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考古学

長崎市唐人屋敷跡の調査成果-唐人屋敷建設期の中国陶磁一括資料の分析を中心に-

扇浦 正義 / Masayoshi OUGIURA

長崎市文化観光部 文化財課 専門官

写真1 長崎市街地を望む(南から)

わが国は古くから中国と深いつながりがある。長崎開港は元亀2年(1571)のポルトガル貿易によるが、長崎港周辺に中国船が初めて来航したのはそれよりも古く永禄5年(1562)といわれる。

 

江戸時代に入ると対外貿易は中国とオランダの2か国に限られ、長崎が唯一の貿易港となった(写真1)。中国船の来航数が200隻近くに達した1680年代末、長崎の人口5万人余りのうち9千人以上が中国人で、華僑社会を形成していたとされる。しかし、出島築造から半世紀後ついに中国人の市中散宿が禁じられ、元禄2年(1689)に建設された敷地約3万㎡の唐人屋敷内に滞在することとなった。

唐人屋敷の発掘調査

唐人屋敷跡の発掘調査は、平成4年(1992)に行われた天后堂前の試掘調査(本格調査は平成11年に実施)が最初である。平成6年には新地唐人荷蔵跡の発掘調査に伴い、唐人屋敷跡の石垣調査を実施した。平成7・8年度には唐人屋敷跡の南東隅付近の発掘調査を行い、2時期におよぶ新旧の空堀遺構が検出された。その後、現在に至るまで建物建設や道路拡幅工事などに伴う発掘調査を数回にわたって実施している。ここでは平成24年度と同29年度に実施した唐人屋敷跡の発掘調査を紹介したい。

平成24年度の発掘調査と成果

写真2-1 発掘調査状況

本遺跡は唐人屋敷の北西部、土神堂の西側奥に位置する。調査面積は48㎡で、1mほど堆積した整地層の下層から8,000点以上の遺物が出土した(写真2)。17世紀後半の陶磁器が主体で、他に土器や瓦、金属製品や動物遺存体などがある。1690年代以降の陶磁器を含んでいないことや、本地点における大規模造成は元禄元年(1688)の唐人屋敷建設期以外に実施された記録がないことから屋敷建設直前までの廃棄と考えられる(注1)

 

 

 

 

写真2-2 唐人屋敷建設期の整地層(1688年)最下部は遺物出土層

唐人屋敷建設当時の歴史的背景について概観したい。中国清王朝は寛文元年(1661)に鄭成功一派に対する経済封鎖のため遷界令(貿易禁止令)を発布し、中国本土から長崎に来航する中国船は激減し、鄭氏勢力下の船のみとなる。この状況は20年余り続き、天和3年(1683)ついに鄭氏一派は降伏。その翌年にようやく展海令(貿易禁止令の解除)を発布した。こうして中国の鎖国令ともいえる貿易禁止令が解除されると内乱から落ち着きを取り戻し、生産力を回復した景徳鎮や福建地方の磁器輸出が本格化した。

本遺跡の最も注目すべき調査成果は遷界令から展海令への移行期における陶磁器流通の実態を示す資料が得られたことであろう。長崎市中の調査では寛文3年(1663)の大火で被災した遺物は多数出土するが、元禄元年(1688)の唐人屋敷建設直前までに廃棄された良好な一括資料の出土は全国的にみても初めてである。ここでは一例として印判文製品の変遷を紹介したい。写真3はベトナムと中国と肥前の印判装飾製品である。

①は北部ベトナムの鉄絵印判文碗で、中国が遷界令を発布した1660年代に生産が始まったとみられる。

②は中国の福建・広東系の印青花碗。これまで出現時期は明確でなかったが、本調査により元禄元年(1688)以前にさかのぼることが判明した。

③は肥前の染付印判文碗や皿、青磁染付小碗。肥前のコンニャク印判は1690年代以降に普及するが、本調査によって元禄元年(1688)以前に製作されていたことや、初期のコンニャク印判は有田産の比較的上質品が多いことが判明した。

 

