考古学
王朝時代アコリスの手工業
岩山南側の河岸段丘上に拡がるアコリス遺跡の「南区」(写真1)では、2002年に開始した発掘調査によって、庶民層が暮らした集落址が発見された。集落の活動時期は前12~前7世紀頃、古代エジプトの時代区分では第3中間期を中心とする新王国時代末から末期王朝時代にあたる。南区に暮らした庶民層の主たる生業は農業と漁業であったと考えられるが、同時に集落内ではさまざまな手工品を製作していたことが明らかとなっている。以下では、その手工業生産に関わる資料を紹介する。
写真1 アコリス遺跡南区を南より望む 撮影:著者(以下同)
ガラス・ファイアンス製ビーズの製作
南区の南端上方の段丘面に掘削された後代の岩掘墓から流出した分も含めると、毎年の発掘調査で数百点、多いシーズンには1,500点以上のガラス製やファイアンス製のビーズが出土しており、これまでの出土数は17,000点を超える(写真2)。これらはネックレスやブレスレットなどの製品の紐が切れて、一帯にビーズが散乱したものと考えられる。ガラス製造技術は第18王朝のトトメス3世治世に西アジアから伝えられ、エジプトへの導入当初は王都級の官営工房でのみ生産されていたと推察される。それから数百年経った第3中間期には、アコリスのような地方集落にもその技術が到達していた。ただし、アコリス遺跡におけるガラス技術は、珪砂やソーダ灰などの原材料からガラス自体を作り出すのではなく、他所で作られたガラス塊またはガラス棒を使って製品を作るものだった。南区では、直径0.3cmほどのさまざまな色相のガラス棒に加えて、2点のガラス製ビーズの未成品が出土している。南区で出土するガラス製ビーズの一般的な製作技法は、離型剤を塗布した青銅製の心棒に融けたガラス棒を巻き付けて成形する方法であったが、出土した未成品は心棒にガラスが融着してしまったために廃棄された※1 。
また、ファイアンス製ビーズの製作が行われていたことを示す遺物も出土している※2。元来は同一製品であったと思われる二つに割れた土製の開放(鋳)型がそれであり、大きさはそれぞれ16.8cm×9.5cmと13.4cm×5.8cmである(写真3)。その形状は、鉢形の容器に粘土を詰めて整形したような円錐形をしており、中心付近の最大の厚さは5cmほどを測る。平坦な表面には花文形の窪みが40個ほど並んでいる。他遺跡で出土する花文形ビーズの鋳型の多くは、直径3~4cm、厚さ1cmほどの円盤状であり、一つの鋳型に一つの窪みしか持っていない。この点で南区出土の型とは大きく異なっており、本品は花文形ビーズの原形を大量生産するためのものだったのだろう。
写真2 ガラス、ファイアンス、骨製ビーズを配したブレスレット
写真3 花文形ビーズの開放(鋳)型片
ファイアンス製神像の鋳型
南区では600点以上の護符も出土しており、そのうちの8割ほどがファイアンス製である。ウジャト眼とスカラベに次いで、ベスやパタイコスといった家庭を守護する神々を象った護符が多く出土していることは、庶民層の願いが現世利益的であったことを窺わせる(写真4)。通常、護符は各地の神殿付属の工房で作られていたため、南区出土の全ての護符が集落内で製作されたとは考えにくいものの、南区でも2点の神像用の鋳型が出土している。
これらの土製の開放鋳型には、細部まで丁寧に表現された女神の立像が陰刻されている(写真5)。一つの鋳型はほぼ完形であり、高さ9.3cm、幅4.1 cm、奥行3.2cmを測る。もう一方は上方の冠部分が欠損しているため、高さは6.3 cmと低いが、幅と奥行きの数値はほぼ等しく、女神像の造形も似ていることから、同じ神像を転写した鋳型の可能性がある。両者ともに雌ライオンの頭部を持つ女神であり、左手にアンク(生命のシンボル)を握っている。ウラエウス(王権の守護聖蛇)が付く赤白の二重冠を被っていることから、ムト女神あるいはバステト女神、セクメト女神を象っていると考えられる。なお、これらの鋳型で作られたと考えられる神像はこれまで出土していない。
写真4 ベス神のファイアンス製護符
写真5 ファイアンス製神像用の開放鋳型
土器の製作
