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歴史・民俗学

もつ焼き屋さんの考古学

谷口 榮 / Sakae Taniguchi

葛飾区産業観光部観光課 兼 葛飾区郷土と天文の博物館 学芸員

もつ焼き屋さん「宇ち多゛」で開店待ちをするお客 提供:著者(以下同)

もつ料理とハイボールが織りなす地域的な飲食文化

【飲食文化としてのもつ焼き屋さん】

東京下町の東部、隅田川以東の地域を代表する飲食は何かと問われれば、私は迷わずもつ焼きやもつ煮込みなどの「もつ料理」と「ハイボール」を挙げる。

 

もつ焼きやもつ煮込みなどの「もつ料理」となくてはならない相方が「焼酎ハイボール」(略して「ハイボール」もしくは「ボール」)であり、この食と飲の組み合わせを成立させたニーズがあったとうことに注目したい。つまり、「もつ料理」と「ハイボール」という食と飲のセット関係を「飲食文化」という括りで捉えることが、地域との関係性においてその発生や展開を説明することができ、従って地域ならではの飲食文化と捉えることができるのではないだろうか。

 

もつ焼きを意識しだしたのは、大学生になりお酒を飲むようになってからである。大学時代、友人と私の地元の葛飾区立石界隈で飲むと、決まってもつ焼き屋さんに入った。まだ今みたいな居酒屋のチェーン店もあまりなく(養老乃瀧ぐらいだろうか)、もつ焼き屋さんは大学生の財布具合にぴったりのリーズナブルな存在だった。

 

確か昭和56年、大学2年生の頃だったと思うが、葛飾区青戸に戦国時代の葛西城という城跡があり、その発掘調査が行われることになった。発掘が終わると同僚や先輩に誘われて、青戸駅近くのもつ焼き屋さんに立ち寄った。体力勝負の発掘調査も、このもつ焼き屋さんがあったから、酔うほどに仲間と語り合い、疲れを忘れ、明日への活力をみなぎらせることができたのだ。滋養食としてのもつ料理で体力を養い、ハイボールの酔い心地で疲れを癒す。これが葛西城を掘り、後に学芸員として郷土の歴史を探求し、東京下町の歴史に挑む原動力となった。

 

もつ焼き屋さんのもつ料理

もつ焼き屋さんのもつ料理は、基本的に「焼き」「煮込み」「刺し」の3つの方法で料理され客に提供される。この「焼き」「煮込み」「刺し」の3つを基本に、「焼き」だったら塩・タレなどの味の付け方や焼き加減、「煮込み」だったら味ベースや具材など、「刺し」だったら種類やゴマ油の有無という具合に、バリエーションがあり、その組み合わせが店によって異なっている。その店の「焼き」「煮込み」「刺し」それぞれの特色と組み合わせを押さえることによって、その店ならではのもつ料理の特徴を見出すことができる。

 

あの店はカシラが旨い、もしくはカシラのタレ焼きが旨いと捉えるのも良いが、あの店の煮込みは他のお店とさほど差異はないが、カシラのタレ焼きが何といってもお薦めだとか、他のお店にはないテッポウの刺しがあるというふうに捉えて伝えた方が、相手に伝わるのではないだろうか。一押しだけを挙げるのではなく、3つのもつ料理のあり方に注目することで、他の店と共通する点、異なる点が容易に理解でき、その店ならではの工夫や伝統的な取り組みなどが見えてくる。そして、第3者にも明確に店の特徴を伝えることができる。

 

この3種類が揃っていて、もつ焼き屋としての看板を掲げられるのであって、どれか1つ欠けても、もつ焼きファンを納得させることはできない。仕入れの段階からの手間ひまを掛けた丁寧な仕事が、その店の善し悪しになる。下ごしらえに手抜きをして、どれか1つを手掛けないとなると、大衆酒場で諸々のメニューの中にもつ焼きがある、もつ煮込みがあるというようになってしまう。3つのもつ料理が揃っていなければ、もつ焼き屋さんの条件を満たしていないのではないだろうか。

 

そんなところに力を込めなくとも良いのではないかと思う御仁もいるかとは思うが、仮に人生80年の折り返し点を過ぎ、日一日と終焉に向かう中で、ただルーチンワーク的にもつ焼き屋さんで時間を過ごすのではなく、少し「知的」な遊び心を持つことで、もつ焼き屋さんで過ごす時間を楽しく有意義にしてくれるのではないだろうか。

