歴史・民俗学
二百年間のこる郷士の館 安岡家住宅 見学レポート
安岡家住宅(国重要文化財)外観遠景:以下撮影は全て筆者
2020年の秋、国の重要文化財に指定されている安岡家住宅の見学会に参加してきました。安岡家住宅は高知県香南市山北に所在する、近世の文化年間から現在まで残る郷士(注1)の住宅です。7年半の修復工事を終えて、2020年9月より一般公開が始まりました。高知の近世の歴史に興味がある私は公開を待ち望んでおり、参加募集が始まるとすぐに申し込みました。
郷士・安岡家
安岡家は、約400年前は現在の香南市夜須町付近に居た一領具足(注2)であり、近世からは豪農として山北の地を開拓し、18世紀中頃には郷士となり、山北周辺に広く領知を所持した一族です。本家、そして分家はお上(うえ)、お下(した)、お西(にし)の三家に分かれており、今回見学した住宅はお下家のものです。
幕末頃の安岡家間取り図(明治二十年頃作成)/『安岡の家の歴史を解体・復原する』より転載
お下家は1809(文化6)年に郷士職を譲り受けて(注3)おり、今回見学した住宅はその前年から建てられ始めました。幕末まで増改築が行われ、この度の修復では家に残された記録と解体と共に行われた発掘調査の成果をあわせて、文化的価値の高い文政~天保年間の姿が復原されたそうです。郷士の数は近世後期には約八百騎(家)と言われていますが、その屋敷が当時のままで残ることはとても少なく、この安岡家住宅は貴重な例と言えます。なお、当初は柱を残して半解体の予定でしたが、建物の傷み具合から全解体の復原となったそうです。同時に試掘坑を設置し建物下の整地面などの調査も行われています。
外部施設から見学
当日は香南市文化財センター前で集合し、ここから皆で現地へ向かいます。見学はボランティアガイドの解説に沿って行われました(本稿では安岡正俊氏の『安岡の家の歴史を解体・復原する』から学んだ内容とあわせてレポート致します)。
初めて目にする安岡家住宅は、石垣を伴う漆喰塀に囲まれ、正面には本門のほかに立派な御成門が備わっていました。想像していたよりもはるかに立派で堅固な姿に圧倒されました。最初はこうした外部施設、塀、御成門、本門、本門に隣接し建てられた番屋の外観について説明がありました。
まず塀ですが、当時は郷士には漆喰塀が許可されなかったため板塀であり、明治に入ってから漆喰を使用した今のような姿となったそうです。
御成門
本門と番屋
次に門について。御成門は元々門があったと推測される場所に、1847(弘化4)年頃に建設されました。本門は1816(文政13)年に現在の位置に建てられました。本門と同時に建てられた番屋の内部は、屋敷地外から向かって右手には門番の居住スペース、左手には二頭分の馬屋が設けられていました。郷士は公的の場で馬に乗る機会は少なかったそうですが、武芸の稽古は奨励されていて、馬を所持し馬術も嗜んだようです。屋敷の入り口にわざわざ番屋を設けていることには驚きました。また、この番屋の建物は昭和に入り他家へ譲られ移築されていたものを、今回の復原工事とは別に、平成20年に譲渡され戻したものだそうです。後述する主屋の居室部分も他家から譲渡されて移築したものです。このような建物まるごとの移築が行われていたことにも驚きました。
番屋の外観
番屋の瓦(右から2枚目の瓦を境に葺く向きを変えている)
他には番屋の瓦の葺き方の特徴、屋根の中央を境に左右で葺く向きを変え、強い風雨に堪える設計であったかもしれないとの説明を受けました。これは移築先の瓦葺きに従い復原されており、昭和30年代の流行だそうです。
格式高い造りの主屋座敷部
本門から座敷部玄関(中央の小さな階段状のもの)をのぞむ
本門をくぐって敷地内へ入りますと、まず右手には敷地内をさらに区画する塀重門と塀が、そして正面には主屋玄関の式台が目に入ります。主屋は家族が住む居室部と、客人などを迎える座敷部とに大きく分かれています。この玄関は座敷部に備わるものです。建物の規模に比べ、玄関の幅が1.2m程度と狭いのですが、これも塀と同様、郷士には家を建てる際の制約があったためだそうです。この玄関を上がると主屋の座敷部に入ります。次の間、そして客人を迎える坐間が設けられています。今回、見学者は坐間の縁台から慎重に屋内へ上がり、建物内部の見学にうつりました。
坐間全景 襖の左側は次の間
