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歴史・民俗学

千年続くお祭り「相模国府祭」観覧レポート

辻本 彩 / Aya TSUJIMOTO

国際文化財株式会社 埋蔵文化財調査士

五社と総社が集うお祭り

神奈川県で、毎年5月5日に千年続くお祭りが行われる事をご存じでしょうか。

 

「相模国府祭(さがみこうのまち)」と呼ばれる、神奈川西部の有力神社が一堂に会するお祭りです。

 

神奈川県は古くは相模国と呼ばれ、式内社1)という、平安時代にランク分け・登録された神社が多数存在します。このうち上位の四社、寒川町の一ノ宮寒川神社、二宮町の二ノ宮川匂(かわわ)神社、伊勢原市の三ノ宮比々多(ひびた)神社、平塚市の四ノ宮前鳥(さきとり)神社、これに加えて五ノ宮格として平塚市の平塚八幡宮2)のお神輿が、大磯町にある相模国総社、六所神社のお神輿と共に、この近隣の神揃山(かみそりやま)と大矢場(おおやば)に集います。

どうして集まるの?

このお祭りの起源は、平安時代の国司3)が任地で執り行った参詣です。国司の重要な仕事の1つに、五穀豊穣・天下泰平を祈るための、国内神社への参詣がありました。

 

しかし国内とはいえ遠方へ何度も詣でるのは骨が折れる。ならば国府の近くに社を造り、ここに各社の御霊を分祀4)すれば、おつとめが1ヶ所で済むじゃない…?と造られたのが、総社と呼ばれる神社です5)。相模国は大磯に国府があった6)ので、ここに総社が造られました。

 

平安時代までは相模国に限らず、各国でこうした形がとられていましたが、鎌倉時代に入り朝廷と国司の権限が弱まると、この参詣は次第に廃れていきます。

なぜ千年も続いたの?

東京都、旧武蔵国の大国魂神社で同時期に行われる「くらやみ祭」も国府祭祀が起源と考えられていますが、この二ヶ国で残った理由として、一説には鎌倉幕府の有力御家人である北条氏の任国のため庇護されたから、とあります。特に相模国は鎌倉幕府の庇護も受けており、後世の小田原北条氏、徳川幕府がこれに倣いました。

 

このような背景があり、平安時代の面影を色濃く残したお祭りが現代に伝わったと考えられています。

 

実際に見学してみた

筆者は当時、相模国の住人となり早3年。このような他所では聞かないお祭りを是非見学したい…と機会を窺っておりました。運よく関係者さんと知り合う機会を得まして、有難くも当日の詳細スケジュールを教えて頂き、2014年に相模国府祭を比々多神社から追いかけました。

まずは比々多神社の神事から

写真1 比々多神社(著者撮影)

朝の7時。厳かな比々多神社の境内には、既に大勢の氏子さんが集まっています(写真1)。社殿で発御祭が行われたあと、宮司さんと氏子総代さん達を先頭に、揃いの法被を着たお神輿隊や、お囃子隊を載せた山車が行列を作り出発します。

 

昔は何と神揃山まで、田畑の中も構わず歩いて一直線に進んだとか。お神輿に田畑を荒らされた人々は「ご利益だ」と有難がったそうです。

 

しかし現代では無理なお話で、テンテンカラカラと特徴的な鼓の音と共に道路をしばらく行列すると、バスとトラックに乗って会場のある大磯町へ向かいます。六所神社以外の四社でも車を使って移動しています。

 

 

金目川での迫力ある禊

写真2 金目川での禊(著者撮影)

大磯町へ着く前に、金目観音(平塚市)に立ち寄ります。金目観音は金目川という、丹沢山系を源流とし相模湾に注ぐ河川に面しています。ここでお神輿とその担ぎ手達は、川に入って禊を行います。

 

禊の話は事前に聞いていましたので、河原でお神輿や担ぎ手に水をかける儀式…というものを想像していました。

 

ところがどっこい、皆さんお神輿を担いだまま、川の中にザブザブと入っていくではないですか(写真2)。担ぎ手の皆さん、深いところだと腰まで濡れています。そのうえ、お神輿をわざと水面へ浸けるように傾けます。

こうした威勢の良い動きは、かつて田畑を踏み荒らした「あばれ神輿」の名残りなのだとか。ちなみにこのあばれ神輿、大磯町の会場でも披露されます。

 

20分ほど川の中を練り歩き、上がってきたら再度車に乗って移動です。初夏の陽気とはいえ川の水はまだ冷たく、担ぎ手さんには中々過酷な道中です…。

神揃山に大集合

写真3 神揃山(著者撮影)

