動向
高松塚古墳壁画発見50年〜有識者会議は“壁画の番人”たり得るか〜(1)
修復のため取り出された高松塚古墳の壁画(西壁女子群像・部分 2011年撮影 提供:文化庁)
奈良県明日香村の高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されて2022年3月でちょうど50年になった。「日本考古界の戦後最大の発見」などと評され、古代史・考古学ブームを巻き起こした大陸風の壁画は、カビの大量発生などで劣化が進行し、発見当時の鮮やかな色彩が失われてしまった。壁画が劣化した原因について、文化庁の有識者会議が2010年にまとめた『劣化原因調査報告書』では、「『作為』と『不作為』とが入り混じった、複合的な要因の『総和』」とされている1)。結論としてはそうかもしれないが、個人的には、繰り返し発生するカビに対して、組織的な対応を検討しないまま、一部の関係者の判断で処置し、劣化を進行させた国、文化庁の対応の過誤がいちばんの問題だったのではないかと思っている。そうした事態を招いた要因として、壁画の保存管理をめぐって議論・検討を行ってきた国の「有識者会議」が有効に機能しなかったことも大きいのではないだろうか。壁画の劣化を食い止め、カビや汚れなどを取り除く“修理作業”は20年春に終了したが、文化庁の有識者会議はいまも壁画の保存・活用の在り方について議論を続けている。一連の教訓を踏まえ、有識者会議には「チェック役」としての機能が求められているが、会議の議論を長年見ていると、ここ数年は壁画の分析結果など事後の報告が多く、先を見据えた議論が少ないように感じる。果たして有識者会議は“壁画の番人”たり得るのか。発見以来、事あるたびに設置されてきた文化庁の有識者会議の議論を振り返り、これからの保存・活用の在り方について考えてみたい。1回目は、壁画の発見から「現地保存」の体制が整うまでを検証する。
壁画はいま
2022年3月上旬、私は高松塚古墳の壁画と“対面”した。「飛鳥美人」として知られる女子群像などの壁画は、2007年の石室解体以来、古墳から直線距離で約300メートル離れた「修理施設」に保管されている。これらの壁画は度重なるカビの発生などで劣化が進み、12年の時間と25億円以上の費用をかけて、カビや汚れなどを除去する修復作業が行われてきた。これまで幾度か修復中の壁画を見学する機会に恵まれたが、施設を訪れるたびに、黒ずんだり、薄茶色に変色したりしていた部分が、徐々に“きれいに”なっていくのが確認できた。今回は、修復終了後初めての“対面”となったが、男女の人物群像や方角の守り神(四神)などの壁画は、発見時の写真のような鮮明さはなく、全体的に白っぽく、薄れているように見えた。文化庁の調査官は、「描線などが見づらいのは、カビ対策で湿度を抑えた状態になっているため」としたうえで、“飛鳥美人”などは発見当時の姿をほぼ取り戻している、と解説した。また、下地の漆喰が“濡れた状態”であれば顔料がはっきり見えるはず、とした。ただ、石室の西壁に描かれていた「白虎」については、過去のカビ処置の過程で図像が薄れたこともあり、その姿を探すことが難しい状態のままだった。
「修理施設」に保管されている壁画(2022年3月撮影 提供:橿原市政記者クラブ)
古墳から取り出した壁画については、2014年3月、文化庁の有識者会議(「古墳壁画の保存活用に関する検討会」)が、「当分の間は、古墳の外の適切な場所において保存管理・公開を行うことが適切」という見解をまとめた。この方針に基づき、文化庁は、2029年度までに、公開機能を備えた新しい保管施設を整備する計画を進めている。
極彩色の壁画発見
高松塚古墳で壁画が発見されたのは、1972年(昭和47年)3月21日だった。明日香村の『村史』刊行事業の一環として村内にある遺跡の調査が計画され、県立橿原考古学研究所が中心になって、古墳の発掘調査が行われた。古墳からは凝灰岩の石室が見つかり、その内部に極彩色の壁画が描かれていた。同月26日に記者会見が行われ、マスコミ各社が「法隆寺級の壁画発見」「大陸交流 貴重な手がかり」などと大々的に報道する。さらにその3日後、『朝日新聞』が女子群像のカラー写真を掲載したこともあり、壁画は一躍社会の注目を集める存在になった。
発見当時の石室内部(南側の盗掘坑から撮影 提供:明日香村教育委員会)
