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動向

倉敷美観地区と大原美術館
― 観光資源として、文化・教育資源として ―

柳沢 秀行 / Hideyuki Yanagisawa

公益財団法人大原美術館 学芸統括

大原美術館 本館 提供:大原美術館

豊かな文化的資源と、頑張る美術館

岡山県倉敷市の中心市街地に広がる倉敷美観地区(写真1)は、江戸時代よりの街並みを守り伝え、「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区(1979年指定)にもなっている。

 

加えて、明治以降の近代建築も見逃せない。西村伊作(1884~1963)設計の日本基督教団倉敷教会会堂(1923)と若竹の園園舎(1925)、薬師寺主計(1884~1965)の旧第一合同銀行倉敷支店(1922)、大原美術館の本館(1930)と有隣荘(旧大原家別邸、1928)、浦辺鎮太郎(1909~1991)による大原美術館分館(1961)、倉敷国際ホテル(1963)、倉敷公民館(旧倉敷文化センター、1969)、倉敷市民会館(1972)、そして丹下健三(1913〜2005)の倉敷市立美術館(旧倉敷市役所、1960)など優れた近代建築が江戸時代からの街並みの中に残っている。

 

こうした景観、建築のみならず、美観地区内には、大原美術館、倉敷民藝館、倉敷考古館の公益財団法人格を有する三つの博物館施設が半径50mほどの距離に近接している。さらに、大原美術館向かいには、国の重要文化財指定の建造物を含む、語らい座大原本邸(写真2)があり、展示施設も有して一般公開されている。

写真1 倉敷美観地区 提供:大原美術館

写真2 語らい座大原本邸 提供:大原美術館

また民芸運動にもゆかりの深い地ゆえに、クラフト系のショップも数多く、まさに岡山県を代表する文化、観光の拠点となっている。

 

その中でも、大原美術館は中核となる存在と言ってよいだろう。

 

この館は、西洋の優れた美術作品を日本に紹介したいという洋画家・児島虎次郎の発意と、それを受け入れた倉敷紡績などを経営する実業家・大原孫三郎によって1920年代初頭に形成されたコレクションを核とする。

 

大原が資金を提供し、児島がヨーロッパ各地を巡りながら収集した作品は、およそ印象派から1920年代に及ぶもので、すでに高い評価を得ていたクロード・モネ、ポール・ゴーギャン、アンリ・マティスなどの他、現在での知名度こそ彼らには及ばないものの当時の日本人画家に強い支持を受けた画家など目配りのきいたコレクションとなっている(写真3)。

写真3 大原美術館展示室 提供:大原美術館

1929年、児島が47歳の若さで逝去したことをきっかけに、それを悼んだ大原が翌1930年に、児島が収集した作品と、児島自身が描いた作品を常設展示する場所として現在の本館を建設し、大原美術館を創設したのである。ちなみに、この開館時から、児島がモネやマティスから直接購入した、つまりは当時にあってのコンテンポラリーアートがあり、同時に、大きく時代を遡るエジプトや西アジアの古い品々が収蔵、公開されていた。これは、古今東西のさまざまな文化の相互影響を見通そうとした児島の意識の表れである。

 

1940年、大原孫三郎は、還暦を機にその諸事業を息子の總一郎に引き継ぐ。

 

總一郎は「美術館は生きて成長していくもの」との信念を持ち、第二次世界大戦後の美術館の発展を担う。特に總一郎が積極的に収集したのは、第二次世界大戦後の社会において新たな価値観を提示しようとするフランスのアンフォルメルやアメリカの抽象表現主義など欧米の前衛的な作家たちであった。また日本の近代洋画の収集も進めるが、まだ歴史的な体系化も十分になされていなかった1950年代において、梅原龍三郎や安井曽太郎などの現役の大家から、関根正二や前田寛治、松本竣介など夭折した画家たちまでを収蔵している。もちろん、河原温、斎藤義重、吉原治良など同時代の前衛的動向にも目を向けており、今となっては大原美術館所蔵品を抜きにしては、日本の近現代美術史を語ることができない良質なコレクションを形成したのも總一郎である。

 

また、孫三郎以来二代に渡って民芸運動を支援したことで、大原家に多数が所蔵されていた河井寛次郎、富本憲吉、浜田庄司、バーナード・リーチ、棟方志功、芹沢銈介といった民藝運動を主導した作り手の作品を、總一郎は大原美術館へと移管替えした。そしてこれら多岐に渡る新たな所蔵品のために、現在の分館、工芸・東洋館の新築を果たしたのである。

 

