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考古学

庭園と考古学の関係

杉本 宏 / Hiroshi Sugimoto

京都芸術大学 日本庭園・歴史遺産研究センター 主任研究員 芸術学部客員教授

宇治市街遺跡発掘の平安期庭園遺跡(京都府宇治市 )(提供:宇治市 2004年)

庭園と発掘調査

「庭園と考古学」と聞いて、すぐさまいくつかの庭園遺跡や庭園の発掘調査を思い浮かべる考古学・埋蔵文化財関係者は、多くはないと思う。「庭園」は「造園」か「庭園史」、考古学とは縁遠いという感じがあるのではないかと思う。しかし現在、庭園の考古学的発掘調査は珍しいことではない。珍しいことではないというより、庭園遺跡の発掘調査のみならず、文化財庭園の修理・整備に際しても事前に発掘調査が行われ、その成果を修理・整備に反映させることは基本的な手続きとなっている。しかしながら、このような状況はさほど昔からのものではなく、この20年前後の中で順次獲得されてきたものであると思う。

 

庭園研究者の森蘊氏によれば、庭園遺跡の最初の発掘は昭和7年の鎌倉永福寺跡でのことであるという。本格的なものではないが、堂跡の礎石や池底の敷石などを確認されている。庭園整備にあたって、事前に発掘を行ったのは昭和35年の堺市南宗寺庭園のころからのようで、その後の文化財庭園修理では事前の発掘をされているという。全国的にみて、文化財庭園の最初の発掘は、昭和6年の京都市の慈照寺上部庭園での石組であるらしいが、これは整備工事に伴い偶然発見され発掘されたものという。本格的な文化財庭園の発掘は、文化財保護委員会による昭和27年の平泉無量光院跡の伽藍と浄土庭園の調査と思われる。平泉ではその後、昭和29年から31年にかけて観自在王院跡、昭和30年から33年にかけて毛越寺跡、昭和34年から43年にかけて中尊寺での伽藍と浄土庭園の発掘が、藤島亥治郎氏を代表とする平泉遺跡調査会によって行われており、庭園研究者が参加している。

 

庭園遺跡の発掘は、おおむね昭和初期に萌芽があり、戦後の昭和30年前後から本格的にはじまっている。すなわち、それなりの歴史的厚みを持っているとしてよい。ただし、それは庭園研究者による考古学的手法の援用による発掘が主であり、考古学研究者の関与は希薄であったということであろうか。ここでは、その後の庭園と考古学との関係を瞥見しつつ、展望について述べたい。

庭園遺跡と考古学

昭和も40年代後半に入ると、高度成長期の開発に伴う埋蔵文化財発掘調査が急増する。それに伴い、自治体の埋蔵文化財担当職員も増加してゆく。この状況の中で庭園遺跡の発掘調査も全国的に相次ぐようになってゆく。具体的に実数を挙げることは無理があるが、古代以降の都市遺跡あるいは寺院跡などであれば、かなりの頻度で庭園遺跡に遭遇しているはずである。少し事例を挙げると、継続的に庭園遺跡が調査され続けている例として、京都市の鳥羽離宮跡がある。鳥羽離宮は白河天皇により応徳三年(1086)に洛南鳥羽に造営が開始された離宮で、広大な園池が存在した。昭和13年の森蘊氏による鳥羽離宮跡の測量図をみると、園池は完全に水田化し築山であった「秋の山」が名残を留めている程度であった。離宮跡付近は名神高速道路の京都南インターチェンジ予定地となり、昭和35年に杉山信三氏により発掘調査が始められている。以来60年にわたって150次に及ぶ開発に伴う発掘が行われ、御所跡や仏堂跡そして園池遺構が発掘された。このなかで、園池の造成方法や石組・州浜など構築手法あるいは御所や御堂との関係など、かなり当時の具体的な状況が確認できている。また平安京内の緊急発掘でも、部分的ではあるが平安から近代に至る庭園遺構が多数検出されている。話題となったものとしては、昭和50年に発掘された華麗な流れの平城京宮跡庭園、昭和52年に明日香村で発掘された蘇我馬子や草壁皇子の邸宅跡島庄遺跡の方形池、平成3年に三重県伊賀市で発掘された古墳時代前・中期の湧水祭祀遺跡の城之越遺跡は後の庭園遺構と類似する石組を用いたもので、史跡と名勝に指定され保存された(写真1)。多くの庭園遺跡の発掘調査事例は、従来の庭園史を具体的に理解し検証する原動力であった。