壁画発見の報せは、すぐさま文化庁に伝えられた。「国家は(古墳の)調査と保存に対する完璧な処置をとるであろうことを期待して」という橿原考古学研究所の末永雅雄所長の意向を受け2)、文化庁が古墳の調査・保存の責任を負うことになった。3月31日の文化庁幹部の協議では、歴史的・文化的な重要性から、(1)とりあえず史跡の指定を行う、(2)応急保存対策調査会を設けて当面の保存対策を決定する、(3)当面の保存対策決定後、歴史学、考古学、美術史学、保存科学の各分野の専門家からなる総合学術調査会を設けて、総合的、徹底的な学術調査をしてもらう、(4)そのうえで恒久的な保存方法を決定する、という方向性を確認したという3)。
「応急保存対策調査会」発足
この方針に基づき、文化庁は4月5日、「高松塚古墳応急保存対策調査会(以下、応急対策調査会)」を設置する。調査会は保存科学の専門家を中心に構成され、(1)恒久的な保存対策が決定されるまでの間の保存方法、(2)当面行うべき記録、(3)調査等に際し石室内に出入する方法、(4)恒久保存のために必要な科学的データ収集、(5)その他、当面の保存措置に関する必要事項の検討、以上の5点を審議対象とした4)。この調査会が、壁画の保存管理について検討する初めての有識者会議といえる。応急対策調査会は同年11月までに2回の現地調査と6回の会議を開いた。このうち5月19日の第2回会議では、早くも古墳の「恒久的保存方法」に関する検討が行われている。この中では、(a)完全埋め戻しのうえ、旧状に復して保存する。(b)石室前に保存用施設を設ける。(c)壁画のみ剥ぎ取り、別途資料館等に保存し、石室は現地に適当な施設を設けて保存する。(d)封土を解除し、石室を解体し、東壁・西壁・北壁・天井の各切石を彩色画ごと一体として移動のうえ、資料館等に保存する、という4案が示され、今後の課題とされた5)。
高松塚古墳壁画の主な経緯①(文化庁資料を基に筆者作成)
1969(昭和44)年4月 | 地元住民により凝灰岩切石が発見され、古墳であることが再認識される |
1972(昭和47)年3月 | 発掘調査(事業主体:明日香村)により、石室の確認とともに壁画が発見される |
1972(昭和47)年4月 | 古墳の管理が文化庁に委ねられる |
高松塚古墳応急保存対策調査会の設置 | |
1972(昭和47)年12月 | 高松塚古墳保存対策調査会の設置 |
1973(昭和48)年4月 | 古墳が特別史跡として指定される |
1973(昭和48)年10月 | 高松塚古墳保存対策調査会壁画修復部会において壁画を現地で保存修理する方針が決定される |
1974(昭和49) 年4月 | 壁画が国宝に、出土品が重要文化財に指定される |
1976(昭和51)年3月 | 石室南側に保存施設を設置 |
1976(昭和51)年度 | 壁画修理事業(第1次修理) |
1978~80(昭和53~55)年度 | 壁画修理事業(第2次修理) |
1980(昭和55)年頃 | 石室内に大量のカビが発生。処置に追われる |
墳丘土が露出している取合部の天井の崩落が断続的に確認されるようになる | |
1981~1985(昭和56~60)年度 | 壁画修理事業(第3次修理) |
1987(昭和62)年3月 | 『国宝高松塚古墳壁画―保存と修理―』(文化庁編集)刊行 |
調査会は7月19日に『中間報告』を取りまとめる。報告では「これまでの保存科学的調査からすれば、墳丘、石室等の諸条件が、壁画の保存にとって、きわめて好適なものであった」としたうえで、「種々の保存科学上の調査研究が完了し、恒久的保存対策が確立されるまでの間は、必要最少限の応急的保存処置を実施するほか、できうるかぎり原状を保持し、古墳の内外の環境諸条件の変化を避けるべき」と壁画の保存管理に関する当面の方向性を示した6)。
「総合学術調査会」の調査
この中間報告を受けて、8月21日に、「高松塚古墳総合学術調査会(以下、学術調査会)」が設置される。学術調査会は考古学、歴史学、美術史学、保存科学の研究者40人で組織され、9月25日から10月12日まで現地調査を行う。調査は、▼壁画、▼副葬品、▼遺構その他の3項目に分けられ、壁画に関しては、その内容や構図、形式、技法、色彩などの現状記録や比較考証、赤外線写真、顔料分析といった科学調査など、多角的な調査が行われた7)。
この調査のあと応急対策調査会は11月29日に最終的な『調査報告』をまとめる。この報告では、古墳の保存について、「壁画の保存を第一義としなければならない。このためには、石室環境の安定化を計り、壁画の検査を可能とする施設等を設ける必要がある」、「壁画の周到な科学調査に立脚した修復技術の研究と技術者の養成を早急に実施する必要がある」との見解が示された8)。
