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考古学

庭園の遺跡における着眼点

今江 秀史 / Hidefumi Imae

京都市文化市民局元離宮二条城事務所

写真1 平城宮東院庭園(奈良県奈良市 撮影:筆者)。発掘調査で検出された遺構を保護した上部に築造された庭園。いわば実物大の復元模型である。

はじめに

発掘調査の記録と史料で裏付けられる範囲において、いわゆる「庭園」は、奈良時代から築造されてきたことが立証されている(写真1)。平安時代に築かれた庭園は、岩手県西磐井郡平泉町の毛越寺や京都府宇治市の平等院などで改修を経ながら継承されている。室町時代以前、庭園を所有することができたのは、身分が高い貴族や武士、僧など一部の人々であった。よって庭園が検出される土地は、貴族や武士の住まい跡、寺社の境内を含む施設跡などに限られてくる。

 

江戸時代までの庭園は、高度な文芸活動や饗宴、芸能に伴って使われるものであった。庭園づくりには、各時代における最高レベルの経済力と文化力による下支えが不可欠であった。引いては遺跡の分布が都市など特定の地域に限られることになり、遺跡が検出される機会も希となる。それゆえに考古学における庭園への関心は高いといえないのが実情である。

 

住まい跡の発掘調査において、建物や工作物などと庭園は、住まいを成り立たせる同じ一つのまとまりである。検出する事例が少ないからといって、建物などと区別する理由はない。万が一、庭園を遺跡としてはっきりと認識せず、発掘調査の対象として見落しているという状況があるとしよう。それならば、自覚がなく価値がある遺跡を検出し損ね、破壊している事態が招かれているかもしれない。

 

庭園の遺跡について知る上では、まず「庭園」と「庭」の違いを明確にしておくことが肝要である。発掘調査で検出される寺社境内や住まいでは、ほぼ下記のような「庭」と「庭園」の入れ子構造が見られる。『時代別国語大辞典上代編』1)によると、上代において「池や築山のある庭園」は「しま[嶋・山斎]」と称されていた。また「庭園。技巧的に造られたシマと違って、もっぱら草木や野菜などを植える場所」のことを「その[園]」と言った。そして「には[庭]」は、「1:事を行なうための場所。2:家屋の前後の空地。庭。3:広い水面。海面」を意味した。現代で言うところの「庭園」とは、上代の「嶋・山斎」と「園」を含んでいる。そして庭園は「事を行なうための場所」である「庭」に包含されている。

 

発掘調査を通して「庭園」と係わる場合には、こうした「庭」との入れ子構造について理解しておくことが重要である。本稿では、平安時代の京都における寝殿造住宅の「庭」の分析を通して、庭園学の立場から、発掘調査により「庭園」を検出する上での着眼点について概説する。

京都における平安時代の庭園遺構の発掘事情

これまでの発掘調査では、寝殿造住宅が完全な形で検出されることはなかった。平安京跡でいうとそれは、平安時代いらいの遺跡が現行の京都の市街地と重なっているからである。平安時代に寝殿造住宅が数多く建てられた平安京跡の位置には、鎌倉時代〜室町時代〜江戸時代〜近代と、長期にわたって繰り返し庭や建物が築かれてきた。現在も平安京跡の上部は、ほぼ何らかの施設か住宅などで埋め尽くされている。したがって一町規模(約120メートル四方)もあった高級貴族の宅地の全面を掘ることなどは、現実的に不可能である。また同じ土地に長年人々が住み続けてきたことで、平安時代の遺構面には、土取りやゴミ捨てのための土壙などによる撹乱が数多くみられる(写真2)。土層の重なりは複雑であり、容易に年代を定めることもできない。現時点では数多くの発掘調査の記録が蓄積されながらも、寝殿造住宅の全体像を把握できていないのが、実情である。

写真2 平安宮内酒殿・釜所・侍従所跡(京都市埋蔵文化財研究所編集・発行『平成7年度 京都市埋蔵文化財調査概要』1997)。平安時代以降、現代まで人々が定住し続けてきた結果、各時期ごとの手が加えられ、遺構の残りは必ずしも良くない。本写真では、土壙を数多く認めることができる。

寝殿造住宅の庭園については、京都市立西京高校の建設に伴う発掘調査2)により、全面的に園池が検出された(写真3)。その広大な池は、出土した墨書土器への書き込みから、齋宮に関わる屋敷に伴うものであると推定されている。9世紀後半に築造された後には、数十年にわたり存続したものと考えられている。

 

寝殿造住宅で検出される池は、広大な宅地の敷地に応じて大規模なものが多かった。園池の大きさと位置は、一定ではなかった。それは取水が湧き水であるか流水を引き入れるかといった立地条件の影響を受けていたからである。さらに離宮・別業となると、敷地規模は飛躍的に大きくなり、鳥羽離宮跡(京都市伏見区)などの敷地は約百八十町(180万平方メートル)に及んだという(写真4)。その跡地では、自然の河川を堰き止めて築いた池を持つ広大な庭園の一部が検出されてきた3)

