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考古学

中世東国における発掘庭園

足立 佳代 / Kayo Adachi

日本庭園学会理事

復元された樺崎寺跡の庭園(撮影:筆者)

はじめに

浄土庭園とは、仏堂と前池が一体となって浄土の姿を具現化した庭園である。天平宝字 5 年(761)に建てられた阿弥陀浄土院が最も古い浄土庭園の遺構とされ(清野ほか 2000)、平安時代中期の末法思想が流行に伴って平安京とその周辺での浄土庭園をもつ寺院の造営が盛んとなり、その後東国でも平安時代後期から各地の領主によって造営されるようになった。鎌倉時代、鎌倉には源頼朝による永福寺、三代将軍実朝による大慈寺が建立され、東国の御家人たちのあいだで、本貫地において浄土庭園をもつ寺院の建立が流行する(大澤 2007)。

 

庭園は、古墳や城跡などと同じように埋没後も地上にその痕跡を残すことがあり、地名や伝承などが伝わっている場合もある。庭園の重要な構成要素である池は現代まで溜池として利用されていることもある。しかし、庭園は多くの場合、古墳や城跡などと異なり企画性に乏しく、池の汀線は曲線を描き、なかなか形を予測するのが難しい。また、浄土庭園は堂塔の前に園池を配置するのが大きな特徴で、園池全体を発掘調査する機会は多くはない。その園池をどのように発掘調査し、なにが明らかにされたのか、東国の二つの庭園遺跡について解説したい。

永福寺の歴史

永福寺は神奈川県鎌倉市の北東・二階堂にある中世寺院の遺跡である。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、頼朝による創建の意図は奥州合戦での死者の霊を鎮めるためであり、その伽藍は、平泉の大長寿院に倣ったとされている。堂舎の造営は建久2年(1191)に始められ、池が掘られたのは建久3年(1192)で、建久5(1194)年にはほぼ伽藍が整った。造園のため、阿波阿闍梨静空の弟子・静玄が呼ばれたという。頼朝死後は次第に別業としての性格が強くなり、花見や酒宴、蹴鞠などが催されるようになる。『吾妻鏡』や『北条九代記』などの歴史史料と発掘調査の成果により、創建から寛元年間(13世紀前半)の修理までをⅠ期、寛元年間の修理の時期をⅡ期、弘安年間(13世紀後半)の修理の時期をⅢ期、延慶3(1310)年の火災以降をⅣ期としている。永福寺が廃絶する時期は、15世紀半ばと考えられているが、江戸時代まで残るという考え方もある(鎌倉市教育委員会 2001)。

永福寺跡の発掘調査

遺跡地は、古くから「二階堂」「三堂」「四ツ石」などの地名、瓦の出土などから永福寺跡の存在が想定されていた。昭和6(1931)年に神奈川県の考古学者・赤星直忠氏を中心に初めて発掘調査が行なわれ、多くの庭石などが出土している。昭和58(1983)年から鎌倉市教育委員会などにより発掘調査行われた。その結果、西の平場の中央に二階大堂、その北に薬師堂、南に阿弥陀堂がそれぞれ複廊でつながれ、さらに薬師堂、阿弥陀堂からはそれぞれ翼廊が池に向かって東に伸び、池の中に釣殿が設けられていたことがわかった(図1・写真1)。

図1 永福寺の伽藍配置

写真1 永福寺跡全景(南西より。撮影:筆者)

堂宇の東、前面に確認された園池は、南北に長い瓢箪型、推定南北200m、東西約70mで、深さは約1mである。瓢箪型のくびれた部分の正面が二階堂にあたり、対岸に向かって橋が掛けられていた。(写真2)。

池は、Ⅰ〜Ⅳ期の時期によってそれぞれ池の大きさや遣水の位置、洲浜の意匠などに変化がみられ、橋も架け替えられている。橋は、出土した構造材から緩やかな反りをもっていたことが明らかになっている。池底は橋から北側は基盤となる岩盤を削り、南は土丹と呼ばれる整地層を敷き詰め、大規模に造成されていた(写真3)。

写真2 Ⅱ期の橋 東岸から西(二階堂)に向かって(提供:鎌倉市教育委員会)

写真3 土丹が敷き詰められた池底のようす(北より。提供:鎌倉市教育委員会)

池の西岸は、緩やかな勾配で1cmから拳大の砂利を敷き詰めて洲浜とし、所々に1mほどの景石を配している(写真4・5)。Ⅲ期には護岸に廃棄された瓦を積んでいる部分もあった(写真6)。北岸は、半島状に張り出した部分に平らな景石を配して荒磯を造り出している。東岸は、時期によってその形状を変えている。Ⅰ期は岩盤を露出させた荒磯と推定されているが、Ⅱ期になると汀を埋めて陸地を広くし、護岸を洲浜に造り変えている。南の池は大きくふくらみ、その中央には岩島が造られている。岩島は、南北約10m、東西約5mの幅で、1〜3mの景石を組む(写真7)。景石は、葉山周辺の海岸の凝灰岩や箱根溶岩石を、洲浜には、相模川河口から集められた砂利が用いられている。

