動向
群馬県立歴史博物館イノベーション文化観光拠点計画
新装となった群馬県立歴史博物館「国宝展示室」 提供:群馬県立歴史博物館
はじめに
本稿では、2020(令和2)年5月から施行された「文化観光推進法」に基づいて同年8月12日に認定された「群馬県立歴史博物館イノベーション文化観光拠点計画」について紹介する。その場合、計画の中で特色ある拠点的博物館づくりの核の要素となる「国宝群馬県綿貫観音山古墳出土品」、「埴輪」、「榛名山噴火関連遺跡」を中心に述べていくことにしたい。なお、計画に基づく具体的事業は、2020(令和2)年度下半期から始動している。
群馬県立歴史博物館は、高崎市の東郊に所在する。この地は、第二次世界大戦前には「陸軍火薬製造所」があったところで、広大な敷地を占めていた。その約1/3ほどについて、明治100年記念事業として1974(昭和49)年、県立公園「群馬の森」(敷地面積26.2㏊)を開園させた。また、その一角に県立近代美術館と同歴史博物館が併設された。
写真1 群馬県立歴史博物館遠景 提供:著者
歴史博物館の開館は、1979(昭和54)年である。当館の前身は、富岡市一ノ宮の県立博物館であるが、規模・内容等からすると全くの新設館であったと言える。県内初の本格的博物館としてオープンすると、大変な好評を博し、内外から多くの来館者を迎えた。
その後、40年近くを経過したものの、本格的リニューアルは行われないままに近年に至っていた。その間に、群馬県地域の歴史・考古学的状況や博物館を取り巻く社会的状況は一変した。その第一は、さまざまな大規模開発に伴い、地域全域で広域の発掘調査が激増したことである。元々全国的にも屈指の遺跡大包蔵地域であったため、そこに大々的にメスが入れられるや、歴史認識を一変させる成果が続出した。また、群馬県史や市町村史編纂事業が活発化し、地域の歴史理解の精度を大幅に増大させたことも特筆される。
2014(平成26)年から約2年間の休館期間を要して、当館の待望の全面的リニューアルが実現した。改修の中心は、施設本体の老朽化に対する大幅刷新に置かれた。併せて展示ゾーンレイアウトの変更と常設展示のリニューアルが行われた。当然、最初の開館以降に得られた新たな諸成果が大いに生かされたことは言うまでもない。また綿貫観音山古墳の出土遺物を展示するための常設展示室として「東国古墳文化展示室」が設けられた。
念願の展示リニューアルとはなったものの、時間的・予算的制約もあったため、より効果的で、興味深いものとするためには、まだまだ多くの課題があった。そのような折、前述の文化観光拠点施設(博物館)充実化の構想で応募したところ、最初の10地域・拠点の一つとして認定されるところとなった。
群馬県に顕著な三つの歴史文化資源
群馬県地域は、古墳時代において極めて特徴的な歴史特性を示すことでよく知られてきている。この特性は、前述したように昭和50年代以降、今日に至るまでの活発な発掘調査を経る中で一段と顕在化してきたところである。
【国宝群馬県綿貫観音山古墳出土品】
「古墳大国群馬」。このように称されることがよくある。東日本最大の前方後円墳・太田天神山古墳(墳丘長約210m)の存在や、同墳及びお富士山古墳の典型的な長持形石棺、古墳時代前期以来一貫して最先端の内容を誇る古墳とその出土品等が、このことを如実に物語る。
綿貫観音山古墳は、一古墳としての価値づけにとどまらず、顕著な歴史特性を蔵した古墳時代群馬の象徴的存在と言える。2020年9月、当墳の出土遺物(石室内副葬品・埴輪)が一括で国宝に指定された。文化庁所有の資料群であるが、継続的に群馬県立歴史博物館に貸与されており、当館の中核的展示資料である。古墳は当館の北1㎞の至近に位置し、墳丘・横穴式石室とも整備公開されている。当館がサイトミュージアム的な機能を有していることになる。このような機能を綿貫観音山古墳にとどまらず、群馬県全域に広げていきたいと構想している。
写真2 綿貫観音山古墳出土埴輪 提供:群馬県立歴史博物館
写真3 綿貫観音山古墳副葬品 提供:群馬県立歴史博物館
【埴輪】