現在では関根正二「信仰の悲しみ」(1918年)、小出楢重「Nの家族」(1919年作)、「絵過去現在因果経》(奈良時代)、「一光三尊仏像」(北魏時代 ※寄託作品)の四つの国指定重要文化財を含む約3,000件、絵画だけでも約1,000点を収蔵するまでになっている。

 

こうした収蔵品の質量は、日本を代表するものと誇ってもよいであろう。ただ大原美術館は、児島による作品収集時から、同時代作家の新たな表現を広く社会へと伝え続けてきた歴史を継続するため、活躍中のアーティストとの取り組みもいまだ積極的に行っており、21世紀になってからだけでも、すでに50名以上の現代作家の作品を収蔵している。

 

一方、来館者に向けての働きかけも活発である。学生団体の受け入れは年間2万人を超えるが、その大半に鑑賞支援のプログラムを提供している。また年間のべ3,000人程の未就学児童を受け入れて教育的プログラムを提供したり、近隣の二つの小学校が休館日を活用して全校児童が来館して教員が授業を行う「学校まるごと美術館」(写真4)を実施したりしている。2002年から開始したチルドレンズ・アート・ミュージアム(写真5)は、8月末の土日2日間に、美術館の各所で15ほどのワークショップを集中的に実施する事業だが、近年は、2日間で1,000名の参加者を数えるまでになった。

 

その他にも、大原美術館が提供する教育的なプログラムはさまざまあり、日本の美術館の中でも注目を集めることが多い。当然、倉敷近隣の地域においても重要な教育拠点ともなっている。

写真4 学校まるごと美術館 提供:大原美術館

写真5 チルドレンズ・アート・ミュージアム 全スタッフミーテイングの様子。高階館長自らの音頭で勢いをつける。 提供:大原美術館

山積する課題

このように歴史、所蔵品、現在の活動と、誇るべき要素は多いが、一方で、MUSEUMとしてのスタンダードな機能を果たすうえでは数々の課題もある。

 

倉敷美観地区全体に目をやると、早くも1969年に倉敷市が条例を定めて、その景観保護が始まっているが、近世以前の街並み保全へと意識が向かいがちなために、今や十分に文化財と見なし得る数々の近代建築については、その位置づけが必ずしも明確に示されていない。そのため、大原美術館についても、本館(薬師寺主計設計、1930年作)、分館(浦辺鎮太郎設計、1961年作)、そして近年寄贈を受け、新たな美術館施設へと改修中の旧第一合同銀行倉敷支店(薬師寺主計設計、1922年作)の建築的な価値をどのように定め、そして改修にあたってどのような指針に基づくべきなのであるかという問題が跳ね返ってくる。つまりは、老朽化へ対応するための改修や新たなリノベーションに際して、本来の様式、素材を厳守するという近世以前の建築に対しての態度が、近代建築へも適用されがちなため、常に、条例運用の監督者となる行政側との交渉が必要となってくるのである。

 

もう一つ悩ましいのが、観光地ゆえの問題である。

 

1972年の新幹線岡山駅開業から1988年の瀬戸大橋開通に至る観光特需で、大原美術館は、最盛期には年間100万人を超える入館者を迎えていた。しかしながら、その後のバブル崩壊以降は、倉敷美観地区への訪問者数と連動し、大原美術館への入館者数も下がり続けている。近年の大原美術館入館者と倉敷美観地区訪問客の概数を見ると、2016年度33.4万人と384.5万人、2017年度30.1万人と364.8万人、2018年度27.8万人と312.3万人となっている。

 

大原美術館への入館者数は、最盛期の1/4にとどまり、また美観地区訪問者全体の1/10以下で推移しているわけである。こうした状況は、入館料収入が全収入の8割を占める大原美術館の運営に暗い影を落としている。

 

なにより厳しい影響を被るのが、施設面での改修や新規投資である。常に、その必要性を痛感しながらも、美観地区での法規制への対応以上に、なによりも資金難、そしてそれと連動して、改修のために長期休館することへのためらい(閉館したら収入がなくなる、周辺の観光施設へ影響)が重なって、この課題解決は先送りされてきた。

 

採算面では厳しい状況が続く中でも、作品保全のための収蔵庫棟の新設、来館者への配慮からの2カ所のエレベーター設置を行ってはきた。しかしながら、2018年の西日本豪雨が、同年度の客数に深刻なダメージを与えていることは前掲の数値から明らかであろう。そして2020年4月以降はCOVID-19感染拡大によって、新規投資どころか、開館そのものを断念せざるを得ないような状況に至ってしまった。

 

