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考古学

埋葬から見た先祖観と現代社会

長澤 宏昌 / Koushou NAGASAWA

日蓮宗遠妙寺 住職
考古学者

現在、都市部を中心に散骨や葬儀不要、墓不要などの考えが広がり、これまで当然と考えられてきた「死者や先祖に対する向き合い方」が、急激に変化している。この背景には深刻な経済問題に加え、都市化に伴う急速な地域社会の崩壊がある。残念ながら、その現象はあたかもそれが当然であるかのように地方に拡散され続けている。本当に、この状況でいいのか、埋葬の歴史をとおして先人が築いてきた葬儀・供養・先祖観などを考えてみたい。

 

はじめに

私は現在寺院住職であるが、これまで山梨県で考古博物館学芸員・埋蔵文化財センター文化財主事として、出土遺物の展示や解説、遺跡の発掘調査や報告書の作成などに係わってきた。発掘作業は集落跡を対象とした調査が多かったため、必然的に多くの墓跡も調査した。調査報告書の作成には、各地の埋葬例との比較が必要になることから、全国各地の、それも各時代の埋葬例にも触れる機会が多くあった。

 

そして、当然のことながら、調査成果である事実の報告と、他地域との比較を行うことを主目的として、報告と考察を行っていた。これは、公務員である文化財主事の当然の立場なのだが、現在の自分、つまり住職という立場でみると、埋葬の意義や送る側送られる側それぞれの想いなど、モノだけではない気持ちの重要性にほとんど触れていないことに今更ながら気づかされたのである。現在、20年ほど前から散骨が認められるようになったこともあって、葬儀や供養に対しての疑問や不満が一気に噴出した感がある。葬儀や供養が必要なのかという問いかけはまたたくまに広がり、それは不要なものとする考えが広まっている。その原因の一つに僧侶の行状があるのだが、葬儀や供養にかかる費用と墓地の継承など、現代社会が抱える問題と深くかかわっていることも事実である。

このような、現代社会の葬儀、供養や墓などの重要性について、私は僧侶の立場から『散骨はすべきでない』とその増補改訂版である『今、先祖観を問う』を世に問うた。

 

その結果、私の想像以上の反響があり、僧侶や寺院、仏教などに対する辛辣な批判あるいは揶揄を、これでもかと頂いた。現代社会と仏教や僧侶に対するきちんとした批判は大いにありがたいものとして真剣に受け止めたつもりであり、僧侶や檀信徒、諸団体の講演会でもこれらの意見を隠すことなく伝えて、共に考えるようにしている。

さて、これらの著書で、私が考古学の成果として特に強く発信しておかねばならないと考えているのは、現代社会で急速に失われている「先祖観」の問題である。先祖観とは、まさに民族やグループの結束の紐帯とも呼ぶべきもので、時代がどのように変化しようとも、その思いは揺らぐことなく、これまで保ち続けられてきた。原始・古代の社会において、また、現代でも様々な民族においてもそれは保ち続けられているのだが、今、それがどうもこの日本で怪しくなってきていると思えてならない。考古学的成果や民族例を示しつつ、もう一度この重要な問題について、述べてみたい。

岩手県西田遺跡(縄文時代)にみられる先祖観

西田遺跡は、大木8a式期(縄文時代中期中葉=5,000年前)の環状集落である。環状集落とは、同心円状に遺構が配置される形状の集落で、西田遺跡の場合、環状の内側から中心部の墓壙群、その外側の墓壙群と方形柱穴列(掘立柱建物跡)群、さらに竪穴住居群、貯蔵穴群から構成される。その直径は120mを計る。このような遺構配置は、構成する遺構の種類の違いはあるものの、おおむね縄文時代中期の一般的な集落の姿である。

 

さて、墓壙は、中心部の14基と、外側の174基が確認されている。中心部墓壙群と外側墓壙群では数以外にも、埋葬方向に著しい違いがある。中心部墓壙群が東西の中軸ラインに沿って並行し対峙するのに対し、外側墓壙群は、すべてが中心部から放射状に配置される。(写真1)

 

 

岩手県西田遺跡の遺構配置状況 中心部の広場に2重の墓域をもち、その外側に住居群、さらに貯蔵穴が環状に広がる構造が確認できる(提供 岩手県教育委員会)

