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考古学

室町時代から江戸時代にかけての城館跡等の発掘庭園

大澤 伸啓 / Nobuhiro Osawa

日本庭園学会会長

一乗谷朝倉氏遺跡義景館跡一乗谷朝倉氏遺跡義景館跡(撮影:筆者)

発掘庭園とは、発掘調査によって確認された庭園のことで、その醍醐味は築造当初の姿を伝えている点にある。発掘庭園には、一乗谷朝倉氏遺跡朝倉館跡庭園のように発掘調査で新たに発見された庭園と、平等院庭園のように現存庭園の下層で確認される改修前の庭園の2種類がある。現存庭園がない飛鳥・奈良時代の庭園は、すべて前者で、紹介されることも多い。一方で、平安時代以降の庭園は現存庭園も多く、発掘庭園だけが紹介されることは少ない。そこで、本稿においては、あえて室町時代以降の発掘庭園だけをとりあげた。本稿を通して、日本庭園文化の奥深さ、発掘庭園の魅力を感じていただければ幸いである。

 

本稿が対象とする室町~江戸時代は、現存庭園もあるが、その認識を変えた発掘庭園も多い。発掘調査成果に基づいて復元整備され、活用されているものもある。本稿では、発掘庭園の様相、保存整備や維持管理の状況、活用のあり方などの視点に基づいて紹介したい。

一乗谷朝倉氏遺跡朝倉館跡庭園

この時代の発掘庭園として最初に調査され、注目されたのは、福井県福井市にある特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡朝倉館跡の庭園遺構で、1968年のことであった。土砂崩れのため厚く堆積した土の中から、完全に埋もれていた館跡とそれに伴う石組の見事な庭園遺構が確認された。建物と庭園との関係も把握でき、学術的価値は極めて高いものとされた(藤原 1990)。

 

一乗谷は、戦国大名の朝倉氏が天正元(1573)年までの約100年間、越前国の首府とした戦国城下町である。朝倉氏館跡は、最後の当主・義景の館跡で、山裾を削って造成した最奥部に園池が設けられていた。上の斜面に石組導水路があり、水はそこから三段の滝へと注ぐ。山裾に位置する園池は長さ約18m、幅1.5~3m、水深0.2mで底部には扁平な河原石を敷き詰めている。河原石は赤や黄等彩りが豊かである。園池周囲の汀線は大小さまざまな石を横に並べて護岸とし、山裾側には大ぶりな石を使う(写真1)。石橋片や飛石の存在から、園池から導水路にかけて回遊できたことがわかる。小座敷と泉殿とされる建物が取りつき、主にここから観賞したと考えられる。小座敷、泉殿及びその北側の会所に囲まれた東西約18m、南北約9mの空間には中庭がある。中庭西寄りには石列で区画された花壇があり、中庭の東、塀で区画された小座敷との間は、数個の石を据えた枯山水がある。園池の排水路は小座敷と泉殿との間を通って枯山水のところで石に囲われた蹲踞様石組があり、茶庭の表坪の萌芽である流れ蹲踞と考えられている。

写真1 朝倉氏館跡の庭園(撮影:筆者)

発掘された庭園遺構は、保存状態が良好であったことから現地でそのまま整備された。現在、建物跡の上に仮設床を設け、戦国期に近い庭園観賞をすることができる(藤田 2018)。また、2021年オープンした一乗谷朝倉氏遺跡博物館内には、会所、中庭、小座敷、山裾の園池までの部分が原寸大で復元されており、建物から庭園がどのように見えたか、実感することができる(写真2)。庭園遺構の保存活用の一例として参考にすべき事例である。

写真2 博物館内に復元された建物と庭園(撮影:筆者)

江馬氏館跡庭園

岐阜県飛騨市神岡町殿にある史跡江馬氏館跡下館跡は、発掘調査によって中世武家の館跡と庭園の様相が明らかとなり、整備活用された好例である。この地は、古くから水田中に大きな五つの景石が遺り、江馬の殿様の庭石であると言い伝えられてきた。1974年には庭園研究者の森蘊らが立石の実測調査を行った(森 1975)。その後、1993年から発掘調査、2000年からの保存整備事業を経て、2007年に史跡江馬氏館跡公園として公開が始まり現在に至っている(大平 2007)。庭園は、会所から眺める鑑賞式庭園で、堀内地区の南西隅に位置し、南と西は復元土塀で囲まれている。園池は、景石を横に並べて護岸とし、東西約27m、南北約12mの不整楕円形を呈する。中央やや西寄りに中島が、その北西側には大ぶりの景石を立てた二つの岩島がある。池底に水を溜めた形跡はなく、導排水路もないことから、常時水を溜めた池ではなかったとされる。発掘調査では、原位置を保っていた景石もあったが、ほとんどが近世以降の耕作で移動していた(写真3)。整備に使用した石材は、できるだけ発掘調査によって出土した石を使用し、新たな石を搬入したのは、劣化が著しい石等ごく一部であった。庭園とそれを眺める建物(会所)、周囲の土塀が発掘調査成果に基づいて忠実に復元整備され、当時の人と同じ眺望を楽しめる(写真4)唯一の史跡・名勝として貴重である。

