考古学
名勝庭園の発掘-鹿苑寺(金閣寺)南池跡の調査-
調査前の鹿苑寺(金閣寺)南池跡(撮影:筆者)
はじめに
京都には歴史的・文化的価値の高い名勝庭園が数多く存在する。こうした庭園を維持し、さらに未来に引き継ぐためには日常の管理と定期的な修復工事が不可欠である。京都市では名勝庭園の修理に際し、その価値を失わないよう科学的根拠に基づいて修復を行うための修理検討委員会が設けられている。委員会は、庭園に関連した有識者が中心となり、庭園の所有者、行政担当者、施工管理者、考古学調査担当者などから組織される。修理計画の策定においては、その庭園に関する文献資料、絵画資料、過去の修理記録など様々なデータが集積され、当初のものに近い材料と方法によって、本来の景観に戻すことが計画される。ただ、庭園は文献資料や絵画資料に乏しい場合が多い。そうした中で考古学的手法(発掘)によって得た情報が重要な位置を占めている。当初の景観が残されているとされる庭園においても、調査によって思いもよらない履歴が明らかになることがある。ここでは鹿苑寺(金閣寺)南池跡の調査を例に挙げ、庭園調査における考古学的調査の成果や限界点について触れてみたいと思う。
鹿苑寺(金閣寺)南池跡の調査
1)南池跡とは
鹿苑寺は室町幕府三代将軍足利義満の北山殿を踏襲したものである。北山殿は応永4年(1397)西園寺家から別荘を譲り受けた義満が造営をはじめたもので室町幕府の政治中枢のすべてが集約されていた。義満の死後その遺言により、応永27年(1420)頃に鹿苑寺となる。応仁・文明の乱(1467~1477)の際には、西軍の陣となり荒廃が進んだが、江戸時代になって多くの建物が再建され、現在に至っている。
この鹿苑寺境内の南端、金閣の南面に広がる鏡湖池のさらに南側に「南池跡」と呼ばれる空間がある。堤状の高まりに囲まれた水の無い池状の空間地で、東西最大長76m、南北最大長45m、面積約2300㎡の広大な規模を有している。ここは長らく庭園管理のバックヤードとして使用され、木々の合間に機材や材料の置き場が設けられていた。近年、鹿苑寺は増大する参拝者に対し、参拝路の再整備の必要性を感じていた。そこで、南池の一部に迂回路を設け、合わせて南池跡も整備し、公開する計画を立案した。それに伴い「特別史跡・特別名勝鹿苑寺(金閣寺)南池跡保存活用検討委員会」が結成され、南池跡の性格と遺構の状態を確認するための考古学的調査が公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の担当で行われた。
2)水のない池
調査は文献資料の収集から行われたが、南池跡についての資料は乏しく、近世の絵図に描かれたものが数点存在した。その一つには北側の鏡湖池と繋がった南池が表現され、その境に橋が描かれていた。また別の一つには南池跡と推定される部分が薄い水色で示され、中島と思しきものが記されていた。こうした資料から南池跡は園池の跡と推定された。調査前の現状確認でも、堤に囲まれた中に平坦面が広がりその中に中島と推定される高まりも認められたため、その仮定は覆らなかった。
写真1 平坦面、表土直下で検出された黄褐色土層(提供:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)
調査は対象地が広大なためトレンチ調査を主体とし、周囲の堤、中央の平坦面、中島状の高まりをつなぐ幅2mのトレンチを東西・南北方向に設けて開始した。そして調査開始後まもなく中央の平坦面部分で意外な事実が明らかとなった。現代の表土を剥ぐとすぐに比較的乾燥した黄褐色の土層が検出されたのである(写真1)。通常園池の池底であれば漏水を防ぐための粘土層、あるいは水性堆積の砂や粘土層が存在するがここには存在しなかった。さらに、堤や中島状の高まりにおいても、園池であれば存在するはずの州浜や護岸施設あるいは景石などの意匠の痕跡も認められなかった。つまりこの南池跡には水を張った園池の痕跡が認められなかったのである。
写真2 下部堤上面で検出された杭跡(提供:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)
3)嵩上げされた堤
一方、平坦面を取り囲む東西および南の堤は、底部からおよそ2mの高さがあり、鏡湖池との境にある北側の堤(中堤)に比べて高いことが指摘されていた。そのため東と南の堤を断ち割って土層の堆積状況を調査することとなった。断ち割り調査は遺構の履歴や構築法を知るためには有効な方法であるが、遺構の破壊を伴う行為であるため最小限とした。この調査でもまた、新たな事実が判明した。
東堤では、堤の中ほどを境に上部と下部の土層堆積に違いが認められた。ただ、この違いが、一連の工事の中での工程の差であるのか、あるいは時期の異なる工事によるものなのかその時点では分からなかった。しかし、南堤の調査で、下部堤の上面から打ち込まれた杭跡が発見され(写真2)、さらに上堤の構築土からは15世紀後半のものと考えられる陶器片が出土した。つまり、堤の上下は時期が異なるもので、下部の堤は15世紀後半以前に構築され一定期間その状態で機能しており、その後15世紀後半以降に上部が積み上げられて現在の堤の形状となったことが判明したのである。