写真3 平安京右京三条二坊十五町・十六町跡発掘調査(京都市埋蔵文化財研究所編集・発行『京都市埋蔵文化財研究所調査報告第21冊』2002)。ゆるやかな曲線を描く園池の汀と窪みが認められる。護岸には、小礫が打たれ、洲浜となっている。

写真4 鳥羽離宮跡復元模型(村井康彦編『よみがえる平安京』淡交社 1995)。鳥羽離宮はさながら庭園都市であり、豊富な水を利用して大小の園池が築かれた。

図1 平安京右・左京六条一坊跡跡発掘調査(京都市埋蔵文化財研究所編集・発行『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2002-6』2002)。一般的に寝殿造住宅の平面形は、浜田名垂『家屋雑考』(1842 自序)の挿図などにより、左右対称の建築群の前方に広い空地があり、さらにその奥へ園池が築かれるといった構図が印象づけられている。しかし、発掘調査の結果によれば、同住宅はそのように画一的に設けられるものではなかったことが知られる。

これらの遺跡において検出される庭園は、その全体からいえば、ほんの僅かでしかない。たとえ宅地開発や集合住宅など規模の大きい発掘調査区が確保できたとしても、寝殿造住宅の一部分である庭園が、都合よく調査区に収まるかたちで検出されることもない(図1)。先述した斎宮に関わる屋敷のように全面的に池が検出された事例は、奇跡的であったといってもよい。多くの場合は、庭池の護岸の一端が見つかる程度に留まる。しかも庭園は、建物と一体なので、建物跡の用途と併せて検討できなければ、意味を明らかにすることができない。これまで庭園に関わるとされる遺構は、かなり検出されてきた。しかし築造されたことの意味は不明瞭であることが大半である4)

 

以上述べてきたように発掘調査によって検出された遺跡だけでは、庭園の実態や役割を分析することが困難である。したがって、庭園の遺跡に係わる場合は、古代の住環境についての前知識を得ておくことが求められる。

寝殿造住宅における庭園の位置付け

平安時代の寝殿造住宅において、庭園は施設の中核といえるものではなかった。庭園の主な役割は宴遊の背景であり、庭池は楽団を乗せる舟を浮かべるためにあった。庭池の中島には大型の楽器が置かれていた(図2)。なお、実用の為にあった庭園が鑑賞を主として築かれるようになったのは、室町時代以降である。

図2 『年中行事絵巻』舞御覧・部分(国立国会図書館蔵)。平安時代の寝殿造住宅の実情を最も鮮やかに示しているといえるのが、本図である。描かれているのは、院御所(法住寺殿)の寝殿とその南庭(大庭)である。寝殿の階(きざはし)の前側の大庭には、舞人が立ち、周囲には官人や衛士が取り巻く。絵の中心に大庭があり、島が下端にある構図からみて、平安時代にどちらが重要視されていたかを知ることができる。

図3 寝殿造住宅概念図(今江秀史『京都発・庭の歴史』 世界思想社、2020)。寝殿造住宅の庭は、規模や住人の官位に関わらず、大庭・坪・屋戸さらには島から構成される。前掲の3種の庭は、日常の生活、儀式に欠かせなかった。それに対して、島は富裕な高級貴族だけが所有できる施設であり、儀式等に彩りを与えるものであった。

寝殿造住宅の庭は、4種から構成されていると考えれば分かりやすい5)(図3)。同住宅においてもっとも重視された庭は、寝殿と呼ばれる主屋に築かれた平坦な土地であった。その地は「大庭(おおば)」と呼ばれる最も公のハレの庭であり、儀式や舞楽、さらには闘鶏、相撲などが行われる、今でいうところの多目的広場であった。平安時代には電灯や空調設備などがなかった。そのため、密集した建物と渡廊との間に採光と通風を促す「坪」が築かれた。その用途は私的な催事であった。さらに宅地を囲う塀と建物・渡廊との間の余地は、「屋戸(やと)」と呼ばれ、馬場や弓場などとして用いられた。そして平安時代における庭園は「島」などと称された。

 

寝殿造住宅の跡を発掘調査すれば、建物や塀などと共にこれらの庭も検出されていることになる。そもそも庭は、住環境の用途に幅を与えつつ、快適性を保つ、宅地内の間(ま)なのである。宅地は庭がなくても成り立つが、間がなければ自由度と心地よさに欠けることになる。発掘調査で検出される遺跡として「大庭・坪・屋戸」といった庭は、顕著な形態が見られるわけではない。ほとんどの場合は識別すらできないであろう。しかしその存在を無視すると、住宅の遺跡の用途や機能の分析としては、不十分になりかねないのである。