中国碗はベトナム碗を手本にしたと考えられ、両者の器形はよく似ている。ところが肥前にはベトナムや中国のような浅碗タイプはみられない。こうしたことから三者の流れは①ベトナム→②中国→③肥前と推定でき、貞享元年(1684)の展海令直後に中国はベトナム碗の東南アジア市場を奪った結果、ベトナム碗は生産中止に追い込まれたとみられる。肥前は印判装飾技法を取り入れたものの、器形はベトナムや中国のような浅碗ではない。展海令直後に安価な印青花碗が大量に出回ったため海外輸出を断念し、国内向け製品の生産に方向転換したのであろう。日本人が一般に使用する碗や皿に印判を施した製品の出土が、そのことを物語っている。

写真3 印判文製品の変遷

平成29年度の発掘調査と成果

本遺跡は唐人屋敷の中央部、土神堂と天后堂の中間地点の東側に位置する(写真4)。調査面積は30㎡で、石垣遺構の前面に約2mの深さで堆積した土層中から約26,400点の遺物が出土した(写真5)。17世紀末から18世紀の陶磁器が主体で、他に土器やガラス製品、瓦や金属製品、石製品や動物遺存体などが含まれていた。

地層は2時期に分けられ、Ⅰ層は天明4年(1784)の火災による廃棄、Ⅱ層は1770年ころまでの廃棄とみられる。

 

特記すべき遺構として、天明火災に伴う瓦礫や焼土層を囲むように壺が横倒し状態で列状を呈して検出された(写真6)。5個のうち4個の壺内からは動物遺存体が出土した。うち3個は空洞で、設置当初から壺の中へ意図的に入れたものと考えられる。さらに1つの壺からは寛永通宝が2枚出土した。天明火災層を囲むように壺の開口部を向けていたことから、火災に対する地鎮行為として魚介類や銭貨などを壺内に供えた可能性がある。何も出土しなかった壺の中には、紹興酒でも入っていたのであろうか。

写真4 調査地点の位置(道路乗用車の後) 右側建物は「土神堂」

写真5 発掘調査状況(西から)

写真6 壷列遺構検出状況(壷列手前は天明火災層が堆積していた)

本遺跡の最も注目すべき調査成果は、地鎮行為とみられる壺列遺構が検出されたほか、これまで研究が立ち遅れている中国陶磁の分類や編年研究の指標となる貴重な資料が多数得られたことであろう。出土陶磁の製作年代はⅡ層が1700~60年代、Ⅰ層が1750~84年までを主体とする。中国人たちが唐人屋敷内に持ち込んだ陶磁器は、滞在中に破損すればその地に廃棄したであろう。毎年来航することから、廃棄された陶磁器の使用期間は極めて短く一括性が高い。このことは国内各地から出土する日本人が大切に使用した清朝陶磁に比べて、より詳細な編年構築を可能にする資料といえる。加えて天明4年(1784)の火災層から出土する陶磁器は、廃棄の暦年代を知ることができる資料として重視される。

Ⅱ層とⅠ層の出土陶磁を比較すると、陶器はそれほどの変化を示さないが、磁器ではⅡ層で出土するがⅠ層になると消滅する製品、Ⅱ層では未出土であったがⅠ層になると多数出土する製品との差が比較的顕著である。

 

写真7は両層から出土した中国・景徳鎮窯の小坏の変遷である。Ⅱ層で出土した染付梵字文小坏はⅠ層になると減少する。Ⅱ層で出土した染付龍文小坏はⅠ層になると蛇の目無釉高台となる。Ⅱ層で出土しなかった染付霊芝・花文や色絵十錦手小坏はⅠ層で出土するようになる。Ⅱ層はさらにa層とb層に分けられる。a層から出土した陶磁器の一部は、b層と比べて型式変化をたどれる資料があり(写真8)、b層の形成後にa層が堆積した可能性がある。