15世紀後半といえば、京都中を揺るがした応仁・文明の乱のあった時期である。冒頭でも記したが、鹿苑寺もこの戦いに巻き込まれ、戦場となった記録が残されている。園池の堤としては異様に高い形状も、軍事的な目的として改築されたと考えれば納得がいく。この時期南池跡は防御用の土塁として堤が嵩上げされ、臨時の城塞として利用されたのではないかと推定された。
4)建物跡の発見
北東部のトレンチでは、礎石と思われるものが1基見つかった。この部分は平坦面より一段高く、下部の堤と同じ高さの高台となっていた。見つかった礎石の性格を明らかにするために、この付近の調査区を拡張して調査を行った。その結果、小型の礎石建物1棟とさらにこの建物の北東部にも別の建物が存在することが確認された(写真3)。発見された小型の礎石建物は東西5.4m、南北6mの規模で東側に縁が付いていた。礎石の大半には自然石が用いられていたが、建物の東側柱列と縁の礎石は一辺30cm方形に切り出された花崗岩製であった。礎石の四隅には面取りが施され丁寧な仕上げとなっていた。さらに建物の東側には三和土が広がり、庭と推定された。三和土は目の細かい砂質の土を叩き締めたもので、表面は極めて平滑に仕上げられていた。
写真3 北東部高台で検出された礎石建物(提供:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)
建物に用いられた切り石の礎石や三和土の状態から、これらは重要な施設の一部であったと思われる。建物のある高台は南池跡と鏡湖との境に東側から張り出す岬状となっており、金閣を望むには最適な位置と考えられた。
5)南池跡の構築年代
これまでの調査によって南池跡に関連する遺構群は堤が15世紀後半以降に嵩上げされた以外は、ほぼ同時に構築されたものであることが分かってきた。しかしながらこの造営がいつ、どのようになされたかについてははっきりしなかった。そこでこの問題を解決するため平坦面の中央部に断ち割りトレンチを設けて造営の時期や規模を探る調査を行った(写真4)。
写真4 平坦面断ち割りで検出された造成土(提供:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)
この調査では平坦面の基盤となる造成土から多くの土器が見つかり、その土器の年代から造成が室町時代中期(14世紀末)に行われたことが判明した。またこの造成は、北から延びる谷状地形を埋め立てて行われたもので、北(山側)から南方向へ造成土を斜めに落とし込み、最終的に上面を平らに整え、その上に堤や中島などの遺構が配置されていた。造成土は厚いところで2.7mに及び、きわめて大規模な造成が行われたことを示している。
この室町時代中期(14世紀末)はまさに足利義満が北山殿を造営した時期に当たり、造成の規模の点からも北山殿にふさわしいものと言える。これで南池跡関連の遺構が北山殿の遺構であることが証明された。
まとめ
一連の調査によって、南池跡は北山殿の遺構であることが明らかとなり、さらに、応仁・文明の乱に際しては軍事的な拠点として利用されたことも明らかにすることができた。考古学的調査としては大きな成果を上げることができたといえる。しかし一方で、南池跡の性格については明確にできなかった。南池跡は庭園的な空間としての形状は整えられているものの、水を張った痕跡がなく、州浜や景石を据えた痕跡も見当たらなかった。園池としては機能していなかったと推定されるのである。では一体どのような性格であったのか。
ここで、北山殿の歴史を振り返ると、北山殿は応永4年(1397)から造営が始まり、応永15年(1408)に後小松天皇行幸を迎えたころが繁栄のピークで、同年に義満が急死してからは急速に衰退したと思われる。その間わずか11年であった。本来、義満は北山殿をさらに発展させるつもりでいたはずである。とすれば、北山殿にはまだ整備予定の部分があったのではないか。それが南池で、未整備のまま残された「未完の庭園」であったというのが調査で導き出された仮説である。この説には異論もあり、考古学的手法の限界が垣間見られた調査でもあった。
整備については「特別史跡・特別名勝鹿苑寺(金閣寺)南池跡保存活用検討委員会」により検討され、中央の平坦部については樹木を伐採し、苔を貼って水のない池を表現する整備が行われた(写真5)。また応仁・文明期に嵩上げされたと推定される堤も鹿苑寺の歴史的変遷を伝える重要な遺構であることが評価され、そのままの状態で残されることになった。この事により、整備された「南池跡」は、現在北山殿と応仁・文明期の遺構が重なり合った景観となっている。
写真5 苔庭として整備された南池跡(撮影:筆者)
公開日:2023年11月20日