写真3 江馬氏館跡庭園の発掘状況(提供:飛騨市教育委員会)

写真4 江馬氏館跡庭園の整備状況(撮影:筆者)

大内氏館跡庭園

大内氏館跡は、山口県山口市の市街地に所在する。大内氏が館を築いたのは1400年頃で、弘治3(1557)年、毛利氏に滅ぼされるまでの約150年間の居館跡である。館跡は一辺約160mの方形で変遷が4段階確認された。四つ確認された庭園遺構のうち、整備されて見ることができる二つを紹介する(北島 2010)。館の南東部に位置する2号庭園は、大内氏館の最盛期である15世紀末~16世紀中頃に機能したもので、南北約40m、東西約20m、深さ約1m、中央に中島をもつ池泉観賞式庭園である(写真5)。西方にあったと考えられる鑑賞建物は確認されていない。周囲の護岸は、石積の北岸を除けば大ぶりの石を横並びにする。規模も大きく、造形上の価値も高い。盛土で保護し、その上に復元整備されて見ることができる(写真6)。

写真5 大内氏館跡の園池発掘状況(提供:山口市教育委員会)

写真6 大内氏館跡の園池整備状況(提供:山口市教育委員会)

3号庭園は、館跡の北西部に位置する。16世紀前半~中頃のもので、南北約12m、東西5m以上、大ぶりの石を組んだ滝石組をもつ鑑賞式の枯山水庭園である。隣接する東側には観賞した礎石建物跡が確認されている。保存状態が良好であり、発掘された石をそのまま修復し復元整備されたものを見ることができる(写真7)。このように、大内氏館跡庭園では、盛土保護の上、園池を復元整備した2号庭園と、最小限の修復をした上で石組の現物を見せる3号庭園という違った手法で保存整備した庭園を見ることができる。

写真7 大内氏館跡枯山水庭園(提供:山口市教育委員会)

史跡足利学校跡庭園

次に、近世の事例であるが、庭園遺構の発掘調査、保存整備、そしてその後の維持管理の好例と考えられる史跡足利学校跡庭園を紹介する(足利市教育委員会 1992)。

 

栃木県足利市にある史跡足利学校跡は、江戸時代に建てられた方丈の南と北それぞれに園池をもつ庭園があった。幸いにも江戸時代中期の絵図に庭園の俯瞰図が描かれ、方丈との位置関係を頼りに園池遺構を発掘することができた。北池は絵図に近い形だったが、南池は絵図に描かれたものとかなり違う形状で、絵図の記述を過信すべきではないことを学んだ。北池の発掘調査では、4期の変遷を確認した。庭園遺構は堆積したヘドロの浚渫等で改修されるのが当たり前で、面で細心の注意を払い発掘調査する必要がある。北池の改修は、南側の護岸を埋める、中島に石組を行ってその横を深掘りする、北側の入江を石組で塞ぐ等が行われていた(図1)。

図1 足利学校北庭園の変遷(出典:足利市教育委員会1992)

史跡足利学校跡の北庭園は、発掘調査後埋め戻され、その上に絵図の姿を参考にして第3期の庭園が復元されている。保存整備されて30年以上を経て、一時期は植栽管理が不十分であったが、現在は管理が行き届き、景石や樹木も景観になじみ古くからの庭園のように落ち着いた雰囲気を醸し出している(写真8)。

写真8 史跡足利学校跡北庭園の整備状況(撮影:筆者)

小田原城跡御用米曲輪検出の庭園遺構

最後に、近年の発掘庭園で最も印象深く、これから保存整備が予定されている小田原城御用米曲輪検出の戦国時代庭園遺構について述べる。

 