写真4 Ⅰ・Ⅱ期の西岸汀(南より。提供:鎌倉市教育委員会)

写真5 Ⅱ期の汀景石は葉山周辺の海岸や箱根から運ばれている(南より。提供:鎌倉市教育委員会)

写真6 護岸に積まれた瓦(提供:鎌倉市教育委員会)

写真7 岩島(北より。提供:鎌倉市教育委員会)

池への導水は、薬師堂の北西の西ヶ谷から池に向かって伸びる遣水と北東の二階堂川からで、南西の池尻から排水される。遣水は、Ⅰ・Ⅱ期には翼廊の北側に設けて池に注がれていたが、Ⅲ期には翼廊の下を流すため翼廊の基壇を横切っている(写真8・9)。Ⅳ期には翼廊の北側の雨落ち溝を使って導水し、その下流が遣水となる(写真10)。Ⅱ期には東岸に滝口が設けられ(写真11)、水が注がれるようになるが、Ⅳ期には埋め立ててしまう。

写真8 Ⅲ期の遣水が翼廊基壇を切っているよ うす(提供: )

写真9 復元された庭園(北より。撮影:筆者)

写真10 Ⅳ期の遣水(東より。提供:鎌倉市教育委員会)

写真11 Ⅱ期に設けられた東岸の滝口改修しながらⅢ期まで使われる(提供:鎌倉市教育委員会)

池の堆積土からは、漆椀や仏像などの木製品、螺鈿で装飾された調度類、仏堂を荘厳した金属製品など多種多様な遺物が出土し、往時の華やかなようすを彷彿とさせる。

 

永福寺跡は、吾妻鏡等の史料と、発掘調査により具体的な庭園の形態や意匠、変遷など、庭園の造営に御家人が動員されたこと、各地から資材が運ばれたことが明らかにされた。

樺崎寺の歴史

樺崎寺は、源姓足利氏の菩提寺である鑁阿寺に残る「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」(『鑁阿寺文書』)によれば、源姓足利氏2代目の義兼が、文治5年の奥州合戦の戦勝祈願のため創建したとされる。義兼は、八幡太郎義家の流れを汲む源氏の門葉であり、北条政子の妹を娶り、源頼朝とは義理の兄弟である。足利氏は鎌倉幕府の有力御家人の一人として活躍していた。鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた尊氏は義兼の6代の末裔である。樺崎寺は中世を通じて足利氏の庇護の元にあり繁栄したが、中世の終わり頃から衰退し、江戸時代には樺崎八幡宮、神宮寺として存続し、明治時代の初めには神仏分離令により樺崎八幡宮となる。

樺崎寺跡の発掘調査

遺跡地は、足利の中央にあった館(鑁阿寺)の北東約5km、小河川である樺崎川が中央を北から南に流れる谷間にある。西の八幡山を背景に東に平場が広がっている(写真12)。

 

昭和59年からの発掘調査により、八幡山の東の裾に広がる園池、八幡山山麓の堂塔跡、園池北側の伽藍、僧坊跡、樺崎川の東の建物群などが明らかとなっている。園池部分は、北側は埋め立てられて水田となり、南側は溜池として残っていた。かつては、南の池が亀池、北の池が鶴池と呼ばれていたことが知られている。

 

園池は南北に長く、北西の水路と北東の樺崎川からの導水(写真13・14・15)があり、池の北側の中央は岬状に洲浜が張り出している。池は南北約150m、東西約70mの大きさである。発掘調査では、池底に園池が造られる以前の小さな流れの跡がみつかり、下流に堤を設けてこの流れを堰き止め、池としたことがわかった。

写真12 樺崎寺跡全景 (提供:足利市教育委員会)

写真13 1・2期の導水と思われる下御堂東 の水路の護岸(提供:足利市教育委員会)

写真14 3期の東導水口(提供:足利市教育委員会)

写真15 下御堂の東を流れる3期の遣水 (提供:足利市教育委員会)

図2 樺崎寺跡伽藍配置模式図

園池は大きく4つの時期(1期:創建期、2期:鎌倉時代後期、3期:南北朝期〜室町時代、4期:江戸時代)に分けられる。池は常に水が流れ込み一緒に土砂も溜まっていく。そのため時々池底にたまった土砂をさらう必要がある。この4つの時期は、大きく改修された時期である。特に3期は、洪水により樺崎川の水位が上がり水没した池の改修で、池の水位が約40cm上がる大きなものであった(図2)。池岸の洲浜の砂利や景石は、周辺から採れるチャートからなっている。洲浜の砂利は、それぞれ角が取れて丸みをもち、おそらく川で洗われた礫を採取・選別して使用している。

