動向
「鳥出神社の鯨船行事」のユネスコ無形文化遺産登録と諸問題Ⅱ(その後)
「鳥出神社の鯨船行事」南島組:感應丸(撮影:著者)
昨年度、本サイト上に『「鳥出神社の鯨船行事」のユネスコ無形文化遺産登録と諸問題』と題して、平成29年度の四日市市の取り組みについて紹介した。本稿では、昨年度の取り組みの成果と今年度の取り組み、及び今後について考えていることなどを述べたい。
はじめに
平成28年12月1日(日本時間)に「鳥出神社の鯨船行事」(以下、「富田の鯨船」という。)が全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されることとなった。一度は先送りされ、再トライアルでの登録であった。通常、富田の鯨船が4艘揃って出演することは無く、例年2~3艘の出演となる。平成28年も正式な出演は中島組神徳丸と古川町権現丸の2艘であったが、8月15日の本練りの休憩時には北嶋組1)の神社丸と南島組の感應丸が曳き出されて4艘揃ってその威容が披露された。北嶋・南島は練りを行わなかったが、年内に予定されているユネスコ無形文化遺産登録に向けての並々ならぬ意欲の表れであったと思われる。というのは、練りを行わなくても、山車を曳き出すということは、各組の構成員を動員して山車の組立てから行わなければならず、練りを行わない年に山車の披露だけを行うということは、その組にとってかなりな負担であり、山車を山車蔵から本練りの行われる神社境内まで曳いて往くに際してもそれなりの人員と注意を要することとなるのである。であるにもかかわらず、社会教育課が昨年度より行っている富田の鯨船の「見学と体験ツアー」では、子どもを船上に乗せ、記念撮影などのサービスも行ってくれたのである。
平成28年8月15日 鳥出神社境内に集結した4艘の鯨船(左から古川町:権現丸、北嶋組:神社丸、中島組:神徳丸、南島組:感應丸) 提供:株式会社アビ・コミュニティ
祭りは毎年8月14日と15日に行われる。昔は9月23日の例祭「ガニ祭り」(蟹祭り・神祭り)で奉納されていたと伝えられているが、本来東富田は漁師町であり、お盆のこの時期はそれ以前の5~6人で行うシラスやコウナゴ漁から、40~50人で行うヒシコ(カタクチイワシ)漁へ替わる漁閑期に当たっており、人を募るのに相応しかったためお盆の時期へ移行したと伝えている。であるため、行事がお盆に行われるからと言って、鯨船行事は盆行事などでは決してなかったはずである。しかし、現在は鯨船行事に先立って行われる「鎮火祭」2)は、本来鯨船とは独立した盆行事であったが、鯨船がお盆に行われるようになったことで行事の中に取り込まれることとなった。鎮火祭自体は神社の本来の例祭であって、もともと富田六郷の村々が練り込んだものであるが、明治22年の町制施行から各村独自の祭りとなり、鯨船のある組では鯨船行事の中に取り込まれ、「石取祭」3)のある町では石取祭の中に取り込まれることとなった。
いずれにしても、ユネスコの登録の発表となる3ヵ月以上も前からこのように気勢を上げていたのである。また、行政としても登録に向けて機運を高めるべく新たな取り組みとして8月15日の本練りの日に、先掲の富田の鯨船の「見学と体験ツアー」を実施した。中には単に見学ばかりでなく、時節柄自由研究のテーマとする子どもも複数みえ、また卒業論文のテーマにする大学生もいた。
登録発表は午前2時となったため、夕方に再度鳥出神社に集まって、くす玉を割り万歳して登録を祝った。翌週には四日市市立博物館の1階エントランスホールに鯨船山車1艘(北嶋組:神社丸)を展示し、同じ会場でその年の練習風景から祭りの本番、そして登録の万歳までを収録した映像を60インチモニターで放映した。また、12月11日(日)には四日市市文化会館で鯨船のシンポジウムを開催して大勢の参加者で賑わった。
ここまでは、お祝い気分の出来事であった。ところが行事について知れば知るほど、行事を継承してくために、中嶋組は深刻な状況に置かれていることを痛感せざるを得なくなった。同じハマの組4)である北嶋や南島がともに6町で構成されているのに比して、中島組だけは2町のみで構成されている。この2町は本町と寺町と呼ばれる町で、鯨船が行われるようになった江戸の頃は、この2町が最も裕福な町で、人も資金も足りていたのである。しかし、少子高齢化が進む中で、船上で舞を舞う羽刺し5)や櫓漕ぎ6)などは皆、外孫7)に頼っている状況である。また、体力の必要な鯨被り8)も知り合いを頼って若者を調達する。船上に乗り込み、全体の進行を司る太鼓叩き9)も年齢が上がってきている。最後に残った正当な太鼓叩きを伝える技を映像で記録し、また直接指導を受けるなど、継承に心掛けて来ているが、その太鼓叩きも先年亡くなった。