群馬の埴輪は、質・量ともに極めて豊かな内容を有している。とりわけ人物・動物(特に馬)埴輪が種類に加わる古墳時代後期段階には、全国的に見ても最も充実している。当館では、開館記念の企画展を嚆矢とし、この間4回の大規模な埴輪展を実施してきており、2021年2月27日(土)〜5月9日(日)は、特別展示「新・すばらしき群馬のはにわ」を開催していた。時代・地域理解のための絶好の資料であると同時に、利用者からの強い要望に応えている側面もある。事実、いずれの回も、多くの来館者で大盛況であり、老若男女を問わず、埴輪は大人気である。
古墳時代後期に爆発的な活況を示すのが関東地方の埴輪に共通した特徴で、その動きをリードしたのが群馬だったと考えられる。最近、埴輪樹立古墳数を調べたところ、2,000基以上に達することがわかった。そのうちの大半が古墳時代後期、とりわけ6世紀後半に属している。当地域の当該期のほぼ全ての古墳に樹立されていた可能性が出てきた。顕著な組織的量産化の流れは、良質の埴輪の製作につながった。全国的に見ても、重要文化財・国宝に指定されている埴輪の件数が圧倒的に多いことが、このことをよく物語っている。
写真4 太田市塚廻り古墳群4号墳跪く男子埴輪 提供:群馬県立歴史博物館
写真5 榛東村高塚古墳武人埴輪 提供:群馬県立歴史博物館
【榛名山噴火関連遺跡】
群馬県地域は、数多くの火山災害に見舞われてきた歴史がある。主な火山は、浅間山と榛名山であり、前者は現在でも時々活動を繰り返している。榛名山は、古墳時代の中で5世紀末ないし6世紀初頭(Hr-FA)と6世紀前半(Hr-FP)の2度の大噴火があった。火山列島日本であるから、大噴火は何も群馬に限られたことではない。それではなにゆえに特筆されるかと言うと、歴史的に濃密な展開を遂げていた地域に大噴火が襲ったからである。瞬時に火山噴出物層によって厚く埋没した遺跡が面的な広がりを見せているわけである。動的な歴史空間との対面と言っても過言でない。ポンペイ的な存在形態が広域に埋没しているわけであり、世界的にも数少ない事例である。
「甲着装の古墳人」がHr-FA火砕流の犠牲になって屋外から発見された渋川市金井東裏遺跡は、榛名山北東麓にあり、周辺一帯には、古墳人が暮らしていた歴史空間が完全にパックされている。この遺跡は、その後の調査で、馬生産を生業とする集団に関わることが明らかになり、馬そのものも3頭検出されている。このような考古学的状況は、現在の渋川市域のほぼ全域に展開しており、明らかになったのはほんの一部である。
Hr-FPの噴火で埋没した遺跡には、渋川市(旧子持村)黒井峯遺跡がある。調査当初は、古墳時代の典型的な農耕集落跡とされてきたが、その後、周辺一帯で広大な馬の放牧地(白井遺跡群)が発見され、黒井峯遺跡内の数多くの馬小屋の存在とも併せ、金井東裏遺跡と同様の馬生産に関わる遺跡群であることが明らかになってきた。
エリア全体が火山噴出物によって完全にパックされているのは、市町村合併後の渋川市域であるが、それ以外の地域でも程度の差こそあれ、榛名山の火山噴出物が確認できる同時存在の遺跡が広域に把握されていることも重要である。
写真6 榛名山とその北東麓の金井遺跡群(東裏・下新田遺跡)。周辺一帯には同時期の歴史空間が埋没している。 提供:群馬県
写真7 金井東裏遺跡における甲着装古墳人の出土状況。調査者のすぐ前が古墳人、その先にはもう1領の小札甲(こざねよろい)。 提供:群馬県
写真8 黒井峯遺跡の調査の様子。周囲は遺跡を覆う軽石層。奥に噴火元の榛名山。 提供:渋川市教育委員会
文化観光拠点としての群馬県立歴史博物館
これまで見てきたように、古墳時代の具体的内容の中に群馬県地域の歴史特性が顕著に表れていることを紹介してきた。それでは、なにゆえに「群馬」だったのかとなると、当地域が抱えている豊かな自然条件を忘れてはならない。具体的には、西から北にかけての背後を発達した山地地形が控えていることと、そこから平野部に流れ出る利根川や渡良瀬川をはじめとする無数の河川の存在がある。これらは、肥沃な平野部の形成と豊かな水資源の供給につながり、また河川交通の大動脈としての役割も果たした。このことに、東日本でも先駆的に組織的で大規模な馬生産が古墳時代中期から加わると、水陸交通の結節点・要衝点としての地域特性が生まれてきた。これらの諸条件が古墳時代以降も当地域の歴史展開の規定要因となっていたことは明らかである。