 

2期までは、周囲の護岸の傾斜は緩やかな洲浜状で粒のそろったやや小粒の砂利が敷かれていた(写真16)。園池北側の岬状の洲浜は、短くて低い(写真17)。中央の中島は南北に細長い楕円形で北、東、南に1mを超える景石を立て、あるいは組んで景色を作り出している(写真18・19)。

写真16 1・ 2期の西岸洲浜のようす。左手の高まりは 3期の護岸 (提供:足利市教育委員会)

写真17  1期の岬状洲浜。低くて短い(提供:足利市教育委員会)

写真18 1・2期の中島 (提供:足利市教育委員会)

3期には、池に溜まった土砂を池岸、岬、中島に盛り上げて修復している。そのため、岸の傾斜はやや急になり、岬は中島に向かって長く伸び(写真20)、岬の先端と中島の北端が橋で結ばれた(写真21)。護岸の砂利は拳大から30cmほどの大ぶりの石が使われていた(写真22)。中島の景石は全て埋められて、二回りほど大きくなり、景石のない土饅頭状の島となったが、島の南にサクラが植えられた。3期の改修後しばらくして岬状洲浜の東に小さな島が設けられた(写真23)。島は江戸時代には大きくなる。江戸時代の境内図を写した絵図には弁天島が描かれており、島には弁財天が祀られていたことがわかる。江戸時代になると中島から東と西に堤が設けられ、池が南北に分けられて、亀池、鶴池になった。

写真20 3期の岬状洲浜 傾斜が急で高い (提供:足利市教育委員会)

写真21 3期園池の池底。小砂利が敷かれている。奥に中島の立ち上がりがみえる。さらに奥は 1・ 2期の中島 (提供:足利市教育委員)

写真22 3期の西岸洲浜のようす。やや粒が大きい礫 (提供:足利市教育委員)

写真23 3期の島 (提供:足利市教育委員)

池からは木製品やかわらけ、陶磁器などが出土しているが、特筆すべきは、柿経である。幅1cmほど、長さ20cmほどのヒノキの薄い板に法華経や大日経を書写している。池の西岸近くからまとまって出土しているものは、山麓の堂塔に納められていたものが、投棄された可能性がある。一方、3期の中島の西側斜面に埋められていた(写真24)ものは、3期の改修に際し、埋納されたものと考えられる(足立 2006)。

写真24 3期中島に埋納された柿経が手前にみえる。奥は1期の中島(提供:足利市教育委員会)

樺崎寺跡は、発掘調査の成果に基づき3期・南北朝期から室町時代の庭園を復原整備している。3期の護岸は、埋め戻して保護した上で、発掘調査で推定された技法で、チャートの割石を粘土層の下地に一つずつ打ち込み復原した。復原整備に携わったのは地元の庭師であり、今後、庭園の修理にはこの技法を身につけた庭師が活躍するだろう(写真25)。

写真25 礫を叩き込み護岸を整備するようす(撮影:筆者)

おわりに

ここで紹介した二つの庭園遺跡は、同時期に造られた浄土庭園である。発掘調査によって、庭園の形、規模、変遷、意匠などが明らかにされた。また、幸運にも保存整備事業によって、800年の時を経て復元されている。ぜひ現地で多くの方々に庭園の魅力を知っていただきたい。また、庭園遺跡の調査・研究は、森蘊氏が積極的に実施した測量調査によって地形を読むことから始まった。研究史を踏まえ、今後も各地で発掘調査によって庭園の実態が明らかにされることが望まれる。

参考文献
足利市教育委員会1995『法界寺跡発掘調査概要』足利市教育委員会
足利市教育委員会2008『樺崎寺跡(法界寺跡)発掘調査概要Ⅱ』足利市教育委員会
足立佳代2006「柿経」『季刊考古学』97号 中世寺院の多様性 雄山閣
鎌倉市教育委員会2001『国指定史跡永福寺跡−国指定史跡永福寺跡環境整備事業に係る発掘調査報告書』−遺構編− 鎌倉市教育委員会
大澤伸啓1998「寝殿造系庭園と浄土庭園」『日本庭園学会誌』16 日本庭園学会
大澤伸啓2007「東国の浄土庭園」『日本庭園学会誌』6 日本庭園学会
神奈川県立歴史博物館2022『永福寺と御家人–荘厳される鎌倉幕府とそのひろがり−』合同会社 小さ子社
福田誠1998「鎌倉永福寺の発掘庭園」『日本庭園学会誌』6  日本庭園学会
清野孝之ほか2000「法華寺阿弥陀浄土院の調査一第3 1 2 次」『奈良文化財研究所年報』2000−Ⅲ 奈良文化財研究所

公開日:2024年1月30日

足立 佳代あだち かよ日本庭園学会理事

足利市教育委員会で文化財保護行政に携わり、樺崎寺跡の発掘調査・保存整備事業を担当する。