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動向

エジプト文化遺産の現在(いま)ー「アラブの春」から生じた混乱ー(1)

⻑谷川 奏 / So HASEGAWA

早稲田大学総合研究機構客員教授

エジプトにおける文化遺産の保存問題とその背景

中東における文化遺産をめぐる問題というと、皆さんは何を思い浮かべられるだろうか。歴史的には、中東はなんといっても古代文明で知られる地である一方、現代社会の中では、産油国としての羽振りの良さやドバイなどのハブ空港としての便利さや華やかなショッピングが脳裏に浮かぶ。さらに何やら政治的に独裁的傾向の強い中東の国々にも、「アラブの春」によって民主化の風が吹き始めたのかと思えば、混乱するシリア情勢や先鋭的なイスラーム集団による遺跡破壊のニュースを聞き、中東とはなんとも、欧米の価値観でははかれないやっかいな地と思われる方もいるだろう。このシリーズでは、中東の文化遺産をめぐる問題を、中東の中ではアジアとアフリカ、地中海とインド洋の間の架け橋的な位置にあるエジプトの事例を中心にして紐解いていきたい。

図1:中東地図

よく知られているように、エジプト学とかアッシリア学という古代学は現地の中東で作り上げられた学問ではなく、欧米で開花したものである。欧米とイスラームの力関係が逆転してしまった中で、多くの文化遺産が欧米に簒奪されたが、学問としての<古代>は失われた文字を解読していった人たちによって築かれていったという事情がある。19世紀の後半からは、無秩序な略奪に歯止めをかけるべく、自国の文化遺産を護る考古局という政府機関や在地の博物館ができていったものの、それらの運営は20世紀の半ば近くまで欧米に牛耳られていたため、辛口の歴史家は、それこそ文化行政の植民地化を象徴する、とさえ批評する。そうした中で、欧米の研究者に肩を並べようとする在地の考古学者も出始めていったが、考古学史に名を刻んでいくのは、やはり20世紀半ばまで待たなければならない。

エジプトでは、1953年に王制を打倒して国づくりが始まったものの、以後ナーセル大統領によるアラブ社会主義体制の時代から、サダト大統領による門戸開放体制へと、大きく国作りの指針が転換する中で、経済体制の構築はいばらの道であった。文化遺産の保存の点からみれば、大戦中の混乱が少しずつおさまり、経済開発や観光の再構築が始まる中で、文化遺産の保存問題が生じるのは、他のアジアやアフリカの地と同様であった。1960年代から本格的に始動するアスワン・ハイダム建設とこれに伴う水没遺跡救済のための国際キャンペーンは、ユネスコの行事を代表するものとして紹介されるが、開発の波は、既にダム建設による水没の問題に限らず、都市の急激な拡大が文化遺産にもたらすさまざまな弊害として忍び寄っており、1970年代に顕著になっていく。

1980年代の前半は、ハイダム建設による塩害の進行に代表される環境劣化と都市インフラの遺跡近接という問題が、エジプトを代表する文化遺産であるスフィンクスに顕在化したことで、遺跡環境の問題が大きく人々に意識されることとなった。1983年には、それまでの文化財保護法が大きく改正され、遺跡環境の保存理念が強く謳われ、その後の考古行政の大きな指針となった。この法改正に次ぐ約5年間は、開発の波に対応してファラオの時代からイスラームの時代にわたるさまざまな遺跡保存が進められ、エジプト各地に地方博物館が建設されていった輝かしい時代でもあったのであるが、リーダーシップをとった考古長官がカイロ大学を中心とするアカデミズムに根をはっていなかったためか、改革はとん挫し、現在では往時の保存技術の欠如ばかりが取りざたされるのは残念なことである。

