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考古学

平泉における庭園の調査と整備

島原 弘征 / Hiroyuki Shimahara

平泉文化遺産センター 館長補佐

毛越寺庭園(撮影:筆者)

12世紀に奥州藤原氏が拠点を置いた平泉には、中尊寺や毛越寺をはじめとする寺院や邸宅内を中心に大小様々な庭園遺構が確認され、その数は20箇所を超える1)。本稿では近年再整備に向けた調査が行われている毛越寺、現在史跡整備中の無量光院跡について触れ、庭園遺構の調査と整備について考える。

毛越寺

平泉中心部の南西側に位置する毛越寺は、奥州藤原氏二代基衡が造営を開始し三代秀衡が完成させた寺院である。境内は北側に位置する塔山(標高121m)を背景として、その裾野には金堂円隆寺を中心とした伽藍と「大泉が池」と呼ばれる池があり、浄土庭園を構成している(図1)。

図1 毛越寺境内図(出典:平泉町教育委員会 2007)

「大泉が池」は東西約190m、南北約60mを測り、その中央には中島が設けられている。中島の南北には対岸まで橋が掛けられ、現在でも池底に残る橋脚の根元を見ることができる。東岸には優美な海岸線を想起させる洲浜、南東岸には荒々しい波と岩石の多い海岸である荒磯を表現した高さ約2.5m、重さ推定4トンの立石を中心とする出島(写真1)、南西岸には断崖絶壁を表現した高さ4mの築山があり、多様な海岸線の風景を表現している。北東岸には昭和59年に発見された遣水が川の風情を演出しつつ池に水を供給し、池尻にあたる南西側から排水している。

写真1 毛越寺立石(撮影:筆者)

毛越寺庭園では昭和末~平成初期の整備によって往時の庭園空間に修復・復元整備されたが、整備完了から30年が経過し経年による痛みが顕在化してきた矢先に東日本大震災で池中立石が被災し、修復事業が行われた。

図2 毛越寺立石模式図(出典:島原 2018)

大泉が池南東部に位置する池中立石は高さ2.5m、重さ推定4トンの蛇紋岩で、その姿は池に立体的なアクセントを加えている。東日本大震災の最大余震(2011年4月7日)で立石が傾いたため、復元方法の検討と内部構造を確認するため調査が平成23・24年に行われた2)。調査の結果、立石は粘土を固くつき固めた地業の上にすり鉢状に設置された飼石の上に乗っている状態で、地中へは30㎝程しか埋められていないことが判明した(図2)。もともと立て置かれた状態に近いものが、地震により飼石の一部が割れて立石本体が8度傾き、残った石でかろうじて支えていた状態だった。傾斜の原因が飼石の破砕であることから、割れた石を除去し新たに粘土と飼石を補充し、立石本体を平成2年の位置に戻している。今回の復元で補充した飼石には、後世判別できるよう十文字の刻みをつけている。

この立石修復事業を契機として、庭園の再整備事業が開始され、現在遣水の調査と修復事業が行われている。

 

遣水は昭和59年に発見された遺構で、景石の保存処理や石の補充を施し周辺との擦り付けを行った上で遺構の露出展示が行われた。経年劣化が進み、復元整備時に補われた景石と川床面を中心に漏水していることが確認され、令和4年度から当該部分の修復作業を開始した。修復に先立ち発掘調査を行った結果、幸いなことに12世紀の遺構はほぼ傷んでおらず、玉石や粘土を補充した箇所や周辺との擦り付け部分において痛みが大きいことが確認された。

 

この発掘調査で一番困難を極めたのが、川床面の玉石の判別である。令和4年度は下流部を対象に調査を行ったが、補充もしくは傾きを補正した景石には△の印が刻まれ、玉石には刻まれていなかった。整備時に行った川床面の修復範囲を示す詳細図面が無かったため、修復・復元範囲がどこまで及んでいたのかを判断するのに苦慮した。かつての発掘調査図面及び写真と照合し、修復・復元範囲を推定することができたものの、詳細図面と写真をはじめとする資料の確実な保管と補充したものと分かる施工の重要性を痛感した。また、昭和整備時に補充された河床面玉石の裏込めに使用した粘土が流出したことによって生じた空隙が漏水の原因であることが判明した。

 

今回の事前調査の結果、補充されたもしくは傾きを補正した景石には印が残されている可能性が高いこと、当時の資料で不足していた整備情報を取得できたことは大きな成果である。ここで気になるのが、昭和整備時において補充した景石には印をつけていたにもかかわらず、何故玉石にはつけなかったのであろうか。当時の状況をうかがい知ることは困難であるが、景石は「点」、玉石敷は個々ではなく「面」での表現であるため、その違いが印を残すか否かの対応に影響を与えたのかもしれない。