庭園の遺跡に対する着眼点と実際の庭に親しむことの意義

前述の3種の庭と比べれば、庭園(島)は遺跡として識別しやすい。しかし、 自然の堆積層あるいは地形などと庭園の形態との違いは、造りが自然であり、材料も自然のものが使われているため、よほどの経験がなければ見分けられないという。つまり大庭・坪・屋戸と庭園(島)は、遺跡として検出される可能性をあらかじめ念頭に置いておかなければ、それが記録や保存の対象であったとしても、検出し損ねている可能性がある。それは文化財の保護としての損失であるだけではなく、広く学術的にも、手落ちと見なされるおそれもある。

 

庭園の構成は、池と築山を基本とする。池には、中嶋が浮かび、橋が架けられ、汀には護岸が築かれる。平安時代の庭園の護岸は、多くの場合で洲浜の意匠となっていた。洲浜の中には、特徴的な大ぶりの石(景石)が据えられ、護岸から離れた箇所にポツンと岩嶋が打たれている場合がある。池には鑓水(流路)が接続している場合がある。

 

築山は、池を穿った後に掘り出された土を使って築かれていることが多い。すなわち築山の土は、周囲の堆積土と同様であるため、混同されてしまう可能性がある。景石や岩嶋、築山は地表より突出しているため、宅地の廃絶後、土地が他の用途に転用される際に抜き取られたり、削平されている場合が多い。景石の場合は抜き取り穴や根固め石などから、その跡について類推することができる。しかし、築山の高さや造形については建物と同じ様に推定の範囲を出ない。庭園の地形にいたっては、盛土であれば作為として識別できるが、切土で造形されている場合は、地山と見分けがつかない場合もある。

図4 醍醐寺三宝院庭園平面図(京都府蔵)。醍醐寺三宝院庭園の平成期の修理に伴って行われた発掘調査では、現在の園池の背面から、室町時代に同寺の住居であった金剛輪院のものとみられる護岸の跡が検出された。金剛輪院の庭がいかなるものであったかは、不明である。一方、三宝院の平面形は、寝殿の東脇に遣水状の流路があり、表書院と純浄観の南西には、奥行きが限られているものの、大庭が設けられている。庭園の池が深く、護岸石が屹立する姿は、平安時代の園池とは大きく異なる。しかし、構成だけをみれば、寝殿造住宅との類似点は少なくない。

遺跡として検出される庭園には、その他の遺跡とは異なる特徴がある。それは、決して分かり易いものではないため、実際に庭園が検出される現場に立ち会わなければ実感できないかもしれない。したがって、勧修寺庭園や醍醐寺三宝院庭園(図4)(ともに京都府京都市)などの寝殿造住宅を踏襲していると伝わる現行の庭園や平等院庭園(同宇治市)といった復元整備された庭園を実際に見て親しむなどして、目を慣らしておくことが有効的である。そうすることによって、滝(写真5)や護岸・岩嶋(写真6)、遣水(写真7)といった庭園を構成する部位が如何なるものであるかの遺跡における識別が促されることになるであろう。

写真5 滝(法金剛院 撮影:筆者)

写真6 護岸・岩嶋(天龍寺 撮影:筆者)

写真7 遣水(毛越寺 出典:平泉の文化遺産 https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/heritage/asset/motsuji.html)

おわりに

筆者は考古学の門外漢であり、発掘調査をすることはできない。しかし幸運にも、名勝庭園の修理や史跡の許認可の行政に携わることにより数多くの発掘調査の現場の立ち会いを経験した。調査の担当者の方々からも多くのことを学び、議論や意見を交わしてきた。また庭園学に関心を持ち、研究を行っている考古学者の知人も少なくない。本稿を通して、庭園が遺跡としてはっきりと認識されていないことによる問題点を指摘することは、本意ではない。むしろこれまで庭園の研究者側が、庭園への理解を考古学者側に促す努力を欠いてきたことを反省し、考古学における庭への理解の促進に努めていくことが求められる。


1)上代語辞典編集委員会(編)『時代別国語大辞典上代編』、三省堂、1994年
2)財団法人京都市埋蔵文化財研究所(編)『京都埋蔵文化財研究所発掘調査報告2012-14 平安京右京二条三坊十五・十六町跡』、2013年
3)前田義明「鳥羽離宮の建築と庭園」『日本庭園学会誌』6号、1998年、pp.59-68
4)今江秀史「平安京域における庭の遺跡分布」『日本庭園学会誌』18号、2007年、pp.79-92
5)今江秀史「遺構からみた平安期の庭」『王朝文化と建築・庭園』、竹林舎、2007年;今江秀史『京都発・庭の歴史』、世界思想社、2020年

今江 秀史いまえ ひでふみ京都市文化市民局元離宮二条城事務所

京都造形芸術大学修士課程修了。大阪大学大学院人間化学研究科博士後期過程修了。人間科学博士。
専門は、庭の歴史や仕組み・修理・維持管理、庭仕事の実践、露地、現象学的質的研究。現在は、近世の二条城と近代の二条離宮の歴史調査に従事し、主に寛永期以降から幕末まで二条城に居住した二条在番の実態や徳川家茂の滞在について調査を行なっている。

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