中心部墓壙に葬られた人は、明らかに何らかの「特殊な立場」にあった人に限定されたと考えられる。集落を司るシャーマンなのか、複数集落の共同葬地・祭祀場であった西田遺跡の最初の開拓者であった初代だったのかもしれないが、いずれにしても「極めて重要な人物」であったのだろう。集落構成員にすれば集落の中心に葬られた人たちは、まさに心の中心として最も重要な祈りの対象になっていたはずであり、大切な先祖であると同時に、さらに昇華し「神」としての存在であったとすら考えられるのである。

 

ところで、葬られた人はどの方向に頭部を向けていたのであろうか。長軸長と短軸長の差が極端に大きい長楕円形がほとんどであることから、頭部が中心部方向を向いているか外側を向いているかのどちらかである。残念ながらこの遺跡では人骨は全く出土していないため、推定の域を出ないが、報告書では、唯一の拠り所として、墓壙の底面の高低差に注目して頭位の推定を行っている。極端な高低差があるわけではないが、水平であるものに次いで外側が高いものがおおく、内側が高いものは例外的存在で、数例を数えるにすぎないという。頭は高い方に据えるという一般論に準拠すれば、頭は外側ということになる。墓壙群の唯一の出土遺物であるヒスイ製垂飾りは、長軸の外寄りから出土しており遺体に装着されていたとすれば頭は外側であったことの傍証となり得る。

 

一方で中央部の墓壙群は中心部方向が高く、中央部に頭があったと想像される。外側の174基は、中央部の墓壙に葬られた人々に対し足を向けて葬られたことになる(図1)。

図1 西田遺跡墓壙配置図(報告書に加筆) 中央に埋葬された14体に対し放射状に174体が埋葬されている

遺体を寝かせた場合、頭部がやや高い位置に据えられているという前提であるから、この埋葬姿勢は中央部墓壙群を見ることを意図したものと理解でき、中央部土壙群に埋葬された人々を見ることによって「繋がること」が意識されていたとが明らかだ。

 

このような見事なまでの墓壙配置がつくり上げられたのも、常に強力なリーダーシップを持った人間が墓域全体を差配していたからに他ならない。大木8a式期という限られた時間内で造り上げられた墓壙群であるが、中期の土器形式から大木8a式期は120年程度と想定されるという。そうすると、世代間30年とすれば四世代、さらに短ければ5世代以上が想定される。当然差配役も交代しているわけであるから、中心部土壙群はそのような立場の人間のためのエリアであったと考えられる。そして中心部に埋葬された人々は「先祖神」に昇華され、崇拝された。先祖神につながりたいと思う強烈な意識により、この見事な集団墓地は作り上げられたのだろう。

 

山口県土井ヶ浜遺跡(弥生時代)にみる先祖観

甕棺が一般的に使用された北西九州と地理的にも近い、山口県土井ヶ浜遺跡では、砂丘に築かれた墓地にまったく甕棺は用いられなかった。土井ヶ浜遺跡は、今から2000年前の弥生時代の埋葬遺跡として、最も有名な遺跡のひとつである。この遺跡は本州最西端に位置する山口県下関市豊北町の響灘に面した砂丘上に広がっている。この地域から人骨が出ることは地元では古くから知られていたようであり、地元の古老の話では、砂の中から出た骨でチャンバラをしたというくらい、砂丘からの骨の出土は当たり前な話であった。

 

箱式石棺や貝製腕輪の発見などを経て、昭和28年になって発掘調査に至り、これらの人骨や遺物が弥生時代のものであることが判明し、次々と埋葬人骨が発見されるに至った。その後も何回かの発掘調査を繰り返し、現在までに300体を超える人骨が出土している。

 

土井ヶ浜遺跡ではこの300体の人骨はほとんどが土壙に納められていた。埋葬主体として最も単純な土壙墓が圧倒的であるのも、この遺跡の立地が砂丘上であるため土壙の掘り込みが他の遺跡に比べ容易であったことに起因するのかもしれない。

 

