む声が挙げられた。しかしながら財務省では売却の手続きが着々と進められ、2017年2月6日から一般競争入札の準備に入ることが伝わってきた。「保存会」では署名活動を強化し、県議会や国会議員への働きかけも行なった。当初財務局は敷地への立ち入りも許さなかったが、借地契約を結ぶという条件付きで立ち入り許可が出て、見学会を実施することができた(写真5)。4回目の見学会には当兵営への最後の入営者も参加されマイクを握って保存を訴えられた。17年8月には全国ネットの第21回全国シンポを高知市で行い「保存決議」が採択され、マスコミにも大きく取り上げられたが、財務局の基本姿勢は全く変わらなかった。しかし同年9月の県議会では大きな手応えがあった。知事が「(取得の)ハードルは高いが慎重に検討したい」との答弁をしたのである。これを受けて高知県が財務局に入札延期を申し入れることによりギリギリのところで一般入札は回避された。その後、高知県文化財保護審では弾薬庫・講堂が文化財指定に値するとの答申をした。「保存会」ではその後も見学会やシンポジウムを開催、リーフレットの発行などを継続した(写真6)。高知県の取得をめぐってはそれ以後も紆余曲折があったが2021年高知県が敷地を買収、22年11月に国有形登録文化財となったのである3)

写真3 旧歩兵第44連隊弾薬庫(撮影:筆者)

写真4 旧歩兵第44連隊講堂(撮影:筆者)

一連の取組は、まず市民が声を上げて行政を動かし保存が実現したのである。戦争遺跡の保存運動は市民と研究者による粘り強い行政への働きかけと地域の人々の理解が不可欠である。どちらが欠けても上手くいかない。見学会やシンポなど通して遺跡の歴史的価値や保存の意義がより深く掘り下げられ地域の共有財産として人々に浸透していく。同時に行政との交渉や市民への働きかけマスコミ対応など保存運動の核となる市民団体の存在が成否を左右するほどに大きい。逆の言い方をすれば、運動団体が戦争遺跡保存の意義を訴え、市民に依拠して粘り強く行政に働き掛ければ保存は可能であることを示していると言えよう。

写真5 2017年に実施した弾薬庫保存の見学会(撮影:筆者)

写真6 2018年に開催された弾薬庫保存のシンポジウム(撮影:浦準一)

全国ネットは各地で展開されている保存運動を繋ぎ成果や課題を共有し運動を発展させるための連絡組織として1997年に設立されたが、情報交換や連絡だけでなく地域の保存運動を全国的に広げる上で欠かせない存在である。「掩体」、「弾薬庫・講堂等」の保存も全国ネットによって広がり行政への影響力も大きかった。近年では旧陸軍広島被服支廠の保存、旧第32軍司令部跡の学術調査の実施要請、大社基地跡の保存問題などに関わっている。被服支廠のように保存に繋げることができた事例もあるが、保存できなかった事例もある。しかし要望書や決議を挙げていくことは、運動を次に繋げるためにも重要である。いずれにしても地域の動向を早く把握し機敏に対応することが肝要であり、そのためには地域との連携が何よりも重要である。

戦争遺跡の活用-戦争遺跡に何を語らせるのか-

戦争遺跡の保存は戦争の記憶を次世代に継承し共有する条件であるが、それで終わるものでは決してない。保存はスタートである。保存された戦争遺跡がどのように位置付けられ活用されているのか見守っていく役割も保存運動は担っている。

 

戦争遺跡は明治以降、戦争を繰り返すたびに数を増やし規模を拡大してきた。約5万件と言われている国内の戦争遺跡の大半はアジア太平洋戦争期に属し、しかも最後の1年に集中分布している。この遺跡分布の時間的な偏在は何を意味しているのか。日清戦争以降、半世紀にわたって繰り返した戦争で日本が戦場となったのは最後の一年足らずであり、それ以前の戦争は朝鮮半島や中国など東アジア各地で戦われ外国に戦争遺跡を残してきた侵略戦争であったことを示している。

 

しかしながら現状では、この遺跡分布にあらわれた客観的事実は、公の歴史には全く反映されていないと言っても過言ではなかろう。公立の歴史系博物館で語られる戦争は最後の一年に被った原爆、空襲、空腹など被害の側面が多く、日本が東アジアの人々に何をしたのか、加害について触れることは殆どない。戦争についての日本人の記憶が、戦争の最後の一年に被った被害の側面が強調されることによって侵略戦争という戦争の本質が忘却・消去された記憶、被害者としての記憶だけが蓄積され、加害の歴史に無自覚な日本人をつくっているように思えてならない。

 

戦争遺跡の解説文においても朝鮮人労働者の「強制的」の文言が消されたり、朝鮮人労働者の存在そのものを消去した例も見られる。また特攻基地跡などでは軍事博物館的な傾向の強い展示がなされ戦争の実相や悲惨さが伝わってこない。特攻隊が出現した歴史的経過を全く捨象して戦争末期に「国難」に立ち向かった特攻隊員を美化することで戦争に対する抗議の声や戦争指導部の責任はかき消され、戦争遺跡が21世紀版「戦争神話」の舞台とされるのではないかと危惧する。

まとめ

平和学習で子どもたちに「日本はどこの国と戦争をしたか」と尋ねるとアメリカと答える子どもは多いが中国、韓国と答えられる子どもはほとんどいない。戦後日本は歴史に恐るべき空白を作ってきたと言わざるを得ない。戦争遺跡は置き去りにしてきた歴史を呼び戻し、空白を埋めるピース(piece)の一片の役割を担っていよう。

 

戦争遺跡は私たちにとって最も身近にある遺跡である、と同時に戦争遺跡はどんな小さなものでも国内で完結できるものは一つもない。東アジア近代史の脈絡の中に位置付けて初めてその歴史的意味を明らかにすることができる。地域と戦争との関わりを文字通り足元から繰り返し検証し、東アジアの人々と共有できる歴史像の構築、「和解の場」としての役割をも果たせる戦争遺跡の活用を目指したい。


1)菊池実「戦争遺跡保存の現状と課題2022」『第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会 開催要項』戦争遺跡保存全国ネットワーク 2022年
2)出原恵三「高知海軍航空隊後の保存活用」『明日への文化財』74号(2016年)、文化財保存全国協議会
3)橋田早苗「戦争遺跡の保存」『平和資料館・草の家30周年記念誌』平和資料館・草の家 2019年

公開日:2023年8月18日

出原 恵三ではら けいぞう「平和資料館・草の家」副館長

1956年生、奈良大学卒業、1981〜2015年高知県埋蔵文化財センターにおいて遺跡の調査に従事、退職後「平和資料館・草の家」副館長、2016年から戦争遺跡保存全国ネットワーク共同代表

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