考古学
木材資源と文化財
樹齢350年の木曽ヒノキの森 撮影:著者
私は8月の下旬に木曽の赤沢自然休養林で夏休みを過ごすことを毎年心待ちにしている。この赤沢自然休養林は日本における森林浴発祥の地として知られており、ここでは美しい渓流とともに、樹齢およそ350年の木曽ヒノキがそびえ立つ森を散策するのが、私にとって何よりの楽しみなのである。
ところでこの「樹齢350年の木曽ヒノキ」には、この日本列島における木材資源を考えるうえで、深い意味がある。本稿ではさらに古い弥生〜古墳時代の木材資源についても触れるが、まずはその今から350年前、すなわち17世紀頃から振り返って、少しずつ人と木材の関係史を溯ってみよう。
史上空前の築城ブームと森林の荒廃
今からおよそ350年前といえば、江戸時代の寛文年間にあたる。この時期、木曽谷では重大な法令が定められた。この木曽谷周辺を治めていた尾張藩(それゆえ木曽のヒノキは「尾州(びしゅう)檜」とも呼ばれる)が、寛文5(1665)年に森林の荒廃を理由に留山(とめやま)(住民の立ち入りと樹木の伐採を禁じる地域)を設定したのである。さらに宝永5(1708)年と享保5(1720)年には、いわゆる「木曽五木」、ヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコが停止木(ちょうじぼく)として、尾張藩の御用材として以外の伐採が禁止された。有名な「ヒノキ1本首1つ」である(立松2006)。
ではなぜ、米がほとんど採れず、林業をなりわいとしてきた木曽の人たちに樹木の伐採を禁じるにいたるまで、木曽の山林は荒廃したのであろうか?
その原因は、豊臣政権期から江戸時代前期にかけての「史上空前の築城ブーム」にあった。
天正4(1576)年に築城が開始され、同7年に天主が完成した安土城より以前には大規模な城郭建築は存在しなかった。しかし、天正10(1582)年に織田信長が本能寺の変で亡くなり、その政権を引き継いだ豊臣秀吉によってその翌年から建設が始まった大坂城以降、日本列島の各地において大規模な築城ブームが巻き起こった。
秀吉は、大坂城・聚楽第(じゅらくだい)・伏見城・名護屋城のほか、方広寺など大規模建築のために国内の良材を求めて、吉野、熊野、飛騨、美濃、駿河、さらには日向や秋田などからヒノキやヒバ(アスナロ)の大径材を調達した(タットマン1998)。
さらに豊臣政権を倒した徳川家康は、江戸城の本格的な拡張を慶長8(1603)年に開始して以降、諸大名を使役して駿府城・名古屋城・大坂城などの天下普請をおこなった。
家康はこれらの築城にあたって、その用材の調達先として木曽周辺に目をつけ、いちはやく自らの蔵入地とした。その後、家康は元和元(1615)年に木曽を九男である徳川義直が治める尾張藩の領地と定めた。しかし、それ以降も尾張藩や幕府の御用材として強度伐採が続き、とうとうその50年後には留山にいたる。
木曽の赤沢自然休養林に樹齢350年を超えるヒノキが無いわけは、江戸時代前期の強度伐採が原因だったのである。
もちろんこの時期に森林が荒廃したのは木曽だけではない。現在知られる日本の城郭建築のほとんどが16世紀後半から17世紀前半にかけて築かれたことを考えると、日本列島各地の山林において、この木曽谷と同様の事態が引き起こされていたことは、想像に難くない。
古代における都城・寺院の建築ブーム
およそ百年の間、ある一定エリアの樹木が無くなるまで伐り尽くされた例は、なにも16世紀後半〜17世紀前半だけのことではない。さらに溯ることおよそ千年前の飛鳥〜奈良時代にも同じようなことがおこっていた。
6世紀の終わり頃、蘇我馬子の発願によって飛鳥の真神原(まかみのはら)に飛鳥寺が建立されたことを契機として、近畿地方を中心に国家や有力豪族がこぞって寺院の建築を始めた。さらに加えて持統4(690)年に日本最初の都城である藤原宮と新益京(あらましのみやこ)(藤原京)の建設が開始されたことによって、奈良盆地から琵琶湖東南部にかけてのヒノキの大量伐採が始まる。
『万葉集』巻1に収められた藤原宮の役民の作る歌に「石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手を もののふの 八十氏河に 玉藻なす 浮かべ流せれ…」とあるように、現在の滋賀県大津市南部にある田上山(たなかみやま)から伐り出したヒノキの丸太は筏に組んで瀬田川〜宇治川〜木津川を経て、さらに陸路を藤原宮へと約60kmもの距離を運搬したことがわかる。
和銅3(710)年に平城京へ遷都されるとともに、飛鳥や藤原宮周辺の寺院もまた平城京へと移転する。これにともない、律令国家は造宮職(のちに造宮省)・造寺司・造東大寺司を設置し、造東大寺司は伊賀・甲賀・高嶋・田上山に山作所(木材の集積所)を置いた。これに倣って興福寺などの大寺院も滋賀県南部から奈良盆地東部の山間部に杣(木材資源のために国家や寺院が管理する山林)を設け、平城京の北約5kmを東から西へと流れる木津川左岸(泉津)の山作所から木材を陸上げして都へと運んだ。