埋葬形態は1基の土壙に1体を埋葬するケースがほとんどであるが、合葬や再葬も確認される。成人男女、成人男性と子ども、成人女性と子供など組み合わせは様々である。これらは同時死亡であることと、存命中から何らかの繋がりがあったからこその合葬ということになったわけであり、夫婦や親子などの関係が類推される。その一方で、新たに埋葬しようと墓穴を掘ったところ、先に埋葬された人骨が掘り出されるケースもあるが、それらはまとめて1基の墓穴に再埋葬している例もある。

 

この地域の弥生人の骨格は他地域のそれと比べて、顔が長くホリの浅い特徴がある。ところが近接の西九州地方や南九州地方の弥生人は、共通して、それ以前に当該地域に住んでいた縄文人と骨格的に近似していることが明らかにされているため、この土井ヶ浜を含めた北部九州弥生人の違いが際立つこととなった。さらに、これを詳細に検討すると大陸に同系統の顔立ちが見られることが明らかにされ、この地域の弥生人は、まったく新たな渡来系であると結論付けられた。

 

さて、ここに埋葬された遺体は、足先が西、頭部が東に据えられる。すなわち、すべての埋葬遺体に共通していることは、発見された頭蓋骨が、単体であれ再葬による集骨であれ、すべてが同じ方向、すなわち海側を向くように埋葬してあったことである。これは、自らの出身地である朝鮮半島(西方向)が見渡せるように配慮したもので、頭部を西に向けたのでは出身地を「見渡せない」ことになってしまうからである。彼らの願いと意識はあくまで朝鮮半島方向を向くことなのであった。

それを考えると、彼らが埋葬に当たって、埋葬される当事者も実際に埋葬を行うその子孫も、非常に強い意志を持って、彼らのルーツである大陸を見渡す方向に頭蓋骨を向けていたことに十分納得できる。

 

埋葬遺体の顔が全て同じ方向を向いていたことに関して、重要な意味を指摘しておかなければならない。それは、これら300体以上の埋葬行為は一代だけで形成されたものではないということだ。前述の西田遺跡と同様、複数世代にわたって同じ埋葬形態が保ち続けられたことである。親から子へ、子から孫へと、この埋葬形態は土井ヶ浜周辺の複数集落に保ち続けられたのである。

 

この遺跡の初代は渡来人だとしても、二代目以降、この地域で生まれ育ったのだから、まさにこの地が故郷なのである。そう考えれば、二代目以降がこの埋葬形態にこだわる必要はないはずだ。しかし、この埋葬方法がずっと保たれていた事実から、これは単に埋葬の形式としてではなく、この地域の弥生人の「社会規範」になっていたと考えられるのである。埋葬形態を保持させ、かつそこまで昇華させたのは、彼らの強い同族意識や極めて重要な先祖崇拝意識があったからに他ならない。

 

パプアニューギニアの民族例

山梨県立考古博物館館長で早稲田大学教授の高橋龍三郎氏は、土器型式の成立を、パプアニューギニアの民族誌を通して解明しようとしている。私たち考古学にかかわるものにとって、土器は年代の「ものさし」であり、その意味で最も需要な情報源でもある。

 

日本の考古学界は世界で最も細密な土器編年を作り上げ、確認された遺構や出土遺物の時期の決定の基準としてそれを用いている。なぜそのような細密な編年が作り上げられたのかといえば、土器の文様が時代や地域によって異なり、かつ変化しているからである。その肝心な部分である「どうして土器の文様が変わるのか」を、高橋氏は上記の民族誌から解明しようと試みている。

 

高橋氏らは、パプアニューギニア最東端であるイーストケープに住むケへララ族を調査した。この部族は母系社会で、土器づくりは代々女性の仕事で、この地域では「イーストケープ伝統」という小単位の氏族単位を超えた共通性を持った土器形式になっている。そして、そこでの土器は葬送儀礼、先祖祭祀、魔力などを背景に、その霊力の強い女性が造ることになっている。そこでの聞き取り調査の際、一番の土器づくりの名手と言われる女性が「土器は私が変える」と答えたという。

 

その女性は、出自が地域で一番呪術や儀礼に秀でた集団のトップクラスに君臨する女性であったため、ほかに土器づくりに秀でた人がいても、その女性の言うことは聞かなくてはならない状況であったのである。土器の文様には霊力、呪術力、あるいは魔力といったものが備わっており、土器の型式(文様)を変えることができるものはその集団のトップに君臨する人だけであるということになる。このことから、その人が亡くなれば次の代の霊力者が登場してくるのだが、そこで新たな土器型式が誕生することになるのであろう。