都市・集落遺跡でもっとも出土する遺物は土器片であり、南区だけでなく、岩山の北側に広がるヘレニズム・ローマ時代の都市域にも膨大な量の土器片が堆積している(写真6、写真7)。南区では、焼成前に潰れてしまった土器を住居の日乾レンガ壁の補修に使った例があるため、当地で土器を製作していた可能性がある。しかし、南区では土器焼成窯は見つかっていない。民族誌を繙くと、工房が町外れに立地する例も少なくなく、また、胎土となるナイル・シルトの確保の便を考慮すると、ナイル川に近い場所に土器工房があったのかもしれない。あるいは、外部からやってきた工人が一時的に集落に滞在し、一過性の焼成窯を用いて一定量の土器を生産した後に、別の土地へ移ったという生産体制も検討すべきだろう。
写真6 南区での土器の出土状況
写真7 都市域の表層に散乱している土器片
金属加工場
南区の集落の活動時期に並行する時代、つまり前1千年紀前半の西アジアやエーゲ海・ギリシア地域はすでに鉄器時代に移行していた。これらの地域に比べると、エジプトにおける鉄器の普及はやや遅く、アコリスのような地方集落ではさらに遅れたことが推察される。南区での鉄製品の出土例はごく僅かであり、青銅製品も釣り針やピン状の製品など、種類、量ともに多いとは言い難い(写真8)。また、農具は木製であり、鎌刃もフリント製の石器で、金属は用いられていない。しかし、木棺や皮革製品には鋭利な刃物で加工された痕跡が残っていることから、金属製品は再利用され、遺存しなかったと考えるべきであろう。南区では、銅または青銅を加工していたと思われるごく小規模な遺構が2カ所で見つかっている(写真9)。炉床となった岩盤が焼けており、灰と炭化物の厚い堆積層には金属粒が混ざっていた。フイゴの羽口とルツボ片も出土しているが、遺構の規模からすると鉱石を製錬して金属を得ていたのではなく、製品の補修や再利用のために溶解する程度であったと考えられる。
写真8 青銅製の釣り針
写真9 フイゴの羽口が残る金属加工場址
織物工房
王朝時代の衣服の素材は、品質の優劣があったとしても、社会的階層に関わらず亜麻が一般的であった。南区南端の岩丘際の一画では、工房を構成するレンガ列や大型の織機は見つかっていないものの、製糸や亜麻布の機織りを行っていたことを示す遺物が数多く出土している。それは家庭内での作業ではなく、ある程度の規模の工房が営まれていたことを示す内容であった。例えば、数十点の木製紡錘車、巻き取られた亜麻糸の束、撚りをかける前の繊維状に裂いた状態の亜麻植物とその屑、ヘラ状の骨角器、楕円形やピラミッド形をした未焼成の土製の錘(loom weight)などである(写真10、11)。
土製の錘は、垂直方向に経糸を引っ張る垂直織機(竪機)で使用するものと考えられ、アナトリア、レヴァント、エーゲ海・ギリシアなどの周辺地域では古くから使用されている。しかし、エジプトでの類例は少なく、壁画や模型に見られる伝統的な織機は、経糸を水平方向に引っ張った水平織機(ground-loom)である。垂直織機は新王国時代に導入されたとされるが、アマルナ遺跡で出土した例を基に復元された垂直織機や、図像に描かれた織機は、経糸の保持棒が固定されたタイプであり(fixed-beam loom)、南区で出土したような錘を用いる垂直織機(warp-weighted loom)は王朝時代には存在しなかったとされる※3。エジプトにおける垂直織機の出現時期に関わる興味深い遺物であり、この解明は今後の課題として残る。なお、出土する錘の形状は楕円形が多く、その大きさは高さ10 cm、幅8 cm、厚さ4cmほどであり、重量は約300~400gを量る。同様の錘が出土する地域では毛織物生産が主流であること、また南区で出土する亜麻織物の経糸の太さや密度を考慮すると、出土した錘は特に毛織物生産に使われた可能性がある。
写真10 木製紡錘車と楕円形をした土製の錘
写真11 撚りをかける前の亜麻植物
皮革工房
南区の手工業生産のなかで、もっとも豊富に残るのが製革(鞣し)と革製品作りに関する遺物である。南区北側の斜面中腹に営まれた皮革工房において、皮(skin)から革(leather)へと加工する製革と、得られた革を用いてサンダルやクツなどの製品を製作・補修する二つの作業が行われていた(写真12)。検出された皮革工房の遺構は、集落が寒村化し始め、南区南端が墓域として使われるようになった時期、およびそれ以降に属すると考えられるため、上記の他の手工業生産よりもやや時期が下る。ただし、住居址や墓からも多くの皮革製履物が出土することから、より旧い皮革工房の存在が推測される。