主屋の変遷としては、まず1771(明和8)年に、現在の座敷部の位置に古い居室部が建てられました。その後1808(文化5)年には今回復原の位置に新たに居室部が設けられ、古い居室部のあった位置には後年座敷部が設けられました。居室部は先述の通り他家から移築されたものです。この移築のさいに、すでに翌年の1809(文化6)年に郷士となることを見据え、役人などの武士階級が訪れたさいの表座敷建設を計画していたのではないかと、居室部・座敷部の礎石配置から想定されています。郷士となる少し前より、土佐を治める山内家一門や士格(注4)の元へ臨時雇いとして出仕していますが、豪農から郷士への転換期にはその格式に見合うよう、このような準備をするのだと知り更に驚きました。
座敷部の二間は欄間と襖で仕切られていますが、欄間上部が広く空いています。また壁の長押の上には蟻壁を15㎝ほど設け、天井を一段高く見せる効果を持たせていることや、庭を眺める際の妨げとならないよう濡縁側の柱を細くすること、当時は畳の向きを揃えて敷いていたことなど、部屋を広く見せるために様々な工夫が施されているとのことでした。
その他に部屋の特徴としては、床の間の材に黒漆を塗っていること、欄間は寺院や客殿などでよく見られ、高知城の本丸御殿でも採用されている竹節欄間であることが説明されました。
このお下家には、山内家一門の人間が滞在した記録も残り、その際にはこの坐間を提供したとのこと。郷士ともなると、役人の巡回の対応だけでなくこのような機会を持つことになり、格式高い建物が必要となるそうです。
主屋奥の居室部へ
座敷部次の間から居室部との境をのぞむ
居室部の部屋
釜屋(右側入口)と味噌蔵
主屋の裏手側には釜屋と味噌納屋が建てられていました。釜屋は台所として機能しており、このたびの復原でも大きなカマドが備えられていました。
土蔵横から主屋をのぞむ
主屋の東側には、1814(文化11)年頃に、これまた他家より移築された道具蔵が建てられています。現在は見学用に主屋居室部と廊下で繋がっています。道具蔵は武具、大きめの家具、寝具などの物置きだったそうです。残念なことに今回内部は見学できませんでした。
なお座敷部、居室部にはそれぞれに湯殿が設けられていました。その他にも見学対象となっていない様々な建物が存在していたことが、1887(明治20)年頃に書かれた屋敷の絵図を見るとわかります。
最後は再び外に出て弓術の鍛錬場跡を見学しました。当時は射場が建てられていたそうですが詳細が不明で、現在はあえて生えている樹木などをそのままにしているそうです。本門横の番屋について触れたおりに、郷士は武芸を奨励されていたと書きました。個人宅へのこうした弓術場の設置もこれを裏付けるものと考えられます。
興味つきない住宅の魅力
若干駆け足気味で初めての安岡家住宅見学を終えました。限られた時間や条件下で熱心に説明してくださったガイドのかたに感謝しつつも、早くも次の機会に申し込みたい!もっと見学したい!と思ってしまった私。また公開日に合わせて高知を訪れる計画をたてることとします。
安岡家住宅は、7月を除く奇数月の最終土日が公開日です。当該月の月初めに、香南市市報などでお知らせが出まして、予約申し込みの上での見学となります。私が見学した際は、世情を鑑み1回の見学人数は10名、日に3回の開催でした。どのような条件での見学となるかは、その都度、香南市文化財センターへご確認いただくのが良いかと思います。
なお、芥川賞作家の安岡章太郎氏は、お下家の子孫です。『流離譚』は氏が祖先について書いた歴史小説です。安岡家に興味を持ったかたは、ぜひ読んでみてください。
最後に、記事執筆について多大なご協力、ご教示を賜りました安岡正俊さまと、香南市文化財センターのみなさまに、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
注1:17世紀中頃、山内家家老であった野中兼山により制定・募集された在郷武士。領知の開拓および経営を行い、有事の際は国許の守備軍として組織されたほか、役人として山内家へ出仕する場合もある。 |
注2:長宗我部家が組織した兵農未分離の地侍等で約九千人居たと伝わる。有事の際は馬に乗り郎党を供とした者もいた。 |
注3:病気や貧困を理由に郷士株を譲渡する事が18世紀中頃には認められていた。但し由緒が辿れる農家や既に郷士となっている家の者が対象で、町人が利殖目的で取得する事は18世紀後半頃から解禁となった。 |
注4:山内家に仕える家の家格で、留守居組以上を指す言葉。奉行などの要職についた。なお郷士はこの下の軽格に所属する。 |
参考文献
安岡正俊『安岡の家の歴史を解体・復原する』2020年 私家版 |
平尾道雄『土佐藩郷士記録』1964年 高知市民図書館 |
香南市教育委員会『国指定重要文化財安岡家住宅』人物編・建造物編パンフレット |
安岡の家住宅〈国指定重要文化財〉 http://yasuoka-ke.sakura.ne.jp/ |