この古代における百数十年におよぶ強度伐採の結果、田上山はそれから千年以上を経た幕末期においてもなお禿げ山であったといわれている。
弥生〜古墳時代における木材資源利用の実態
さらに時代が溯って、いよいよ弥生〜古墳時代である。土器付着炭化物のAMS年代測定から紀元前10世紀頃に溯ることが判明した初期の稲作農耕民は、福岡平野でも丘陵の麓近くに居住地を構えた。これは、縄紋時代のうちはほとんど伐採されることのなかったアカガシ亜属(特にイチイガシ)の大径木を水稲耕作で使う鍬や鋤に用いるためであった(能城ほか2018)。
日本列島に伝来した稲作の故地である朝鮮半島南部には、常緑広葉樹であるアカガシ亜属は自生していない。彼の地では本来、コナラ節(コナラ・ミズナラ)やクヌギ節(クヌギ・アベマキ)といった落葉広葉樹を鍬・鋤類に用いていた。日本列島においても最初期の鍬・鋤類にはコナラ節やクヌギ節を使用しているが、より堅くて重いアカガシ亜属を「発見」した弥生人たちは、しだいにこの樹種を重用するようになる。
しかし、分割製材によって採れる柾目材の場合、30cmの身幅の鍬を作ろうとすれば、材の直径が60cmを超える大径木が必要となる。直径60cmのアカガシ亜属は樹齢にして百年を超える。福岡平野周辺の丘陵部では、弥生時代前期のうちにアカガシ亜属の大径木が伐り尽くされ、紀元前400年以降の弥生時代中期には、すでに鍬・鋤類は外部の地域からの供給に依存するようになる。
また、河川活動が活発で平野の形成が遅かった河内平野や濃尾平野では、もともと低地部にアカガシ亜属が自生していなかった。これらの地域では、弥生時代前期段階から数km離れた山地や丘陵部よりアカガシ亜属の大径材ないしは鍬・鋤類の完成品を調達するほかなかった。
上記の地域ではアカガシ亜属の大径材を外部に依存するいっぽうで、竪穴建物の柱材や杭材、あるいは日々の燃料材などにはコナラ節やクヌギ節を用いた。これらの樹種を主体とする落葉広葉樹林は集落の周辺におそらくは人為的に創り出され、以後はいわゆる「里山」として維持され続ける。というより、この「里山」的環境なしに、集落を長期的に継続することはできなかったのであろう。コナラ節やクヌギ節、さらに縄紋時代から用いられてきたクリ・ケヤキなどの樹種はアカガシ亜属と違い、根元から伐採しても傍芽更新(ぼうがこうしん)によって20〜30年経つと、再び利用可能な太さに成長する。
福岡平野・河内平野・濃尾平野、さらには岡山平野以外の西日本では、弥生時代中期頃までは、アカガシ亜属の大径木は集落の周辺にまだ存在していた。それゆえ、百年周期で成長するアカガシ亜属と20〜30年周期で成長するコナラ・クヌギ・クリ・ケヤキなどを適材適所で用いつつ、植生とは均衡を保った生活を維持することができていた。
しかし、近年の樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比分析による古気候復元では、弥生時代中期後葉にあたる紀元前80〜50年頃から急激に気候が悪化し、冷涼で多雨な時期がおよそ百年間続くことがわかってきた。おそらく河川の頻繁な洪水により、沖積低地に立地する集落周辺の森林資源は大きなダメージを受けたと考えられる。それに加えて、弥生時代後期には伐採および加工用の石斧が姿を消し、鉄斧(あるいは青銅製の斧)が広く普及する。これによって伐採にかかる時間が石斧に比べて格段に早くなり、材の成長速度が伐採のペースに追いつかなくなる。特に、使えるサイズになるまで百年もの歳月が必要なアカガシ亜属は、こういった様々な要因によって沖積低地の周辺から急速に姿を消していったとみられる。
そこで人々は、アカガシ亜属の大径木を求めて山間部へと分け入るようになる。弥生時代後期に出現する高地性集落のうち、環濠など防御的機能を持たず、かつ竪穴建物数棟程度からなる小規模な集落は、アカガシ亜属など有用な木材を求めて山で暮らすようになった人々の生活の跡であると思われる。彼らは一定のエリアで有用な木材を使い果たせば、そこの森林資源が再び復活するまで別の場所へと居を移動していったと考えられる。この行動パターンは近世の木地師ときわめてよく似ている。渡辺久雄による研究(渡辺1977)で復元された木地師による森の巡回ペース(同じ場所に何年後に戻ってくるか)は森林資源の再生速度に読み替えることが可能であり、これは愛知県安城市の鹿乗川流域遺跡群から出土した木材から復元される年輪数のグラフときわめてよく似ている(樋上2016)。
木地師の巡回ペースと森林の再生