 

なぜならば居酒屋は、戦後日本文化史を研究するマイク・モラスキー氏が指摘しているように、「第1の場」の家庭と、「第2の場」の職場とは異なる、職場からも家庭からも開放された時間を満喫できる「第3の場」として捉えられる社会的な場であるという。私は、もつ焼き屋さんを日本の居酒屋文化における東京の下町を代表する存在だと思っているからである。

 

【もつ焼き屋さんのハイボール】

次に、もつ焼き屋さんで提供されるアルコール飲料であるが、一般的に「ハイボール」と呼ばれるロングカクテルは、本来、ウイスキーをソーダ(炭酸水)で割ったものをいう。しかし、隅田川以東では戦後から焼酎ベースのハイボールが隆盛し、労働者の疲れを癒していた。

 

焼酎といっても芋や麦ではない。甲類を使う。味の決め手となるのはハイボールに注がれるエキスで、主にレモンとウメが用いられ、専用の業務用エキスもある。但し、各々の店で提供されるエキスの調合は、その店ならではの企業秘密となっている。この隅田川以東で飲まれるウイスキーではない、焼酎ベースのハイボールを、昨今再び人気を博している「ホッピー」や「サワー」と区別するためにも、「下町ハイボール」と総称しておく。

 

隅田川以西の東京下町でも「酎ハイ」「焼酎ハイボール」といった焼酎ベースの炭酸割りはあるが、それは亜流と捉えるべきであろう。なぜならば、焼酎の炭酸割りの形成過程や誕生後の分布の濃度からして、いわゆる工場労働者の多い隅田川以東に色濃く分布しており、極めて地域的な背景を持ったアルコール飲料である。

 

隅田川以東をマザーランドとして形成・発展した「焼酎ハイボール」を「下町ハイボール」として位置付けたので、隅田以西で提供される「焼酎ハイボール」は地域的な括りからしても「下町ハイボール」とは捉えられないことになる。隅田川以東の地域からすれば、隅田川以西の「焼酎ハイボール」は後から根付いたアルコール飲料である。同じ労働者のまちである蒲田や大井などで飲まれていたかもしれないが、それは局地的であり、面的な広がりや連続性を有しない、いわゆる「点」の存在である。

 

隅田川以東、それも京成沿線にかつては「焼酎ハイボール」を提供する店が集中していた。集中していたというより、葛飾界隈の京成沿線のもつ焼き屋さんには、「ホッピー」を置いている店が極めて少ないのに対して、JR総武線や常磐線の駅周辺のもつ焼き屋さんは「ホッピー」の幟を立てている店が多かった。今ではその差異は顕著ではなくなったが、30年程前は明確に別れていた。だから葛飾、それも京成沿線のもつ焼き屋さんを見知っている私は、JR沿線のもつ焼き屋さんに入ると雰囲気の違いを敏感に感じ取っていた。そして、京成沿線の「焼酎ハイボール」の濃い分布傾向をとらえて、「ハイボール文化圏」と呼称を提案したことがある。当時は、「焼酎ハイボール」や「下町ハイボール」を分類・整理していなかったので、「ハイボール文化圏」と命名したが、この枠組みの捉え方は今も基本的に変わらない。

もつ焼き屋さんが遺跡になったら

【もつ焼き屋さんを記録する】

ある日、もつ焼き屋さんで「ボール」効果により覚醒した私の脳は、「もしこのもつ焼き屋さんが遺跡として姿を現したらどのようなになるだろうか」という問い掛けを自分にしたのである。遺跡となってこれらの「モノ」資料が出土すると、かつてのもつ焼き屋さんの姿を彷彿とさせてくれることだろう。遺跡となった場合、焼き鳥屋さんともつ焼き屋さんの違いはどこに見出せるのかなど、一人でブツブツと自問自答となった。そのような悠長な問答ではグラスを重ねるだけで、仕舞いには酔いつぶれてしまうという危機感から、ここでは柱跡や水道・ガスなどのインフラの跡などの遺構のことは考えない。そして、店を構成する建築資材や家具なども対象としない。唯一、この店が発掘されて、年代・場所を参考にしながら「もつ焼き屋跡」とわかる資料となり得るのは何かという絞り込みの結果、店で出される飲み物のグラスと料理を提供する器に注目することにした。それと店の図面を記録化しておこうと思ったのである。