五社が目指す斎場(いつきば)「神揃山」は、大磯町国府本郷にある、木々に覆われた低い丘です(写真3)。JR大磯駅からは少々離れており、周辺は畑も広がる住宅地で、初めて訪れる人は迷うかもしれません。普段の神揃山は、頂上の広場の周囲をソメイヨシノが囲む、地元住民ののどかな憩いの場です。

 

しかしこの広場は、通年「相模国府祭」仕様になっています。各社が集まる石柱が常設されており、祭りの時期でなくとも少々特別な雰囲気が漂う場所です。

 

筆者が到着した時は、神揃山近辺には各社の関係者200名ほど、そして見学者はそれ以上集まっていました。当然の如く周辺道路は車両通行止めとなります。路線バスも通しません。見学者は少し離れた大磯町の資料館など、関係者はそれより近い学校などで車を降ります。そして再び行列を組み神揃山へ向かいます。

写真4 徐々に賑わいを増す神揃山(著者撮影)

神揃山の広場には、一ノ宮である寒川神社から順に入ります。最後の平塚八幡のお神輿が入る頃には、広場内は人でいっぱいです(写真4)。加えてお神輿入場前後には、各社が縁起物のちまきを撒きますので、これを受け取ろうとする人々で賑やかになります。

 

順に到着したお神輿は仮宮を設けて、それぞれの宮前で神事を行います。このとき、お囃子の山車は次の会場で待機しています(写真5)。見物客は正午から始まる「座問答」まで、各お神輿の前でのお参り、お守りの拝受、国府祭り限定品の「守公神」という御幣をいただく、座問答を良い位置で見るための場所取りと、思い思いに過ごしていました。

写真5 待機するお囃子の山車(著者撮影)

いちばんの見どころ「座問答」

ここ神揃山での神事「座問答」、実はまだ国司7)が登場しておりませんが、相模国府祭でいちばんの見どころです。

 

注連縄に囲まれた祭壇前へ五社の宮司さん達が集まり、祭壇内には頭付きの虎の毛皮が2枚置かれます。寒川神社と川匂神社の神職さんが、この毛皮を交互に少しずつ祭壇に近づけていきます。3度ほど繰り返したのち、仲裁役の比々多神社宮司さんが「いずれ明年まで」と述べて、神事終了です。(すみません、ここは動画を撮る事に熱中していて、写真がありません…いちばんご紹介したい場面なのに)

 

こう書くと「一体何の神事なの?」と思ってしまいますよね。

 

実は相模国は、西側の磯長(しなが)と東側の相武(さかむ)が併合してできた国なのです。併合前には、それぞれの国に一ノ宮がありました。寒川神社と川匂神社です。じゃあどちらが上位になるの…?という席次争いを、国司の参詣を受ける前に行っているのです。虎の皮で神社が席次争いする様子を表現しています。

 

この場では決着がつかないので、仲裁役が「まあ来年に持ち越しましょう」と言って争いを止めます。はい、千年も決着持ち越しをしています。何というか、日本人の国民性をよく表した神事だなあと思いました。

 

実際には、寒川が一ノ宮、川匂が二ノ宮という事で落ち着いているそうです。

次の斎場への移動は大賑わい

写真6 大矢場(著者撮影)

この座問答が行われているあいだ、肝心の国司一行は少し離れた六所神社で神事を行い、待機しています。座問答終了の知らせ「七度半の使い」を受けると、六所神社のお神輿と直衣姿の乗馬の国司は約1kmの距離を行列し、途中「宮合の儀」を行い、次なる斎場の大矢場へ向かいます(写真6)。大矢場は住宅地のど真ん中にあり、普段は「馬場公園」という児童公園です。一部に遊具の無い広場があって、ここが次の舞台となります。

 

国司の移動中には、今度は五社のお神輿部隊が神揃山から大矢場へ向かいます。山から下りる階段は狭いうえ、周辺には関係者と見物客、道路に下りれば屋台が並び…このごった返した中を威勢よく練り歩き、待機していたお囃子山車や見物客で満杯の大矢場へ入って行きます。大矢場内ではお囃子に合わせて練り歩いたあと、こちらにも設けられた仮宮へお神輿を安置し、国司の到着を待ちます。

国司を迎える奉納舞

このような雰囲気の会場でも入場の順番が決まっていて、まずは六所神社のお神輿が入ります。続いて寒川神社から順に続き、最後は平塚八幡神社です。

 