古墳時代に入ると、王や首長の身の回りを飾る器物や武器、祭祀具、あるいは大型建築物などに用いるためのヒノキ材、さらに古墳の棺に用いるコウヤマキの需要が急速に高まってくる。ヒノキやコウヤマキを入手するためには、アカガシ亜属よりもさらに山奥へと分け入る必要が生じる。こうして山林を跋渉して木材資源を調達する人々、それを製材・加工して様々な製品を作る人々、さらにはそれを使う人々が明確に分離されていく(青柳2010)。
かくして、ヤマト王権の本拠地が所在する近畿地方を中心にヒノキ・コウヤマキ材主体の樹種選択が成立し、古代へとつながっていく。
まとめにかえて
本稿を執筆するきっかけは、近年、落慶法要がおこなわれた奈良の興福寺中金堂に輸入材であるアフリカケヤキが用いられていること、そして名古屋城の木造天守閣復元問題にある。
外国産の木材を用いて寺社建築の復元をおこなったのは、今回の興福寺が初めてではない。昭和51(1976)年の金堂再建に始まる薬師寺復興事業では、樹齢千年を超える台湾ヒノキが用いられた。この薬師寺復興事業に用いられた台湾ヒノキもその後枯渇が懸念され、現在では海外への輸出が禁止されている。それゆえ興福寺ではアフリカケヤキの使用へと舵を切ったのであろうが、いかに信仰の対象とはいえ、直径1mを超える大径木が育つには、それなりの年月がかかっており、海外の貴重な木材資源が失われたことには変わりはない。しかも、このアフリカケヤキも現在では伐採が禁止になっていると聞く。
これまで縷々述べてきたように、これらは樹齢千年のヒノキ材が日本国じゅうのどこを探しても存在しないゆえの苦肉の策であったわけだが、それに対して私たちは諸手を挙げて賛成して良いものなのであろうか?
さらに名古屋城の木造天守閣復元問題である。名古屋城では松原武久前市長の公約であった本丸御殿の復元事業が平成18(2006)年度より開始されており、平成30年に一応の完成をみた。ここでは裏木曽と呼ばれる岐阜県中津川市加子母産の無節の木曽ヒノキが「四方柾」という最も贅沢な木取りで潤沢に用いられている。そして、河村たかし現市長が公約に掲げる木造天守閣にも、この裏木曽のヒノキ材が用いられることになっている。
じつは、20年に一度の式年遷宮で全ての社殿や奉納品が一新されることで知られる伊勢神宮の用材を伐り出す「神宮備林(御杣山)」もまた、この裏木曽に設定されている。先に引用した立松和平の『日本の歴史を作った森』によると、第65回式年遷宮がある2073年を最後に、この裏木曽では伊勢神宮の社殿に用いられる無節で材の直径が1mを超えるヒノキ材は無くなるとされている。
三ツ紐伐りで伐採された伊勢神宮の御用木 撮影:著者
現在まで受け継がれた寺社の社殿や文化財の解体修理に国産のヒノキ材が用いられるのは大切なことである。しかし、400年近い歳月をかけなければ使えるサイズにまで成長しない貴重なヒノキ材を、木造天守閣の復元という、いち首長の公約、いや、見栄のために大量に使って良いのかということに、私は深い疑問を抱くのである。
もし、この名古屋城の木造天守閣復元が実行されたなら、今後は日本の各地で同じ動き、すなわち現在ある耐震補強が必要な鉄筋コンクリート製の天守閣を木造に建て替えるというブームが起こりかねない。そして、「木造天守閣復元ブーム」が起これば、今から400年前に日本国じゅうのヒノキ材を枯渇させた、あの愚を再燃させる危惧さえ私には感じるのである。
そのいっぽうで、成長の早さを見込まれて戦後に植えられたスギ林が放置されて花粉症の原因となっていることや、私たちにとって身近な存在であったはずの「里山」が、定期的な伐採による傍芽更新をされなくなったがために、ナラ枯れを引き起こすなど、国土の7割を占める現代日本の森林が抱える様々な問題も、すでにまったなしの状態となって久しい。
今後ブームになりかねない「木造天守閣復元事業」と、海外の貴重な大径材を使用しての「寺社建築再建事業」は、日本列島における森林資源の管理の問題も含めて、いま一度立ち止まって、よく考えてみたほうが良いのではないだろうか。
- 青柳泰介2010「木材の『原材』生産と流通に関する一考察—奈良県東部山間地域での古墳時代〜中世の事例をもとに—」『木・ひと・文化〜出土木器研究会論集〜』出土木器研究会
- コンラッド・タットマン(熊崎 実=訳)1998『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館
- 立松和平2006『日本の歴史を作った森』ちくまプリマー新書041、筑摩書房
- 能城修一・村上由美子・佐々木由香・鈴木三男2018「弥生時代から古墳時代の西日本における鋤鍬へのイチイガシの選択的利用」『植生史研究』第27巻第1号、日本植生史学会
- 樋上昇2016『樹木と暮らす古代人—木製品が語る弥生・古墳時代』歴史文化ライブラリー434、吉川弘文館
- 渡辺久雄1977『木地師の世界—個人と集団の谷間』創元社
公開日:2018年12月17日