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動向

エジプト文化遺産の現在(いま)-「アラブの春」から生じた混乱ー(4)

長谷川 奏 / So HASEGAWA

早稲田大学総合研究機構客員教授

美術品の海外流出と開発政策からの保護

写真1:露天に晒されたレリーフ(ビフベイト・アル=ヒガーラ遺跡) 撮影:⻑⾕川奏

これまで、2011年の「アラブの春」以後から現在に至るまでの社会不安の中での潮流を報じてきたが、ここでは過去から変わらず続く問題を扱おう。恒常的な問題の第1は、遺物の海外流出である。中央デルタのビフベイト・アル=ヒガーラ遺跡にはプトレマイオス王朝時代のイシス神殿がある。ここは神殿が大きな地震で崩壊したのであろうか、莫大な量の美しいレリーフが野晒しで集積する特殊な環境にある(写真1)。この遺跡から、精巧なレリーフが盗難され、それがニューヨークのクリスティ・オークションに売りに出された。たまたまこれを目撃したフランスの考古学者が盗難品であることを指摘したことから摘発された。多くの観光客が訪れるカイロ市やルクソール市の遺跡とは異なり、セキュリティが手薄にならざるを得ない地方都市においては、遺跡は恒常的な危機に晒されており、2011年の政変以後、2600万ドルに上る美術品がアメリカの市場に流されたともいわれる。ニューヨークの古美術商フレデリック・シュルツが、サッカラ等の遺跡で盗難された遺物を、美術品市場で売却を図ったことに対し、ニューヨーク連邦裁判所が有罪判決を下した事件も世間には衝撃であった(2002年)。美術品市場に流れてしまった遺物は、基本的にもう取り返しがつかなくなると考える人も多いからである。この判決を聞いたエジプトの考古長官は、本判決が、エジプトの文化財は海外に流出してもなおエジプトに所属することを外国の法廷が認めた画期的な判決と大きく評価しており、こうした国際的な判決を根拠としながら、今後もエジプト考古局は美術品の海外流出を防止していくであろう。

1983年に改正された文化財保護法はまた、不法に流出された美術品を取り戻すことを正当化する根拠にもなっている。現代の時代に不法に持ち出されたものならともかく、エジプト考古局は100年以上も前に遡る文化財の持ち出しを返還の対象としてきたことも大きな衝撃を呼んでいる。こうした呼びかけが功を奏した事例もある。19世紀の後半にルクソールから無許可で持ち出された新王国時代の美術品は、その後市場を転々としたが、最終的な所有者となったカナダのアトランタ・ミハエル・カルロス博物館が、エジプト政府に自発的に遺物を返却した判断が大きな話題となった(2003年)。エジプト考古局は、同博物館の決定を大きく評価し、この遺物の中に含まれていたラメセス1世とみられるミイラを、当時計画中であったルクソール市博物館の特別展示室に陳列して、海外流出文化財の返却意義を大きくアピールした。近年では2011年8月には、メトロポリタン博物館が、ツタンカーメン王墓からの小品19点ブロンズ小像、装飾品等を返還している。これらは、発掘後に調査隊宿舎であったカーターハウスに所蔵されていたもので、カーター死後に同博物館に寄贈されたものであった。このように、ときには19世紀の初めに遡って、欧米によって簒奪され、世界的な博物館のコレクションを形成する遺物の返却をも迫る強気の姿勢もみられている。

写真2:地下水上昇による崩壊が深刻な聖メナス修道院 撮影:⻑⾕川奏

いつになっても変わらない問題に、開発との戦いがある。西方デルタにある聖メナス修道院は、1979年に世界遺産登録された重要な遺跡である。メナスとは3世紀後半もしくは4世紀初頭にキリスト教を信奉して殉教した兵士であった。メナスの亡骸はアレクサンドリアを経由してラクダに乗せて運ばれ、マリユート湖を越えて砂漠に入ったときにラクダが足を止めたため、神の意志として遺体はその場に葬られた。やがてこの地は病気治癒をはじめとする奇跡を求めるキリスト教徒たちにとって、重要な巡礼地となった。イスラーム支配が進行する中で、この遺跡は人々の記憶から忘れ去られたが、1905年から1907年に遺跡の場所が同定されて最初の発掘が行われた。1950年代から何十年もかけてドイツ調査隊が行った長期の発掘作業の結果、バシリカ構造の教会や人々が集った広場、巡礼者を収容した宿泊施設や公衆浴場などからなる大規模な複合遺跡が姿を現した。世界遺産登録時はまだこの地区はベドウィンが家畜を放牧する場面がみられる長閑な砂漠縁辺であったが、隣接する都市ボルグ・アル=アラブのまちが、1990年代からムバーラク大統領が率先する開発地域となり、大工場が林立することとなった。そうした環境変化の影響であろうか、地下水位の上昇が顕著となって、遺跡の大半が崩落などの危機に直面し、2001年にはユネスコはここを「危機遺産リスト」に登録し、現在も危機的な状況が続いている(写真2)。