エジプトにおいて皮革工房、特に製革工房の明確な検出例はなく、他地域でもローマ時代以前に遡る製革工房はほとんど見つかっていないため、非常に稀有な発見と言える。工房での作業工程を概略すると、ヤギとウシの原皮から獣毛と脂肪を除去した後、アカシア科樹木の豆果から得られた植物タンニン溶液に浸漬する。仕上げ作業として、伸ばす、揉むなどの物理的処理を加えて、腐敗せず、安定した状態で製品に加工できる革へと加工していた。
写真12 斜面中腹に残る皮革工房址
植物タンニンを使った鞣し法は大量の水を消費する作業であり、工房には多くの水槽が必要となる。しかし、南区の皮革工房址にはそのような設備はない。さらに、石灰岩の河岸段丘上にあるために井戸を掘ることもできず、ナイル川や農業用水からも離れている。そのため、水の獲得と排水をどのように行っていたのか、という点が問題であった。これについて、王朝時代の壁画には皮革を大甕に浸漬する場面が描かれており、現代の西アフリカ各地でも壁画とよく似た大甕を使った植物タンニン鞣しを行っている(図1、写真13)。この方法であれば使用する水の量を大幅に削減でき、工房が水源から離れていても作業に支障はない。南区の皮革工房址でも、区画の隅に据え置かれた大甕の底部が見つかっているため、壁画や民族例と同じように大甕を用いた方法であったと考えられる。エジプトにおける植物タンニン鞣し法はローマ時代以降にもたらされた技術とされてきたが、アコリス遺跡での発見は従来説を大幅に遡る結果を示している※4。
図1 皮革工房の様子を描いた壁画(第18王朝・レクミラ墓)※5
写真13 現代のガーナ・タマレの製革工房
得られた革を使って、工房では主にサンダルとクツの製作および補修をしていた。壁画やレリーフに描かれる古代エジプト人は裸足であるため、履物を着用せず、裸足で過ごしていたと勘違いされることも多いが、サンダルは先王朝時代から知られていた。王朝時代の皮革製サンダルの形状は、現代のビーチサンダルのように鼻緒を持ち、踵を留めるヒールストラップも備えていた。そして、これらのヒモ類を結び付けるために、ソールに切れ込みを入れて「耳」を作る点に最大の特徴がある。これはローマ時代になるまで変わらない伝統であった。一方、外国に起源を持つクツは、ソールに一枚革で作ったアッパーを縫合しただけの単純な構造であった。クツはヘレニズム・ローマ時代になってから普及したと考えられてきたが、アコリス遺跡の南区では、サンダルよりもクツの出土数が多いほどである。また、10cmに満たない子供用の小さなクツが出土しており、女性の墓にもクツが副葬されていることから、第3中間期の終わりまでには、年齢や性別を問わず普及していたと考えられる。
写真14 皮革製サンダルの出土状況
写真15 赤色に彩色した皮革を用いたクツ
南区で集落が営まれた第3中間期および続く時代のエジプトの国内情勢は不安定であり、複数の王朝が並立し、外国勢力が王朝を打ち建てることもあった。また、海外の領土も失っており、この時期のエジプトは「衰退」や「混乱」といったキーワードで語られることが多い。ところが、南区の様相を見る限り、庶民の生活も衰退していたとは言い難い。南区では、外国産の土器や紅海産のタカラガイが出土するなど、対外的な交易活動があったことが窺われ、上述した通り、種々の手工業生産も盛んであった。また、サンダルなどの皮革製品は、集落内だけで消費していたとは考えにくい量が生産されていた。このように、前1千年紀のエジプトを「衰退」や「混乱」の時代として位置付けるのではなく、「市場」や「商人」といったキーワードで語ることのできる経済活動や、庶民層や中間層が抬頭する都市社会など、続くヘレニズム・ローマ時代に確立される時代相の「萌芽」の時代として、前向きに捉えることができるだろう。
- 花坂哲「アコリス遺跡出土の土製鋳型とガラス製ビーズに関して」『GLASS』 第49号 2006 33-40頁
- ※1の論文では、ガラス製の花文形ビーズ用の鋳型と解釈したが、ファイアンス製ビーズの型と考えた方が良いだろう。
- Kemp, B. J. and G. Vogelsng-Eastwood, The Ancient Textile Industry at Amarna, London 2001.
- 花坂哲『古代エジプト王朝時代の皮革技術の研究-アコリス遺跡出土資料を基にした総合的考察-』学位請求論文 筑波大学 2019
- Davies, N. de. G., The Tomb of Rekh-Mi-Rē‛ at Thebes, vol. 2, New York 1943, Plates LIII-LIV.