写真3 ノルマンビー島からブヴェヴェソ山を望む 中央の高い山の左側にある低い山がブウェブウェソ山 (提供 高橋龍三郎氏)

さて、本稿での主題である先祖祭祀について述べてみたい。イーストケープとその近くのノルマンビー島では、霊魂はノルマンビー島のブウェブウェソ山に帰ると信じられている。そのため死者はブウェブウェソ山の方向に足を向けて埋葬される。キリスト教の布教もあったためキリスト教信者もいるわけだが、埋葬方向は同じだそうである。足を山の方に向けるのは“起き上がったとき”に顔が山の方を向くという理由による。先祖の霊がいるブウェブウェソ山(写真3)であるため、死者に対する儀礼の一つに立石が祀られている。石をブウェブウェソ山に見立てるのであり、身近な祈りの対象としてそれは家々の庭先や路地に建てられている。立石は重要なものであるため、イーストケープではわざわざノルマンビー島にまで船で渡って、ブウェブウェソ山から流れ出る川から適当な石を持ってくるのだそうだ。

 

以上、縄文時代と弥生時代の代表的な埋葬遺構から、彼らの先祖意識がどのようなものであったかを、また、現代のパプアニューギニアで、先祖信仰や死者の儀礼をどのように執り行うのかなどを示した。これらの例からいくつかの興味深い点が指摘される。

 

まず、西田遺跡や土井ヶ浜遺跡の事例は、まさに先祖との「つながり」を示す例である。子孫は先祖とつながることによって、子孫の家族や一族の安寧を願い、それを埋葬という形で示した。そこで最も重要な役割を果たすのは、埋葬に際しての「差配役」である。西田遺跡にせよ土井ヶ浜遺跡にせよ、複数の集落の構成員が埋葬されている。特に西田遺跡では、環状の墓域に集落ごとのまとまりさえ想定される。そのような個々の集落の状況を考慮しつつ、見事なまでの「環状埋葬遺構」を作り上げたのである。しかし、これは差配役の指示だけで出来上がったわけではない。各集落の構成員がそれに従うことを当然と受け止めていたからに他ならない。それほど先祖意識が強烈であったことを示しており、先祖は神に昇華されていたのである。西田遺跡の中央部に埋葬された人たちがそれに相当するのだが、彼らこそがそれぞれの時代での差配役となった人たちであったと考えられる。彼らは各時期の代表者(リーダー)なのであり、シャーマンであり、先祖としてあがめられ神に昇華された。だからこそ、集落構成員は彼らにつながることを、強烈な意識として持っていたのだと考えられる。

 

また、顔が目的の方向を向くという意識は他の遺跡や時代を超えても確認されている。青森県三内丸山遺跡では墓域内に墓道が確認されているが、遺体は墓道に直交するように墓道の両サイドに埋葬される。それぞれ足先が道側、頭部が外側に埋葬されている。道側からお参りした時に死者の顔が見えることをイメージしたのであろう。東京都新宿区発昌寺遺跡では、江戸時代の座棺が発掘されているが、棺桶の外面に「前」や「霊前」などの文字が書かれている。埋葬に際し、死者の体がどちらを向いているかを間違えないようにとの配慮によるものである。ここでも、墓参する人と死者が顔を合わせることが強く意識されていることになる。

古い話だが、平成24年10月14日の朝日新聞に、TV東京アナウンサー大江麻理子さんのインタビュー記事が掲載されていた。TV東京の番組(モヤモヤサマーズ)でハワイを訪れた時のことである。観光地から少し離れた山の斜面に、墓地があったのだが、その中に日本人の墓も含まれていた。日本人移民の墓なのだが、それだけが現地の人たちの墓とは違う方向を向いていたという。場所によっては、偶然現地の人たちの墓と同じ方向を向くものもあるのだが、全体でみると、日本人移民の墓はすべて同じ方向を向けて作られていたのである。大江さんはそれを不思議に感じ、なぜ日本人移民の墓だけが一様に同じ方向を向いているのかを尋ねたところ、「あの方向に日本があるんですよ」との答えであったそうだ。

 