 

以下、その取り組みについて、千ベロの聖地「立石」の代表格と称されている「宇ち多゛(うちだ)」さんを例に紹介したい(写真1)。

写真1:もつ焼き屋さん「宇ち多゛」店内の様子 

【場所】
東京都葛飾区立石1丁目18番
【施設】
店床面積:33.24㎡(10.06坪)
間口:西側4間 東側3間半
店出入り口:西側1間+半間弱 東側半間弱
天井高:2.4m
客数:31人程度
焼台:長さ90㎝ 20本 燃料は炭

「宇ち多゛」さんは、戦後間もない昭和21年に屋台から始まった。普段は午後2時頃からお客が列を作るが、土曜日にはお昼前から開店待ちをするお客が並ぶ。立石の仲見世には今では飲み屋が軒を連ねているが、平成になった頃は、夕餉の買い物をする女性が多く行き交い、並んで順番を待つ男の労働者の姿があった。この動と静、男と女という相反する妙なコントラストが立石仲見世ならではの雰囲気を醸し出していた。

 

【もつ焼き屋さん「宇ち多゛」の空間を記録する】

店の雰囲気を構成するのは、店の規模が主要な要素といえる。店の規模は、平面的な床面積だけではなく、天井高も含めた空間の大きさという3次元的な差異も見逃せない。これには、床面積(x × y)×高さ(z)から導き出される空間という単純なものではなく、ある2つの条件によって微妙に変化する。

 

条件の1つは、椅子に由来する。椅子に腰掛けた客の頭から天井までの高さが重要なのである。これは混み方によっても影響が出る。客が少なければ、縦方向だけでなく横方向も空間に余裕が出るので、ここでは客席が全て埋まっている状況を想定して話を進めたい。そして、店の天井と客の頭の間の空間を仮に「頭上空間」と呼んでおこう。

 

「宇ち多゛」さんは、床面積も約10坪で天井高も低いので、頭上空間も狭い。この頭上空間を演出するのが照明である。照明が加わることによって、その店ならではの雰囲気が醸し出される。「宇ち多゛」さんは、裸電球(今は同じ色調のLED)が放つ柔らかい光が独特の雰囲気を醸し出しており、まるで洞窟の中のような気密さを漂わせている。例えば、それが蛍光灯のような白い光で明るく照らされると、頭上空間と照明との関係で、店内の色調が異なり、違った雰囲気を作り出す。

 

もう1つの条件は、大きくは調理場と客スペースの割合と接客にある。調理場と客スペースの割合とは、店内の空間利用のことで、店の床面積に対して客のスペースが占める割合のことである。「宇ち多゛」さんは、床面積33.24㎡のうち約23.2㎡(約70%)となっている。

「宇ち多゛」さんは、床面積が狭く、客のスペースに入って食べ物や飲み物を提供する機能的なレイアウトになっている。例えば、カウンターで調理場と客スペースが仕切られていれば、店の人はカウンターの中を行き来し、客スペースに入り込んで接客することはない。この接客の動きも、その店ならではの雰囲気を醸し出す要素となっている(図1)。

図1:「宇ち多゛」さんの間取り図 

図2:「宇ち多゛」さんで使われている食器類の実測図

【もつ焼き屋さん「宇ち多゛」の食器類を記録する】

次に、店で使われている食器類を紹介したい(図2)。1は、12面にカッティングされた焼酎のグラス。梅エキスの淡い褐色と先に注がれる焼酎が交じり合い、面取りされたガラスを通して裸電球の柔らかい光が差し込み、郷愁を誘う彩りを放つ。高さ10.1㎝、底径4.4㎝、口径5.8㎝を測る。

 

2は、1のグラスの受け皿。ガラス製で、明瞭な高台は作り出されていないが、少し上げ底気味になっている。底部から口縁部へは外反気味に立ち上がり、口縁端部は内側に玉縁状に折り返されている。高さ2.5㎝、底径5㎝、口径9㎝を測る。普段は1と2を組み合わせた形で使われており、組み合わせた高さは10.7㎝となる。このグラスになみなみと焼酎がつがれ、受け皿まで潤す様は至福の極みである。

 