図1:エジプト全図

2011年以後の政治的な不安定化の中で、政府の開発へのまなざしは変わらず強いものがある。スエズ運河プロジェクトは、35kmの長さにわたる複線化を行うもので、また近年の船舶輸送の技術的な進展に鑑みて、多くの船舶を受け入れるべく、スエズ市アインスフナ市周辺の6港を整備する開発計画である。住宅建設プロジェクトは、特に若者や低所得者層に住宅が購入し易くなるように、価格を従来の70%に抑え、2018年までに248の地域で建設が計画されている。道路整備プロジェクトは、総距離4,800kmにわたる高速道路を中心とする整備計画であり、カイロ市~マルサマトルーフ市間の高速道路の新たな建設に加え、カイロ市と大都市を結ぶ高速道の接続環境整備等が各地で進められている。イスマイリーヤ市、ポートサイド市、スエズ市、アラメイン市等のスエズ運河や地中海沿岸の都市では、旧市街郊外に大規模な住宅建設が進められている。またカイロ市~スエズ市を結ぶ道の南に、首都機能を移転し、中核的な教育施設や経済拠点を移動し大きな雇用の創出を創出していこうという構想は、潜在的に熱く語られている。エネルギー開発では、トルコやヨルダンと同様、原子力開発が進められており、ロシアの技術援助を受けて、地中海沿岸に2022年までに原子炉をもつ建設が進行している。これらの開発の全てが、文化遺産の保存問題に関わることはいうまでもない。

文化遺産の破壊や略奪、社会サービスとモラルの低下、開発の進行といったさまざまな問題に、カイロ市の中心部の史跡整備地区はどのような状況に直面しているであろうか。この地域は、ムバーラク政権時代に、ファーティマ朝時代の街づくり空間への復帰が謳われ、文化省とワクフ省1)の協力のもと、多くのモスク、マドラサ、隊商宿等の整備が急速に進められた地区として知られ、イスラーム系の財団の支援を受けて、緑豊かな憩いの場も作られた。それが2011年以後の政治的な混乱の中で、どのように扱われているかを探るために、筆者は同地を訪れてみた(2014年2月)。改めて整備地区を眺めてみると、かつて厳粛に整備された地区に、居住や商売のためのインフラが遺跡地区に大きく乗り出してしまっている。しかしその一方で、歴史的な小道は住民によって自主的に清掃され(写真3)、遺跡整備地区は人々の憩いの場となっているのも事実である。経済がすっかり落ち込んで、外国人がほとんど観光に訪れない現況に対して、地方からの多くのエジプト人観光客が賑わいを演出している。苦境を救う相互扶助的な精神で遺跡の保存が諮られているとすれば、よそものの心配は無用なのかもしれない。

写真3:自発的な清掃を⾏う遺跡整備地区の人々(カイロ・イスラーム地区)撮影:⻑⾕川奏


(1)    ワクフとは、個人あるいは集団が何らかの財産を基金として供出して、そこからあがる利益を慈善事業として施すシステムを意味する。ワクフ省はこうしたイスラーム独特の宗教寄進を扱う行政機関を指す。

公開日:2017年8月9日最終更新日:2017年8月9日

長谷川 奏早稲田大学総合研究機構客員教授

考古学者(文学博士)。早稲田大学エジプト学研究所准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター長を経て現職。専門は古代末期の物質文化研究と中東の文化財保存史。著書に『図説・地中海文明史の考古学』(彩流社 2014年)、「遺跡の破壊と保存活動」鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』(明石書店 2012年)等がある。