特にCOVID-19感染拡大は、第二次世界大戦下においても表向きは閉館し、主要作品をいわゆる疎開させながらも、残った作品を展示し、訪ねる人があれば静かに迎え入れてきた大原美術館においても、136日間にも及ぶ臨時休館という経験のない事態を余儀なくした。さらに再開館後も、入館者数を制限するため、通常のランニングコストを賄うためには年間30万人の入館料収入が必要であるにも関わらず、およそ1/5となる6万人ほどの入場者しか見込めない。

 

こうした状況に対して、運用資金のための借り入れや、収入の多角化に真剣に取り組んでいるが、当然のように、旧第一合同銀行倉敷支店の新たな展示棟への改修工事を一部先送りする決断を行わざるを得なくなった。

 

ただ、その判断には、新施設建設用に蓄えてあった資金の一部を、既存の展示棟の改修に転用するという現実的なやりくりも関わっていた。つまり、長期休館を活用して、施設改修を一挙に進めてしまおうというわけである。具体的には2020年4月から8月の臨時閉館中に、本館の増築部分の空調機器を一新し、また展示場の壁も塗り直した。さらに2022年3月まで閉めることとした分館については、それまでの間に空調、照明、エレベーターの更新、そして建築的なバリアフリー化の工事を検討している。

好機と活かす。所蔵品を活かす。

COVID-19の影響を、好機に転じさせようとする活動は、所蔵品調査にも言える。

 

2002年に着任した高階秀爾館長の指示により、現在に至るまで館の歴史と、所蔵品調査を継続して実施してきている。しかしながら、十分なバックヤードがないゆえに、作品の再採寸を含めての調査や写真撮影は、作業効率が極めて悪い。そこで、閉館している分館の展示場を活用して、これらの作業を一挙に進めることとした。

 

また一方で、そうして得た各種の情報を効率的に活用し、さらにはWEBでの提示などで入館者への情報提示につなげるために、新たなデータベースのシステムを導入することとした。

 

MUSEUMにとって何よりの文化財は作品である。それゆえ、それを保存維持することが重要なミッションとなるが、さらには、作品から数多くの情報を引き出し、学術面での寄与のみならず、広く一般観客にとって有益な情報を提示することは、作品を活かすためにも必須の活動である。

 

いわば、さまざまな局面でピンチをチャンスにといったところだが、こうした短期的には、目に見える成果になり難い活動が、MUSEUMの基盤を支えている。そして、そうした基盤があるからこそ、これまで培ってきたさまざまな教育的ノウハウを、さらに強化して広く社会に提供するコンテンツを生み出すことも同時に進められるわけである。

文化観光推進法

COVID-19の感染拡大が現実的なものとなる以前に、いわゆる文化観光推進法に基づく事業において、拠点計画「大原美術館を中核とした倉敷美観地区の文化・観光推進拠点計画」として認証され、「大原美術館 文化観光拠点施設機能強化事業」を開始した。

 

ここでも触れてきたように、大原美術館は、岡山県第一の観光地の中核として長い年月を過ごしてきており、おそらく同法律が実現を想定する状況を、すでに先取りする形で実現してきているのではないだろうか。それは、海外を含めた広域集客を可能とする資源の磨き上げであり、具体的にはユニークベニューの活用や、周辺の宿泊・飲食施設との密接な連携など、ここでは書きとめなかった内容も多様に含まれている(写真6)。

写真6 2016年G7教育相会合の晩餐会に会場を提供 提供:大原美術館

しかしながら、当館は広域集客を可能とする観光資源であることのみならず、日本のアート界への寄与を重視し、あるいは倉敷近在の教育資源であることも大切にしている。

 

今を生きる人たちに、なにかしらの働きかけを成すには、美術館はリアルな今に即応できるように生きて成長していかなくてはならない。同時に、ずっと、そこに当たり前にあるものとして、歴史を繋ぎ、時には時空を超えた異世界への窓として美術館はあり続けるのである。

 

文化観光推進法が目指す状況を実現すると共に、ここでご紹介させていただいた諸事業のバランスを欠かすことなく、持続可能な運営を行いたい。それが、今、大原美術館が置かれた状況の中での切なる思いである。

柳沢 秀行やなぎさわ ひでゆき公益財団法人大原美術館 学芸統括

筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業後、1991年から岡山県立美術館学芸員。2002年より大原美術館に学芸員職として勤務。日本の近現代美術史を研究。またパブリックア-トなどを含め、美術(館)と社会の関係についての調査を実践。2008年、日本博物館協会「棚橋賞」受賞。

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