写真7 各層出土の中国・景徳鎮窯小坏

写真8 各層出土の型式変化資料

写真9・10はⅡ層から出土した清朝磁器のうち、雲龍文および梵字文を描いた製品の器種と個体数である。

両製品とも景徳鎮窯では小坏、小碗、碗、鉢、皿など各器種に及んでいるが、福建諸窯では器種がやや限定される。25cm以上の大皿は景徳鎮窯で見受けられるが、福建諸窯では出土していない。景徳鎮窯の雲龍文製品は5寸皿が出土せず、7寸皿も2個体しか出土していない。しかし、梵字文皿は5寸と7寸皿が大量に出土している。福建諸窯でも同じような傾向を示す。5寸皿は雲龍文が22個体出土したが、梵字文皿は2個体しか出土していない。同文様で統一された器種のみを使用したわけではなく、文様が異なる食器を取り混ぜながら食卓に並べて使用した可能性がある。

写真9 Ⅱ層出土の中国産、染付雲龍文磁器の種類と個体数

写真10 Ⅱ層出土の中国産、染付梵字文磁器の種類と個体数

写真11は重ね積み焼成による粗雑な福建広東系製品である。口径10cm台の大碗や鉢が大多数を占め、小坏や口径20cm以上の皿は見受けられなかった。

写真11 Ⅱ層出土の中国・福建広東産、染付磁器の種類と個体数

この時期に来航した中国人には船単位で住居が割り当てられ、その単位を本部屋という。本部屋は三間に九間の2階建てを原則とし、2階を船主や上級船員、1階を下級船員の居住とした。景徳鎮窯や福建緒窯の上質品は上級船員、福建広東系の粗製品は下級船員たちが使用したとすれば、上質品が小坏から大皿までバラエティーに富んでいるのに対して、粗製品に小坏や大皿などがみられないのは、経済力の差による料理の種類や品数、宴会の有無などと関係するように思われる。下級船員たちは唐人屋敷内の食事において大皿や7寸皿、小碗や小坏を使用する機会が少なく、汎用性の高い碗や鉢があればひとまず事足りたのであろうか。

 

中国における食事方式は、食卓を囲んで料理が盛られた容器から各人が取り分けて食べる特徴がある。一般に食器の個人所有(属人器)はなく、写真9では鉢と7寸皿と大皿、写真10では鉢と7寸皿、写真11では鉢と折縁鉢が食卓中央に置かれた共用器、それ以外の多くは各人の前方に置かれた銘々器とみられる。

唐人屋敷建設以前と以降の陶磁器

写真12は平成24年度調査(Ⅰ期:1688年以前)と平成29年度調査(Ⅱ期:1689年以降)の出土陶磁器を食膳具、調理・厨房具、貯蔵具に分けて列挙したものである。調理・厨房具はⅡ期になると器種が分化し、鉄釉注口付壺(食油壺)や焼締手付鍋などの出土が目立つ。貯蔵具の壺はⅠ期では各種混在するが、Ⅱ期になると褐釉壺などに収束する傾向にある。しかし、最も違いが顕著なのは中国産の食膳具である。

 

食膳具③の肥前磁器はⅠ期とⅡ期で器種や寸法に大きな変化はないが、Ⅱ期では粗製品が多数出土している。長崎近郊の波佐見や長与窯が日常食器を大量生産しはじめた理由による。Ⅱ期に入ると1690~1730年代に生産された金襴手製品が出土するようになる。Ⅰ期に同製品が含まれない理由は、金襴手製品が流通する以前に廃棄されたからであろう。Ⅰ期では中国産の碗や皿は口径15~16cm以下が大多数を占め、共用器としての鉢や7寸以上の皿はほとんど出土しない。ところが、Ⅱ期になると共用器が多数出土するようになる。

 

こうした器種組成に大きな差異が生じた原因は、中国人たちを取り巻く環境の変化にあったとみられる。

元禄2年(1689)の唐人屋敷建設まで彼らは市中に散宿でき、丸山遊郭への出入りも自由であった。ところが唐人屋敷建設以降、商売や遊興目的で長崎に渡航した中国人たちは屋敷内に居住した。

 

明和元年(1764)に長崎を訪れた汪鵬が著した『袖海編』には、「屋敷では宴会がさかんで、それによって、互いに、つきあいを重ねている。上からふるまう宴会、下からよぶ宴会、通事との宴会、福酒をのむ宴会、春の宴会、遊女をもてなす宴会、蔵しらべや蔵出しのすんだ時の宴会、それに、ただの宴会もよく開かれる」とある。唐人屋敷内で盛んに宴会が催されていた様子がうかがえる。