現在では世界有数のリゾートであるハワイだが、日本人移民にとっては、根を張り生活していくため懸命な努力をしてきた地でもある。そんな人々の故郷への気持ちを垣間見た気がした、と大江さんは述べている。前述した弥生時代の渡来人である土井ヶ浜人が、その出身地の方向である響灘を向けて埋葬されたのと全く同じである。2000年という時代や地域を超えても、人の故郷に対する想いは変わらないものであり、また、そういう想いが移民社会の強力なつながりとなっていることが裏付けられる話である。

 

もう一点、触れておきたい。霊魂はノルマンビー島のブウェブウェソ山に帰るというケへララ族の考え方は、柳田國男の山中他界観に極めて類似し、日本仏教にとっても非常に重要な意味を持つ。浄土経では、死者は極楽往生して、生まれ変わることを諭す。大衆の理想の到達点とも言うべき教えである。しかし、これについては、以前から盂蘭盆会との矛盾が民俗学側から指摘されていた。つまり最高の場所である極楽に往生(生まれ変わった)したものが、なぜこのような濁世に戻ってくる必要があるのか、という指摘である。これについて、日本仏教側からの反応はこれまでなかったのだが、法華経は「霊山往詣」を説く。先祖は霊山に参詣するわけで、普段は子孫を近くで見守っている。したがって子孫が会いたいと思ったときは、手を合わせたその場所が待ち合わせ場所となっていつでも会うことができるという考えが成り立つわけである。法華経では柳田の山中他界観は、合理的に解釈できるのである。

 

先祖観とは、まさに部族、一族、あるいは地域など、大小の差こそあれ、一つのグループの紐帯ともいうべき存在である。現代社会では、特に平成以降、家意識やそれまでの常識などが次々と破壊され、個人や権利の主張、経済最優先の意識が極端に強まっている。

ある自称宗教学者は、近著において、以前とは違い、近年は親から子に受け渡すものが少なくなった。孝行とは親から受けた恩に対する恩返しだから、親から受けているものがない以上、親に恩返しする必要もないと言っている。「子どもは、育っていく上で、親の恩をうけている」とも述べているので、親の恩のすべてを否定しているわけではないのだが、育っていく上で、という発言が、彼の発想を端的に示している。育てる経緯でモノとカネをかけさせたという意味で「恩」という表現をしているのだろうが、もっと根本的な恩があることに気づいていない。親はすでに子に対し、「命」というこれ以上ない贈り物をしている。この自称宗教学者は、どうも、モノやカネの範疇でしか価値の判断ができないようだ。そして、残念ながら、このような発想の人が都市部を中心に増えていることも事実である。このような社会状況下で、親の恩や、様々な「義務を伴う先祖観」の継承は、都市部では理解しにくい意識なのかもしれない。

 

まとめにかえて

改めて言わせていただきたい。親とは自分にとって命を与えてくれた恩人であり、子は親から、親は祖父母から、祖父母は曽祖父母から命を受け継いでいる。その意味を想う気持ちが「先祖観」なのである。先祖観とは社会のタガであり、明文化された法律ではないものの、規範や自制心につながるものである。確かにその時代時代にふさわしい考え方はあるのだろうが、モノやカネといった物質的価値観を優先するあまり、これまで築き上げてきた社会の紐帯をいとも簡単に壊してしまうことが良いことなのか、あらためて考えてみる必要があるのではないだろうか。

 

【引用・参考文献】
長澤宏昌 2016『今、先祖観を問う』 石文社
岩手県教育委員会文化課 1980 『岩手県文化財調査報告書51:東北新幹線関係埋蔵文化財調査報告書VII』
土井ヶ浜遺跡・人類学ミューアム 1998『土井ヶ浜遺跡と弥生人』

公開日:2019年8月20日

長澤 宏昌ながさわ こうしょう日蓮宗遠妙寺 住職
考古学者

1955年山梨県生まれ 広島大学文学部史学科考古学専攻卒業
1979年山梨県教育庁文化課文化財主事
1982年山梨県立考古博物館学芸員・山梨県埋蔵文化財センター文化財主事
1996年先代遷化に伴い鵜飼山遠妙寺法灯継承
2004年山梨県埋蔵文化財センター退職 日蓮宗鵜飼山遠妙寺第54世
日本考古学協会会員、身延山大学・山梨英和大学非常勤講師