1.昨年度からの取り組み
本誌掲載の前稿で述べた如く、平成29年度は以下の取り組みを行った。
①「地(知)の拠点大学による地方創生推進事業」(COC事業)10)との連携
②サポーター講座の開催
③クラウドファンディング
④4艘揃い踏み
⑤ホームページの制作
⑥マニュアルの作成
⑦見学と体験ツアー(平成28年度からの継続事業)
①は四日市大学の「祭りとまちづくり」という講義で、四日市の民俗文化財の後継者不足に関する講義を行って、学生が実際の祭りに参加するというもので、平成29年度から中島組会長が鯨船の講義を行っている。
これは中島組にとって、祭りに参加するためには現状では最も有効な手段となっている。また、これがあって四日市市の多くの祭りが集まる「大四日市まつり」で④の4艘揃い踏みが実現した。なぜならば、地元での祭りはお盆に開催されるため、お盆に帰郷する人手を見込んで中島組の行事が行われるが、「大四日市まつり」は8月の第1週の土・日に開催され、2日目の日曜日に「郷土の文化財と伝統芸能の日」を設けているため、この時期では行事の曳き手が集まらないのである。その部分を四日市大学の学生が担ってくれることとなった。今年度は中島組の出演が無い年に当たっていたため、学生は「見学と体験ツアー」に参加してもらったが、来年からは再び曳き手として大いに活躍してくれるものと思われる。
本練り:鳥居を挟んで掛け合いをする中島組神徳丸(手前)と古川町権現丸(奥)(撮影:著者)
この「COC事業との連携」により中島組は、祭りに一応参加する11)という行為は可能になったと言える。しかし、問題が解決したわけでは無い。このことは山車を出すための曳き手は得られるが、実は何ら本質の解決にはなっていない。なぜなら、四日市大学の学生の多くは卒業すると四日市を離れることになるからである。つまり、何人の大学生が参加しようとも、将来の担い手とは成り得ないのが現状である。
そのため、大学の講義で学んで祭りに参加する今のあり方から、空き家の多い本町・寺町に学生が住んで、地元から祭りに参加できるようにならないかと考えているところである。
②は、当初「担い手育成講座」と称していたが、あまりに重たくなりすぎるのではないかとの理由で、募集をかける直前で「サポーター講座」と改称した。しかしながら、内容は担い手の育成であることに違いはない。平成29年度は、中島組会長による3回の講座を実施し、通計60人の参加者を得たが、そのうちの26人は「見学と体験ツアー」をお手伝いいただく「四日市案内人協会」の会員であった。純粋な受講者のうち、実際に行事に参加したのは4名であった。ご夫婦で参加された一組は、特に組に溶け込んでおり、旦那さんが曳き手となって、奥さんはほかの女性陣と同様に裏方となって働き、まるで昔からの仲間のように動いておられたと聞いている。平成30年度のサポーター講座は計5回開催し、そのうち2回は外部講師を入れ、残りを中島組会長にお願いした。今年の収穫は、弥富から参加した1名が、中島組が出演しない中、南島組のサポートに回って大いに奮闘してもらったこと、実際にサンパライ12)の役を担った受講者がいたこと、また地元の中学校1年生、小学校3年生の参加があり、将来中島組の行事に参加出来そうであり今後その環境を整えつつあることなどであった。また、今年は中島組の出演がなかったため、あまり無理もできなかったが、これからは過去の参加者にも声を掛けていくこととし、着実に中島組の担い手として育てていきたいと考える。この取り組みは、少ないとは言いながら担い手を育成できる取り組みであるので、組の行事の存続には大変有意義なものと考えている。
③については、前回のレポートでも述べたが、あまりに期間が短すぎて失敗に終わった。大学生たちの力も借りて捲土重来を期すつもりであったが、新しいやり方が失敗したことに対して揶揄する向きもあって挫折してしまったことは残念であった。
④の4艘揃い踏みは、前稿でも述べた如く大成功で、取材も多く全市的に、かつ来訪者に対してもかなりアピールできたものと考えている。