発見当時撮影された西壁・女子群像(飛鳥美人)(提供:明日香村教育委員会)
「保存対策調査会」の設置
「現地保存」の方針決定
そして、1973年10月14日に開かれた「壁画修復部会」で、壁画の「現地保存」の方針が正式に決まる。その方針とは、(1)壁画は歴史上・芸術上・保存上の観点から、現地保存とする。(2)保存施設工事前に緊急必要な部分の応急補強処置を行う。(3)保存施設完了後に、本格的修復作業を行う。(4)応急補強処置と本格的修復は同一方法によって行う。(5)修復作業に際して、必要な箇所のクリーニングを行う。(6)壁画を良好に保存するための温湿度、炭酸ガスに対する適切な対策を講じる。(7)壁画修復のための合成樹脂の使用及びクリーニングは、濃度等に十分留意する。というものだった11)。
古墳に設けられた「保存施設」(1976年撮影 提供:奈良文化財研究所)
保存対策調査会のその後
「保存施設」は1976年3月に完成(竣工)する。同年8月24日に壁画修復部会が開かれ、本格的な修復作業の日程・方法などを了承、その組織などを確認した後、保存対策調査会は“開店休業”状態になる。なぜ、“開店休業”かというと、応急対策調査会は、『調査報告』をまとめたことで役目を終えたと解釈できる一方、保存対策調査会は『報告書』をまとめたり、解散したりした形跡が見当たらないことによる。その証拠のひとつに、文化庁が1987年に刊行した報告書『国宝 高松塚古墳-保存と修理-(以下、保存と修理)』に、保存対策調査会の会長名で「刊行にあたって」という一文が掲載されていることがある。この文章から、保存対策調査会がこの時点まで継続していたことがうかがえる。このような有識者会議の在り方について、『劣化原因調査報告書』は、「調査会及びその作業部会は、解散こそされていなかったものの、開催されることはなく、有名無実化し、保存作業が現場任せとなった」と批判している。さらに「保存施設がしゅん工していよいよ本格的に修理作業が始まり、未知の領域に突入し前進する、本来であれば大変重要な段階であったが、多角的な視点からのチェックを担うべき調査会が機能しなくなり、文化庁等の担当機関による組織的な取組が行われなくなった」と指摘している12)。
「保存施設」の完成を受けて、1976年から85年度にかけて、3次にわたる壁画の本格的な修復が行われる。この間、カビの発生が確認され、その都度、担当者が処置していたが、1987年に『保存と修理』を刊行するまで、文化庁はこの事実を一切明らかにしていなかった。そこには以下のような文章がある。
「カビの問題は応急保存対策調査会の発足当初から危険信号が出されており,そのための必要な処理も講じられて来た。修理担当者は、実際にはカビの発生の点検及び殺菌・除去サンプリングの役目も負っており、必要な努力を重ねて来たが、昭和55年(※1980年)の修理実施中に、これまでの方法を続けるだけでは不十分と判断されるような状態に遭遇したのである。(中略)その頃(※昭和56年)から、カビの発生が従来よりも多く認められるようになった」13)。この時の状況をのちに文化庁は「昭和のカビの大発生」と呼び、壁画に被害を及ぼす重要な局面と位置付けているが、こうした状況が起きていたにもかかわらず、専門家で構成する「保存対策調査会」が開かれた形跡はない。
次に文化庁の有識者会議が開かれるのは、再びカビの大発生が確認され、問題となった2003年まで待たなければならない。
- 注
- 1) 文化庁 2010『高松塚古墳壁画劣化原因調査報告書』p. 83
- 2) 末永雅雄 1972 「調査経過概要」『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』便利堂
- 3) 安達健二 1978『文化庁事始』東方選書 p. 20
- 4) 文化庁 1987『国宝 高松塚古墳-保存と修理-』p. 10
- 5)『保存と修理』p. 16
- 6)『保存と修理』p. 26
- 7)『保存と修理』pp. 54-57
- 8)『保存と修理』p. 42
- 9)『保存と修理』p. 46
- 10) 毛利和雄 2007『高松塚古墳は守れるか 保存科学の挑戦』NHKブックス1082 p. 45
- 11)『保存と修理』p. 117
- 12)『劣化原因調査報告書』p. 83
- 13)『保存と修理』pp. 112-113
公開日:2022年4月25日