サダト大統領が暗殺されて後の舵取りを行ったムバーラク政権に移行した1980年代初めから90年代の初めに至る時期には、まだ同政権の運営は軌道にのっていなかったとされる。同政権が公共企業の民営化法など本格的な経済改革にやっと腰を上げたのは、経済開放政策に転換してから15年以上も経た1990年代の初めからと言われる。この時期から、エジプトは欧米の援助国による公的債務削減とIMFと世界銀行からの資金援助などで救済されることになり、市場メカニズムに依存した経済改革・構造調整プログラムによる政策も功を奏したことにより、経済は大きく回復していった。観光業では、1996年にはそれまでの史上最高400万人の観光客と37億ドルの観光収入を記録したものの、1997年にルクソール市のテロ事件が起こったために、観光収入は大きく落ち込んだが、この事件を最後に、反体制武闘派の活動は大きく沈静化していったのである。

そこで政府は1997年に2017年までの20年を目標とする開発計画を発表し、その中では、エジプト南部と西部砂漠地帯での農業および工業開発や、道路網、空港ならびに港湾整備に対しても民間による投資を呼び込むことが謳われた。さらに1990年代半ば以降、エジプト実業家協会など実業家層の一部は、議会への進出に成功し、その、主要な委員会で経済関係の法案の作成に影響力を行使する政治的な利益集団となっていった。加えて、1990年代後半からの市民生活でもうひとつの大きな革新は、情報技術の進展である。この時期に、人々はパソコンを使い、インターネットで自由に情報を得ることができるようになった。また衛星放送を通じ、映画・演劇・音楽・スポーツに至るまで、新しいエジプトの生活スタイルが追求されていった。従って、文化行政と深い関わりをもつ文化遺産の保存問題も、1990年代の後半以降を特徴づける開発の促進と情報通信の発展という社会情勢と深く連動していくことになる。

たとえば大カイロ圏で言えば、環状道路の建設に伴い、カイロ空港からギザ台地を結びつけ、その途上に、シタデル地区やオールドカイロという観光拠点を結びつけていく開発政策や、ギザ地区に手狭になったタハリール広場のカイロ博物館機能を移していく大博物館(Grand Egyptian Museum)は、こうした新たな潮流を象徴している。ファラオの文化遺産(写真1)に限らず、キリスト教やイスラームの文化遺産(写真2)に手厚い保存政策がとられ、大規模な保存事業が実施されていった時代の始まりである。ギザ台地の一角には、情報通信省が運営する工業団地(Smart village)が建設され、ここはまた経済ハブの中心を担う役割も期待された。文化遺産分野では、この墓地が中心となって、文化遺産のデジタル化や高精度の遺跡マッピング・プロジェクトが進行した。

新たな文化遺産の保存の潮流は、エジプト全土を貫く高速道路整備や住宅建設の流れとあいまって、首都圏ばかりでなく、地方都市にも浸透した。その中でも、エジプトを代表する歴史遺産のまちであるルクソール市で展開した都市改造は、文化遺産の保存問題で深刻な議論を呼び起こした。こうしたムバーラク政権の後半に起こった文化潮流が重要であるのは、それが長期政権の崩壊(写真3)で崩れ去った過去の問題であるからではなく、いつまた復帰するかもしれない息吹として現在も根をはっているからに他ならない。そこで本稿ではまず、2011年の「アラブの春」と呼ばれた政治運動の後に生じて、2017年の現在にまで繋がる問題を概観していきたい。

写真1:古代神殿の史跡整備(コーム・オンボー遺跡)撮影:⻑谷川奏

写真2:イスラーム地区の史跡整備(アズハル公園から)撮影:⻑谷川奏

写真3:史跡整備記念碑に記された⻑期政権への怒りの落書(ラシード遺跡)撮影:⻑谷川奏

公開日:2017年8月1日最終更新日:2017年8月1日

⻑谷川 奏早稲田大学総合研究機構客員教授

考古学者(文学博士)。早稲田大学エジプト学研究所准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター長を経て現職。専門は古代末期の物質文化研究と中東の文化財保存史。著書に『図説・地中海文明史の考古学』(彩流社 2014年)、「遺跡の破壊と保存活動」鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』(明石書店 2012年)等がある。