⑤独自のホームページの制作は、祭りの迫力を良く表現できるものとなっており、祭りが近づくとそのアクセス数は多方面からも急増し、また市内にしか広報の行き届いていない中、「見学と体験ツアー」や「サポーター講座」に他府県からの参加があるのもホームページというツールならではの効用と考えられる(「鯨船まつりホームページ」http://www.city.yokkaichi.mie.jp/kyouiku/kujirabune/index.html)。
⑥マニュアルの作成については平成29年度・30年度で考えていたが、物理的に撮影・取材が出来ない組もあり、平成31年度に完成版の印刷と映像のブルーレイ化を考えている。平成29年度は4組が出演し、鎮火祭と町練り13)に関してはすべて撮影することが出来た。本練り14)の日に雨に祟られて、北嶋組と中島組が出演を断念したため撮影が出来ていない。また、浜練り15)に関しても映像を残すことが出来なかった。張りぼての鯨の製作から始まって、羽刺しの所作・太鼓叩きなど各練習や山車の組立て、祈祷や化粧・着付け、鎮火祭から始まり宮参り16)に及ぶ映像をDVD11枚と内容を抜粋した冊子(80頁)としてまとめた。平成30年度は、前年に撮影出来なかった北嶋組の本練りや北嶋・南島の浜練りなどを記録したものを現在編集中であり、2枚のDVDを差し替えるとともに1枚の新たなDVDを加えて12枚組とする予定である。また、来年度は中島組の本練りや浜練りを撮影し、すべての映像をブルーレイ化する予定である。
⑦については、先行して平成28年度から実施しているが、平成28年度は22人の参加、平成29年度は49人、今年度は24人と大学生23人であった。今年度の特徴としては、市外の参加者が多かったことである。東員町・桑名市・津市(以上、三重県内)、名古屋市・宇陀市・岡崎市・京都市・東京都である。
2.その後とこれから
現在、鯨船山車の実測図面の作成を考えている。但し、鯨船山車は彫刻や緋羅紗に金糸の刺繍などが鏤められた絢爛豪華なものであるため、建築系の実測では無く美術大学や芸術大学系の絵画の技術を修得した者で、かつ民俗学について習熟した人物や業者にしてもらうと良いとの示唆を戴き、その点で人材選びに苦労することとなった。現在、株式会社TEM研究所と契約を交わす直前まで来ている。今後、年に1艘ずつ中島、北嶋、南島をそれぞれ実測していきたいと考えている17) 。これらの実測図面を残すことによって、山車を組み立てるときの参考ともなり、また将来破損した箇所の復元などにも有用と考えている。
また、今年度は昨年作成して在庫が無くなってしまった街歩き用の小冊子の増補改訂版を作成し、PR用の写真集も作成した。
これらも含めて平成32年度には富田の鯨船だけの調査報告書を作成する予定としている。また、来年度、マニュアルの完成版を作成するが、これによって少なくとも平成の終りにどのような祭りが行われていたかを将来に亘って残していけることとなる。無形の民俗文化財というものは、時代により、事情により、少しずつ変化を来すことも十分有り得るが、この時点における祭りの完全な記録というものは、将来に向けて貴重なものとなるであろうと考える。そのことは、たとえ行事に変化を来したとしても、元がどうであったか、どこからその変化が来ているかということが知り得るからである。
増補・改訂した街歩き用の小冊子と写真集(撮影:著者)
継承マニュアル(DVDと冊子)(撮影:著者)
(1) | 北嶋・中島・南島の表記は、従来はそれぞれ島の字が不統一であったが、国の重要無形民俗文化財に指定されたことを機に富田鯨船保存会連合会が結成されて、その時から「島」に統一されることになったが、本年度から北島組は旧に復して「北嶋組」を正式名称とすることとなった。なお、中島も南島も本来は「嶋」の字を用いていたとの説もある。 |
(2) | 女竹(地元では笹竹と呼ぶ)に藁で作った菰を括り付けた松明を町ごとに持参して、組ごとにお祓いを受け(人も、衣裳も、道具も)、町の平安と祭りの無事を祈って、代表者数人が玉串の奉奠を行う。終わると、神主から神火を受け取り、その火を持参した松明にうつし燃え尽きるのを見届ける。 |