 

唐人屋敷建設以前は市中での宴会が可能であったため、日常で使用する最小限の手回り品を持参すればよかったのであろう。しかし、唐人屋敷建設以降は屋敷内での宴会となり、共用器を持ち込む必要が生じたため、Ⅱ層では鉢や7寸以上の皿が多数出土するようになったと考えられる。

写真12 唐人屋敷開設以前と以後の陶磁器

今後、中国陶磁の器種を分類するうえで検討すべき問題がある。文献史料によれば、「上品」と「下品」に区別する表現が見受けられる。唐人屋敷内に持ち込まれた陶磁器は下品とされる。不正に搬入された製品がなければ、今回紹介した景徳鎮窯の上質品から福建省広東系の粗製品はいずれも下品に属することとなる。没収の対象となった上品の陶磁器は、高額で取引される美術工芸的価値の高いものであろうが、具体的に定かでない。

 

出土品は染付製品が大多数であることから、色絵磁器が候補として挙げられるが、色絵十錦手製品は天明火災層から多数出土している。今後、唐人屋敷跡と国内消費地遺跡から出土する清朝陶磁器を比較検討するなど、上品や輸入商品、手回り品などの実態を浮き彫りにする研究が組成論を論ずるうえで重要である。

むすびにかえて

本稿では、唐人屋敷跡における2地点の発掘調査で出土した中国陶磁の分析をとおして、器種組織の変化を中心に唐人屋敷建設期前後の様相を明らかにした。

 

唐人屋敷建設以前と以降の陶磁器組成を比較した結果、以降では宴会に使用する共用器が多数出土することが判明した。その原因として中国人たちを取り巻く環境が、「長崎市中の宴会」から「唐人屋敷内の宴会」に変化したことを明らかにした(注2)。考古学的手法によって器種組成の違いを明らかにし、歴史的背景を文献史料に求めて導きだした結論の一例である。

 

また、このほかに新たな問題や課題も浮き彫りになっている。唐人屋敷跡出土の中国陶磁は、より詳細な編年構築が可能な資料であり、天明の火災層(1784)から出土した廃棄年代を確定できる良質な一括資料を含み、質量ともに編年研究の基本となる資料である。出土陶磁全体の詳細な検討は今後の課題である。

 

なお、唐人屋敷跡出土の清朝陶磁の分析をはじめ、国産陶磁と比較した中国と日本の文化交流史の一端については別稿を参照されたい(注3)

 

【参考文献】

扇浦正義2016「唐人屋敷建設期の貿易陶磁」『中近世陶磁器の考古学』第4巻、雄山閣

田中 学2016 「長崎市内遺跡出土の近世貿易陶磁」『関西近世考古学研究』24、関西近世考古学研究会

扇浦正義2017「長崎出土の中国磁器と国内流通」『日本における明清の中国磁器』近世陶磁研究会

扇浦正義2019「唐人屋敷建設後の貿易陶磁」『中近世陶磁器の考古学』第10巻、雄山閣

長崎市教育委員会2013『唐人屋敷跡-長崎市館内町5-2における埋蔵文化財発掘調査報告書-』

長崎市教育委員会2019『唐人屋敷跡-長崎市館内町10番12号における埋蔵文化財発掘調査報告書-』

 

(1) 陶磁器の年代を唐人屋敷建設以降の17世紀末~18世紀初期とし、年代の下限は18世紀前葉(1730年代)を下らないとする見解もあるが(田中2016)、出土状況と文献史料と陶磁器の製作年代が1680年代に一致するため、変更の必要はないと考える。なお、本遺跡の廃棄年代に関する問題は、別稿にて詳述する予定である。 (2) 換言すれば「接客される状況」から「接待する状況」に変わったといえる。接待する側が宴会食器を調達するのが一般的であろう。 (3) 扇浦2019

公開日:2019年7月9日最終更新日:2019年7月10日

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