3・4は、焼き物と刺しなどが盛られる磁器製の皿。いずれも白地であるが、3の内面には型作りによる浮文が配されている。口縁付近には帯状に6分割した草花を基調とした紋様を施し、青色を付している。中心にも青色に丸く色付けされたところがあり、帯状の弧線をめぐらせ、その中央に花をあしらっている。青色に配色された内面中央と口縁の帯状の間にある白地には網目の紋様が施されている。高台をもち、高台内には青色で「有田 萬家」と書かれている。底部から口縁部にかけて内湾気味に立ち上がる。高さ2.7㎝、底径8㎝、口径16㎝を測る。現在、本皿を含め4種類の皿が使われている。4は、内面の体部に青色で5単位の区画を配し、イチゴ、ブドウ、リンゴ、メロン、ミカンと思われる果物をあしらっている。内面の底部にも青色でブドウを描いている。高台をもち、高台内には青色で「高峰」と書かれている。底部から口縁部にかけて内湾気味に立ち上がり、口縁端部は外側に釉溜りができて玉縁状になっている。高さ2.8㎝、底径7.4㎝、口径13.6㎝を測る。3は1人前用、4は2人前用として使っている。

もつ焼き屋さんを後世に伝えるために

昭和が遠くなってしまった令和の時代、どのようにしたら懐かしい盛り場のことを後世に伝えていけるのか。それも葛飾の夜の名物としてもつ焼き屋さんを記録できるのか。それを考えた時に、記録の手法として図化することによって、研究の素材となり様々な分析も可能となるだけでなく、後世へ継承する資料となるのではないかと思った。

 

そのような発想の源泉は、私の専攻する考古学にある。考古学と聞くと貝塚や古墳など古い時代の遺跡を発掘する学問とイメージされている。しかし、日本における考古学方法論の基礎を築いた故濱田耕作氏の名著『通論考古学』に、「考古学は過去の人類の物質的遺物(に拠り人類の過去)を研究する学なり」と考古学の定義がなされている。これによっても考古学が扱う時代が原始・古代に限られたものではなく、現代までも対象とすることが理解できよう。

 

近・現代を対象とした考古学は、それよりも前の時代を扱った考古学的手法と基本的に何等変わるものではない。しかし、明らかに異なる点もある。それは2点に集約できると思う。1つは、一般的な遺跡のように地中や水中に遺存せず、可視できる状態で保たれているものも多いという、資料の遺存状況である。さらに稼働遺産なども含まれるという点である。そのため広義の文化財とみなすこともできるが、文化財保護法の登録や指定を受けていないものも多く存在する。

 

もう1つは、対象とする資料のことを知る人々に聞き取り調査ができるという点である。それ以前の時代の考古学が扱う資料は「沈黙の資料」ともいわれているが、近・現代の考古学の場合、調査研究対象とする資料を使用したり、見聞きしたり人の話を聞くことが可能である。それ以前の考古学との明確な違いはこの点にある。

 

近・現代を対象とした考古学は、基本に考古学的な手法を用いながら、文献や絵画資料を検討し、さらに聞き取り調査を行う。場合によっては同時代の映像なども存在する、考古学研究の新領域として注目される。近代以降、首都東京の一角を占める東京下町は近・現代を対象とした考古学の恰好のフィールドともいえるのである 。

 

新型コロナウィルス感染症の拡大により、もつ焼き屋さん詣でができない昨今、記録化した資料を机上で広げ、缶酎ハイを飲みながら次の調査の仕方を思案し、一日も早く調査の日が訪れるのを待っている今日この頃である。

 

 

もし、もう少しもつ焼きとハイボールを深掘りしたいと思われる方がおられたら拙本『千ベロの聖地「立石」物語 もつ焼きと下町ハイボール』(新泉社2,200円+税)をご参照いただければ望外の喜びである。

 

■新泉社ホームページ 『千ベロの聖地「立石」物語 もつ焼きと下町ハイボール』

谷口 榮たにぐち さかえ葛飾区産業観光部観光課 兼 葛飾区郷土と天文の博物館 学芸員

1961年葛飾区立石生まれ。国士舘大学文学部卒業、博士(駒澤大学 歴史学)。日本考古学協会・観光考古学会理事。主に東京低地や旧葛飾郡地域をフィールドとして通史的に人々の暮らしや文化、環境の変遷、文化遺産の保護と活用について調査研究。1988年葛飾区役所入庁、1991年開館の「葛飾区郷土と天文の博物館」学芸員として勤務、2011年から文化庁の補助事業として「柴又地域文化的景観」の調査に従事、2021年から現職。