(3) | 三重県桑名市を中心として北勢(三重県の北部)地域に分布する祭りで、特に桑名の石取祭は富田の鯨船と同じくユネスコ無形文化遺産に登録されている。43台の祭車が、鉦や太鼓を夜中の0時に春日神社から一斉に打ち鳴らして練り歩く様から、「日本一やかましい祭り」、「天下の奇祭」と呼ばれる。四日市市内も、江戸時代には桑名藩領であった土地も多く、各地で石取祭が行われている。富田西町にも石取祭が伝えられていて、鎮火祭も行われている。因みに「その手は桑名の焼き蛤」という時の「桑名」は現在の四日市市内富田や朝日町の小向(おぶけ)のことである。 |
(4) | 北嶋・中島・南島の各組は伊勢湾に面した浜沿いに立地するためハマと呼ばれ、古川町は旧東海道沿線の組であるためタカ(高地区)と呼ばれる。 |
(5) | ハザシ・ハダシ・ハタシとも呼ばれ、船上で鯨取りの所作を行う。ドンザと呼ばれる豪華な衣装を両肌脱ぎにして、唄いと太鼓にあわせて演技を行う(小学校4~6年生くらい)。 |
(6) | 船上の両側の舷側や櫓につかまって、左右に大きく揺らされる船上で必至に耐える一種の通過儀礼的な性格がある。基本的に鯨船は男の祭りであり、厳密に女人禁制の組もあるが、櫓漕ぎは頭に可愛らしく花笠を被り、女子も交じる(3~7歳くらい)。 |
(7) | 結婚した子どもたちは町を出て、郊外の住宅地やあるいは四日市を離れ大都市等に住まいしている。その子どもである孫たちの世代頼みなのである。 |
(8) | 100kgほどの重量のある張り子の鯨を被り鯨船との間で丁々発止のやり取りを行う。いわばこの祭りの一方の主役である。行事全体からすると敵役であるが、鯨が元気でないと行事全体が面白みのないものになってしまうし、観客からもヤジが飛ぶ。 |
(9) | 昨年からのマニュアル作成に関わって分かってきたことの一つに、ハマの3組には太鼓をただ叩くだけでなく、音を出さずに撥を太鼓の表面で止めたり、撥のシリを太鼓の淵に沿って回すなどの共通する所作があるが、古川町ではそれらの所作が無い。 |
(10) | 文部科学省では、COC事業について「平成27年度から、大学が地方公共団体や企業等と協働して、学生にとって魅力ある就職先の創出をするとともに、その地域が求める人材を養成するために必要な教育カリキュラムの改革を断行する大学の取組を支援することで、地方創生の中心となる『ひと』の地方への集積を目的として『地(知)の拠点大学による地方創生推進事業』を実施」するとしている。 |
(11) | 以前には、10年ほど祭りに参加できない時期もあったという。 |
(12) | 本来はハタキの意味で、竹の棒の先に種々の色の布(組によっては色紙の組も)を細長く切って結び付けたものをいう。これを持って行事進行のための注意や警護などを行う役の人をも指す。 |
(13) | 8月14日は、鎮火祭で祭の無事を祈願したのち、それぞれの町に戻り、町内で鯨突きを行う。練り受けと言って、祝い事があって祝儀を出した家や自治会長の家、羽刺しや櫓漕ぎを出した家などに梵天を立てて、これを目印に鯨突きが行われる。 |
(14) | 8月15日には、あらかじめ決められた順番で、まず鳥居で1本突いてから境内に入り演技を行う。狭い町練りと違って、鯨は自由に暴れまわり、船も全力で追いかける。祭りが最も盛り上がる場面である。 |
(15) | 浜に面した北嶋組・中島組・南島組は「浜練り」と称して、本練りの終わった後、最期にそれぞれの組の浜で練りを行い、伊勢神宮と多度大社を突く。浜の無い古川町では、町練りのはじめに網勘橋で伊勢神宮を突き、最後に中央通りで多度大社を突き、艫上げと言って船尾を持ち上げた状態で180度回転させる。 |
(16) | すべての行事を終えると、薄暮から夕闇が迫る中、締め太鼓を天秤に下げて叩き、「道中伊勢音頭」を唄いながら、順番に神社に詣で、提灯明かりのもとで途中肩を組み合って輪となってグルグル回ったり、組によっては二重の輪を作ったりする。最後は神前に勢いよく駆け込む組、静かに参る組、そして皆行事の無事に感謝する。 |
(17) | 『北勢鯨船行事調査報告書』(平成14年)で古川町のみ実測図を作成している。この時点では「北勢・熊野の鯨船行事」が国の選択保存とされ(平成元年)、その後平成9年に鳥出神社の鯨船行事だけが国の重要無形文化財に指定された。そこで、四日市市だけではなく楠町(当時は四日市市ではなく、平成17年に合併して四日市市となった)や鈴鹿市長太の鯨船についても調査しているが、中島組については祭りに参加出来ていない時期と重なったためか記載が少ない。 |
公開日:2018年12月10日最終更新日:2018年12月10日