無量光院跡

無量光院跡は、奥州藤原氏三代秀衡が12世紀後半に建立した寺院の遺跡である(写真2)。南側を除く三方を土塁に囲まれ、その範囲は南北約320m、東西約230mを測る。土塁に囲まれた境内内部には、「梵字が池」と呼ばれる池があり、池の中には大中小三つの島(中島、東島、北小島)が設けられている。一番大きい中島には本堂(阿弥陀堂)が、その東に位置する東島には拝所などの関連施設が建てられていた。中島の北側にある北小島は中島との位置関係が宇治の平等院と類似している。中島・東島にある建物群は、阿弥陀堂の背面(西方)に位置する金鶏山山頂と東西の中軸線を揃えていた。山頂には経塚があり、昭和初期の発掘で経筒とその外容器である12世紀前半の渥美壺が出土している。

写真2 無量光院跡(撮影:筆者)

無量光院跡の発掘調査は昭和27年の文化財保護委員会の調査に始まり、平成14年から平泉町教育委員会によって史跡整備に向けた内容確認調査が行われた(図3)。平成24年から池跡を中心に復元整備が開始され、徐々にではあるが当時の園池空間に戻りつつある。

図3 無量光院跡(出典:島原 2018)

無量光院跡の苑池は、東西約150m、南北約160mあり、池北側からは岬と入江が確認されるなど、池の形状が平等院に似ていることが発掘調査で明らかになってきた。一方で島と岬、入江には(毛越寺庭園のような)玉石が葺かれているが、大半の池護岸には石が葺かれていない。また、池の水深が40㎝と非常に浅いことも確認されており、無量光院跡の庭園遺構の特徴とも言える。

 

阿弥陀堂が所在する中島北東の池北岸において、南東に延びる岬(半島)状の張り出しと、北西に広がる入江が平成24・25年の調査で確認された(写真3)3)

写真3 岬と入江(提供:平泉町教育委員会 2015)

この岬を検出した調査では、池北岸の追跡調査の際に北岸の傾斜と逆方向の南から北に傾斜する護岸を確認したことが発見の端緒である。本来であれば北岸は北から南に傾斜しているはずだが逆方向であったため、古い地籍図などで検討した結果、岬の一部である可能性が考えられ、翌年度岬と想定される範囲を面的に調査し、岬と入江であることを確認したものである。無量光院跡の池の大半は、整備前まで水田として土地利用されていたが、北岸付近は宅地化していたため旧地形が失われていた状態であり、現行の地割は全く参考にならず、古い地籍図からその痕跡をかろうじて抑えることができた。無量光院跡の岬と入江の発見は、地形や古資料から池の形状を把握できた事例の一つと言える。

おわりに

毛越寺、無量光院跡の調査・修復について概観した。庭園遺構では後世の改変の影響もあるが、現地形や古資料において池の形状を推定できることが多く、それらの情報から池の全体形を押さえることは有効である。また、庭園は景石等の「点」で表現されているものと、玉石護岸などの「面」で表現されているものの複合体であり、それぞれ修復に際しての観点が異なる。今後再整備を行う際には、かつての「点」と「面」の整備状況・背景を復元し、後世に補修の内容・背景が分かる資料を確実に残していくためにも、丹念な再検証と施工が必要であろう。


1)本澤慎輔「平泉の庭園遺構」『都市・平泉―成立とその構成―』、日本考古学協会2001年度盛岡大会研究発表資料集(2001)
2)島原弘征「平泉における苑池遺構」『考古学ジャーナル』No. 719(2018)、ニューサイエンス社
3)平泉町教育委員会(編)『特別史跡無量光院跡発掘調査報告書X』岩手県平泉町文化財調査報告書第121集(2014)、平泉町教育委員会(編)『特別史跡無量光院跡発掘調査報告書XI』岩手県平泉町文化財調査報告書第123集(2015)

参考文献
平泉町教育委員会(編)『特別史跡毛越寺境内特別名勝毛越寺庭園整備報告書』岩手県平泉町文化財調査報告書第106集(2007)

公開日:2023年11月13日

島原 弘征しまはら ひろゆき平泉文化遺産センター 館長補佐

1976年生まれ。2000年福島大学大学院地域政策科学研究科修了。岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターを経て、2006年より平泉町文化財センタ-(2009年より平泉文化遺産センターに改組)に文化財調査員として採用。平泉町内の発掘調査や、特別史跡無量光院跡の史跡整備事業に携わる。2020年より平泉文化遺産センター館長補佐として、平泉町内の文化財保護行政全般の調整に当たる。