群馬県立歴史博物館を基点として、群馬県地域全域に展開していける可能性を蔵していることがよくわかる。
【最先端デジタル技術の導入と多言語化】
2020(令和2)年度下半期から拠点計画に基づく具体的事業が始まった。当館では、リニューアルとなった常設展示における最新のデジタル技術の導入は、さまざまな制約から十分でなかった。
その取り組みの手始めとして、綿貫観音山古墳出土品が展示されている「東国古墳文化展示室」を改修して「国宝展示室」とし、過日完成し、2021年3月20日から一般公開となった。ここでは、展示室のレイアウトを見直し、導入ゾーンと実際資料の展示ゾーンを差別化し、前者では期待感をわかせるデジタル映像により、展示ゾーンへの誘いを演出した。展示ゾーンでは、主役である国宝資料の価値を一層生かすための斬新映像(「東アジア世界の中の観音山」「きらびやかな黄泉の世界」「上野国と東国古墳文化」)を2カ所の壁面で放映するものとした。いずれも人感センサーでスタートし、音声錯綜回避を十分配慮した。
展示資料の解説については、スマホ対応の多言語化(英語・中国語・韓国語・ポルトガル語)を準備中である。その実施にあたっては、それぞれの外国語はもちろんのこと、当該国の考古学・歴史学に精通している研究者も加わってもらい、準備を進めている。
これらの試みは、今後、当館の常設の通史展示室に順次及ぼしていく予定である。
一方、「埴輪」、「榛名山噴火関連遺跡」については、これに関わるさまざまな資料について、基礎的調査研究とともにそのデジタルデータ化を進めている。埴輪については、基準資料群に対して高精度の3Dデジタルデータを集積中である。また、榛名山噴火関連遺跡については、その体系的整理・価値づけを目指して委員会を立ち上げ、具体的検討が開始されたところである。これら基礎的作業・検討の延長線上に、興味深く、わかりやすい新たな展示の具体化の可能性が検討されてくる。
写真9 国宝展示室で放映されているデジタル映像 提供:群馬県立歴史博物館
図1 群馬県立歴史博物館イノベーション文化観光拠点計画
【フィールドへの展開、ネットワーク化の基点としての歴史博物館】
歴史博物館への来館者にとって、ここでの見学を基点として、実際の考古・歴史フィールドへと展開してもらうことが重要であり、歴史の醍醐味を味わえる楽しい展開につながる。この動きを前提にした博物館活動をより積極的に準備し、推進する必要がある。
リニューアル後の当館では、県・市町村教育委員会、群馬県埋蔵文化財調査事業団、あるいは群馬県博物館連絡協議会(群馬県に所在する館園の大半にあたる77施設が加盟)との連携に重点をおいて活動を進めて来た。この間の常設展示、企画展示は「オール群馬」で意識的に進めてきた。このネットワーク化がさらに促進されることによって、内外からの人々を迎える「オール群馬」の受け入れ体制が実現する。実際の史跡や遺物は、県下全域に所在する。これらは、いわゆる文化財だけで単独で存在するわけではなく、各地域の景観や食文化、人々の生活の営みと一体となって豊かな存在としてある。このような場への博物館からの展開を我々も意識する必要があるだろう。
近年の文化財保護法の改正に遭遇したとき、我々文化財関係者は、文化財保存から活用(とりわけ観光活用)への重点移動と文化財消耗を危惧した。しかし、従来型の「観光」を前提としての取り組みにとどまるのではなく、現代社会・人にとっての「観光」の質的転換の問題も、具体化の中で問うていく必要性を痛感している。
写真10 綿貫観音山古墳を北上空から望む。奥側に博物館のある「群馬の森」。 提供:群馬県
写真11 前橋市大室古墳群前二子古墳でボランティアガイドの説明を聞く。 提供:前橋市教育委員会
写真12 国史跡保渡田古墳群の井出二子山古墳の周濠部分には、コスモスが植栽され、秋の風物詩として古墳来訪者を楽しませている。その維持管理は地域の人たちのボランティア活動によっている。 提供:かみつけの里博物館
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