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歴史・民俗学

民具の文化財としての意義(その2)

広実 敏彦 / Toshihiko HIROZANE

地方文化研究所 顧問

民具とは

民具とは、普通の人々(柳田國男は常民と言っている)が生活にあたり、使ってきた道具のことである。各地方で歴史に名を残さない人々が、必死に生きている日々の暮らしに使っている道具から、文章に残っていない人々の暮らしや考え方・風習が見えてくる。その意味で民具は歴史の証人と言えるであろう。

民具の変換期

民具は、弥生時代のクワなどから始まり、大きく変化しないまま、昭和まで来ている。しかし、昭和30年前後から大きな画期が訪れた。その理由の一つとして、トラクターの普及があったことまでは、前回のコラムで述べた。

トラクターの普及は、農業技術に大きな変化を与え、農地改革の影響もあり、専業農家から兼業農家に変わっていった。そのため高度成長期の工業生産の人員の確保ができ、大きく日本全体の工業化が進んだ。戦中戦後の政策「産めよ、増やせよ」の方針のため、長男以外の子どもたちの集団就職も後押しして、一気に核家族化か進んでしまった。

そういう時代背景の中、新たな商品の普及により生活が大きく変わり、千数百年変わらず使っている道具も劇的な変化が始まって来るのである。

日本家屋の特徴

日本家屋(筆者撮影)

従来の日本家屋は、外壁が土壁で、建具が木製品で、屋根は茅葺である。換気性に優れているので、息をする家と言われている。家とともに生活することで、数百年住み続けることが可能になっている非常に優れた家であったのだが、反面、隙間風が多い家でもあった。また、長く持つ家であるが、非常に高価な家でもある。

文化住宅

核家族化が進む中、集団就職した人々の住宅として、完全木造の玄関と台所と2畳と4.5畳の部屋、押入れが1間の焼杉若しくはモルタルの外壁と瓦葺の仮設住宅のような家が『文化住宅』(主に近畿地方での呼び方)と称して、一般の人向けの賃貸住宅や大手企業の大量の工場勤務の社員のための社宅として、全国に普及し始めた。

この家は、安価で借りることができた家であるが、日本家屋のような土壁ではなく、木材のみの薄い壁と瓦葺の屋根であった。もちろん、囲炉裏などは作ることができない。夏は暑くて、冬は寒い非常に過酷な条件での生活をすることになった。

もっとも、その時代は、戦後の混乱から、文化住宅に住めること自体が、ありがたいことで、自慢することはあっても、つらいなどとは思わなかったはずである。

日本人の暖房手段

元来、日本人の暖房設備は、『囲炉裏(いろり)』・『火鉢(ひばち)』・『炭火炬燵(すみびこたつ)』である。どれも、近くに寄って温まるものであり、少し離れてしまうと少しも暖かくない。隙間風が多い日本家屋では、部屋全体を温めることはできなかったのであろう。半面、換気は良いので、部屋の中で、火を焚いても、炭火で温まっても、一酸化中毒になることはなかった。また、その煙により、茅葺屋根や木材の虫を殺し、家全体をコーティングすることができるので、虫に食われたり腐ったりすることなく長く使用することができるのである。

ストーブなどの暖房器具は、対流式の暖房機であり、部屋全体を温める仕組みなので、換気が良すぎる日本家屋には、非常に不向きであった。また、石炭ストーブは、明治・大正からあったが、北海道などの極寒地域か、学校や病院などの天井の付いている広い部屋の密封性が優れている建物か、一般家庭では、かなりの裕福な家庭でないと使用はできなかったようである。

囲炉裏(筆者撮影)

火鉢(筆者撮影)

炭火炬燵(筆者撮影)

アルミサッシの普及

従来の日本家屋から現在の建物に変わるためには、アルミサッシの普及が重要なポイントとなる。アルミサッシは、昭和27年に東京呉服橋の日本相合銀行に取り付けられたのをきっかけに、昭和33年に現在の不二サッシの前身の会社により日本中に普及し始めた。従来までの家屋は、建具の枠が、柱や壁と一体になっていたので、枠に合わせた建具を取り付けていたが、アルミサッシは、枠を取り付けることで、どこにでもサッシと変えることができた。そのため、驚異的な速度で普及して、昭和40年ごろには、日本中のほとんどの一般家庭は、アルミサッシに変わってしまったのではないだろうか。