この遺構は、近世小田原城本丸の北側に位置する御用米曲輪の発掘調査において、近世米蔵の下層から検出された(佐々木 2015)。16世紀後半の中世小田原城に関係する二つの園池と一つの切石敷遺構である。二つの園池は、敷地南東端、本丸曲輪の裾に位置する。上段の園池は、四角い切石を小規模な楕円形に並べて護岸とし、一段低い内部に円礫と砂利を敷き詰め、周囲に景石を立てる(写真9)。

写真9 小田原城跡戦国時代の上段園池(撮影:筆者)

ここで湧いた水は敷石を伝わり下段の園池へ注ぐ。下段の園池は、安山岩製の石塔部材を二次加工してのり面に貼り付け、複雑に屈曲した護岸をもつ。地表面を2m程度掘り下げて造ったもので、外周70m以上と大規模である。敷地全体の水を溜める調整池の役割も果たしたであろう。護岸のり面に貼られた石の傾斜は約30度で、洲浜を意識している。切石敷遺構は、最も大型の14号礎石建物跡に沿うように造られる。石は鎌倉石(凝灰岩質左岸)、風祭石(溶結凝灰岩)、安山岩をモザイク模様のように不規則に組み合わせ、彩豊かである。規模は、東西6.1m、南北12.3m程と考えられる。中央には泉として使用された石積の円形坑があり、その横には加工した14世紀の安山岩製板碑が立てられていた(写真10)。他に類を見ない切石敷遺構や石塔の利用等、戦国時代庭園の多様性を表すと共に、小田原北条氏の文化レベルの高さを如実に示すものとして、庭園史上極めて重要な遺構である。

写真10 小田原城跡戦国時代の石敷遺構(撮影:筆者)

今後の保存整備が期待されるが、前述した整備事例を見ると、建物からの眺望、すなわちその庭園を眺めた視点の確保が重要と考える。建物復元が費用面や維持管理面から困難であるとすれば、一乗谷朝倉氏館跡のように床面の高さを確保する等工夫が必要であろう。また、現物を露出展示するか、埋め戻した上に復元整備するか、前者では遺構の損傷が懸念され、後者では遺構は保護されるが、真実性や臨場感が薄れることは否めず、悩ましい。上に覆屋を建てその中で露出展示するということも一案であろう。いずれにしても唯一無二の庭園遺構であり、特徴を最大限に活かした保存整備になるよう期待したい。

まとめ

室町時代から江戸時代にかけての城館跡等の発掘庭園について、発掘調査、保存整備、その後の維持管理、見せ方等の観点から事例をとりあげて紹介した。庭園は、城館の中で館主が来客をもてなす場に設けられ、主の文化レベルを示す重要な施設であった。保存整備する際にも当然、華となる遺構であり、庭園整備の成否がその活用に大きな影響を与えることもある。せっかく保存整備するのだから、歴史性や芸術性が感じられ、現代に生きた庭園として活用されるようになって欲しい。整備した後も植栽管理を怠らず、景観になじんだ美しい庭園が保たれることを願っている。

引用・参考文献
足利市教育委員会 1992:『史跡足利学校跡保存整備報告書』、足利市教育委員会
大平愛子 2010:『史跡江馬氏館跡下館跡地区整備工場報告書』、飛騨市教育委員会
大平愛子 1998:「江馬氏館跡庭園遺構」、『発掘庭園資料』、奈良国立文化財研究所
北島大輔 2010:『大内氏館跡Ⅺ』、山口市教育委員会
佐々木健策 2015:「史跡小田原城跡 御用米曲輪検出の庭園について」、『戦国時代の城館の庭園』、奈良文化財研究所
藤田若菜 2018:「戦国城下町一乗谷の庭園群」、『平成30年度日本庭園学会全国大会シンポジュウム・研究発表資料集』、日本庭園学会
藤原武二 1990:「朝倉氏一乗谷の庭園遺跡」、『佛教藝術』192号、毎日新聞社
森蘊 1975:『庭園の旅』、芸艸堂

公開日:2023年11月29日最終更新日:2024年3月1日

大澤 伸啓おおさわ のぶひろ日本庭園学会会長

昭和34年10月4日 栃木県足利市生まれ 明治大学文学部史学地理学科考古学専攻を卒業後、故郷の足利市教育委員会に就職し、史跡足利学校跡の保存整備や史跡樺崎寺跡の発掘調査、史跡指定、保存整備等にたずさわる。史跡足利学校事務所長で定年退職後、現在、同学芸員として資料の保存、活用に取り組む。立正大学非常勤講師としても教鞭をとる。役職:日本庭園学会会長、栃木県考古学会副会長