六所神社が大矢場に入ると、国司を迎えるために、用意されていた船形山車の上で「鷺の舞」「龍の舞」「獅子の舞」が舞われます(写真7)。楽の音も舞の動きもとても厳か、緩やかな様子で、元々は都から来た貴族をもてなす舞であったと伝わっています。船形屋台なのは、池に船を浮かべた様子を再現しているそうです。

写真7 鷺舞の舞台(著者撮影)

平安時代から続く鷺の舞は、国内でほとんど残っていない貴重な伝統芸能です。相模国府祭では保存会の方々の努力により続けられています。

 

この舞を鑑賞しつつも、背後では賑やかなお囃子に威勢の良いお神輿の掛け声。がんばって舞に集中します。

国司入場、やっと落ち着く大矢場

写真8 国司の前での巫女舞(著者撮影)

国司が大矢場へ入場し、各仮宮の準備が整う(ここでもお参りタイムがあります)と、お囃子は雅楽の音色に変わり次の神事が始まります。

 

まずは華やかな巫女舞が行われ、各仮宮へお供えをしたのち、今度は各社から分霊の「守公神」を六所神社の仮宮へ納めます(写真8、9)。これらが総社への分霊として1年間お祀りされるのです。

 

 

この後国司が各仮宮へ参詣すると、相模国府祭の神事は終了です。

写真9 大矢場での仮宮(六所神社)(著者撮影)

帰りも賑やか

写真10 帰還の賑わい(著者撮影)

お祭りが終わると、今度は平塚八幡から順に帰途につきます。大矢場すぐの交差点では各社のお神輿が練り歩きます(写真10)。荒っぽく担いだり、甚句を披露したりの大賑わいで、お神輿隊の見せ場です。

 

30分ほどこうした賑わいが続いたあと、各社はそれぞれ集合場所に向かい、またバスとトラックに乗って帰途につきます。
最後まで見届けようと、筆者は比々多神社まで引き返しました。神社の一行は途中、直会(なおらい)8)を行い、日が暮れたのちに、朝と同じように手前から行列して神社へ戻ります。本殿に着いたのち還御祭を行い、今度こそ本当にお祭りは終了です。
直会をしていないためか、私たち一行はその後もまだお祭り気分。まだ醒めたくないような後ろ髪を引かれる思いで神社を後にし、独自に「直会」して帰りました。

おわりに

朝から夜まで、非常に濃密な時間を過ごしました。現代のお祭りでは見かけない動きや問答、そうかと思えば賑やかなお囃子とお神輿行列。厳かな儀式と祭りの賑わいの反復は、一種のトランス状態を生み出すのかしらと、非日常を味わえて大満足でした。
ものすごい見せ場があるとか、華やかだとか、そういうお祭りではありませんが、千年前に思いを馳せると共に、お神輿ってこういう役目なのだなあと改めて実感できます。
今年(2017年)も5月5日に開催されます。見物すれば少々変わった、忘れられない思い出になること間違いなし。貴重なお祭り「相模国府祭」へ、是非訪れてみてください。


(1)    『延喜式』という、10世紀前半に編集・改訂・施行された、律令(当時の法律)の詳細規定で定められたため、「式内」社と呼びます。神社は当時の社会と密接に関係していました。
(2)    「一国一社の八幡宮」として、国の守護のため造られた八幡宮です。由緒では、5~6世紀に起きた大地震を鎮めるために造られたと伝わります。ちなみに有名な鎌倉の鶴岡八幡宮は、元々は武家源氏・武士・鎌倉幕府のための八幡宮なので、性格が少し異なります。
(3)    当時の日本では六十六ヶ国が制定されており、朝廷から国のトップ「国司」が派遣されました。大抵は中堅貴族が任命されましたが、実際に赴任しない国司も多く、この場合は部下や現地の官僚が代理を務めました。
(4)    お神輿は神様の魂がここにあるよ、という目印です。各社からお連れして、そのまま総社六所神社に安置しました。しかし毎年取り換え…いやいや、お連れする必要があったそうです。
(5)    中には「一ノ宮を総社にしちゃえばもっと楽じゃない?」と、新たに総社を設けず一ノ宮がこれを兼ねる国があります。
(6)    相模国府所在地には諸説あり、平塚市四之宮、伊勢原市笠窪などが候補地に挙がっています。時代により移転したのではとも考えられています。
(7)    国司役は大磯町長がつとめています。
(8)    神事など特別な行事を行ったのち、参加者が平常・日常に戻るために「しきり直し」の意味で飲食することです。

参考文献
相模国府祭 各社のパンフレット(2014年度版)
國學院大學日本文化研究所編『神道事典』 弘文堂 1994年

協力者
小泉佐吉様

公開日:2017年4月28日