蚊帳(筆者撮影)

実感できるわかりやすい例として、50才以上の方なら、だれもが入ったことのある『蚊帳』(かや)がなくなった理由が、アルミサッシである。隙間がないから、家の中で蚊取り線香を炊いて、蚊を退治すれば、もう外から蚊は入ってこられないのである。すでにアルミサッシには、網戸と言うものも付いているので、家全体を蚊帳にする発想である。

アルミサッシの最も優れている点は、その密封性である。密封性の高い家は、暖房設備に対しても大きな変革をもたらした。『囲炉裏(いろり)』・『火鉢(ひばち)』・『炭火炬燵(すみびこたつ)』は、すべて一酸化炭素を出してしまう。つまり、密封性の高い家では、大変危険で、使うことができなくなってしまったのである。

ストーブも石炭ストーブから、安価な石油ストーブに変わり、近くで温まる直接暖房から、対流式の暖房を採用することで、部屋全体を温めることができるようになったのである。部屋全体を温めることで、一か所に集まる必要もなくなり、床に座るより、イスに座る方が暖かくなってきた。だんだん、西洋風の生活スタイルに変わってきたのである。このような変化により、数百年使われてきた、『囲炉裏(いろり)』・『火鉢(ひばち)』・『炭火炬燵(すみびこたつ)』そして、『ちゃぶ台』までも姿を消してしまったのである。

石油製品

また、昭和30年前後に画期的に変わったものとして、石油製品がある。プラスチックと呼ばれるものである。今まで、日本人の生活で使われてきた容器として、土器→土製品・桶→木製品・笊→竹製品・鍋→金属製品・コップ→ガラス製品などがある。いずれも高価で長く使うことのできるものである。日本の工業化が進み、原油の大量輸入から大量の液体燃料とともに、開発されていったのが、プラスチックである。

ひとつの例として、『湯桶(ゆおけ)』がある。元来、銭湯に置いてある湯桶は、檜を使い桶職人が伝統的な技術により制作していた典型的な桶であった。少し、重たくて、子どもが使うのには苦労したものである。

昭和38年に、『内外薬品株式会社』の広告媒体として、黄色いプラスチックに「ケロリン」と書かれた湯桶が販売された。現在のように、広告媒体として、無料で配ったわけではなく、しっかり販売していたにもかかわらず、画期的なスピードで全国に普及したのは、かなりの安価で軽くて使い勝手が良かったのだろう。筆者は洗面器と言っていたが、日本全国の銭湯には必ずあったのではなかろうか。これは、珍しい例ではなく、桶と呼ばれるものは、ことごとくプラッスチックに変わってしまい、桶と桶職人は、この時点で消えて行ってしまうのである。

湯桶(筆者撮影)

プラスチックの湯桶(筆者撮影)

まとめ

このような事例から、前回のコラムで述べたように「昭和30年より前の道具を調べると、江戸時代・平安時代、さらに弥生時代の生活まで見えてくる」のであるが、昭和30年以降は、画期的な変化の時代が訪れてくるのである。「ジェネレーションギャップ」と言う言葉が出てきたように生まれた年が10年違えば、文化が違うのである。

現在は、いろいろな映像媒体や企業の記録の強化などで、様々な道具の変化を記録保存ができている。しかし、昭和30年より前の時代は、細かい記録に残っていないのが現状である。知識として知っている昭和30年に10歳以上だった方々は、現在70歳以上である。数千年続いている道具の使い方や生活を知っている最後の世代である。残り少ない時間を認識して、本気で民具の調査及び保存を早急に進める必要がある。

日本人の千数百年続いている生活の大きな変化点に生きている私たちが、後世にこの記憶を残すことはがやらなければならない義務ではなかろうか。

公開日:2017年2月10日

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