写真1 史跡・名勝城之越遺跡(三重県伊賀市 )(撮影:筆者 2004年)

全国の発掘調査において、庭園遺跡もそれなりの調査件数と成果を積み上げ続けている。緊急発掘は調査後に開発行為が進められるため、多くの場合遺跡は消滅することになるが、それゆえに徹底的な発掘が行われ具体的に遺構の構造が解明できることになる。逆説的ではあるが、これによって庭園史研究はその具体性と精緻さを獲得してきた。そして現在を瞥見するに、はたして考古学分野の庭園に対する関心はどうなのであろうか。局面的な研究深化はあるものの、総じて発掘実績に比べて見劣りするというほかない。

文化財庭園と考古学

史跡・名勝などに指定される文化財庭園の発掘調査と整備は、昭和40年代くらいまでは、主に大学や国の研究機関の庭園研究者により行われていた。しかし、前述の流れの中で昭和50年代半ばから自治体が中心になって行われるようになる。この動きが、庭園と考古学との関係に大きな影響を与えてゆくことになる。

 

少し初期の例を挙げると、平泉の特別名勝毛越寺庭園では、昭和55年から平成2年にかけて平泉町教育委員会が発掘調査で見つかった州浜や遣水などの復元整備を行っている。史跡及び名勝平等院庭園では、平成3年から14年にかけて発掘調査を宇治市教育委員会が担当して実施し、発掘された鳳凰堂周囲の洲浜や橋の再現整備が行われている(写真2)。史跡では浄土庭園を持つ鎌倉の永福寺跡が、鎌倉市教育委員会が中心となって昭和58年から平成8年にかけて行われ、広大な園池と堂跡の復元整備が平成29年に完了している。赤穂城跡の本丸庭園跡では、赤穂市教育委員会によって発掘調査が行われ、石組を伴う園池の復元整備が平成2年に完了し、平成14年に名勝の指定を受けている(写真3)。足利市の樺崎寺跡では、足利市教育委員会によって昭和59年から発掘調査が開始され、園池の復元整備が平成19年に完了している。中世守護大名の居館跡である山口市の大内氏館跡では昭和53年から発掘調査が山口市教育委員会によって開始され、平成4年に池泉庭園跡の発見、平成23年に復元整備が完了している。また平成9年の発掘で見つかった枯山水庭園跡は平成17年に復元整備されている。

写真2 1997(平成9)年時点の鳳凰堂前面庭園発掘状況(撮影:寿福滋 提供:宇治市)

写真3 史跡・名勝旧赤穂城庭園本丸庭園(兵庫県赤穂市 )(撮影:筆者 2012年)

これらの文化財庭園の発掘・整備に直接関わった各自治体の文化財職員は、大学で考古学を学んだものが大半である。この整備事業を介して考古学・埋蔵文化財関係者と庭園研究者・技術者との出会いがあるわけだが、ポイントは長期にわたる整備事業期間が両者間の理解を深め、気づきを促すことに寄与したことと、発掘だけでなく「庭園整備」をともに実施したという点にある。生きている庭園の整備や遺跡化した庭園の再現整備は、一般的な史跡整備のように遺構の時期・位置・形態・機能などの客観的事実の再現が基本であるうえに、具体的には微地形や植栽や水の動きや素材等の色彩など、さらには景観や見立てや宗教性などの、景色の「意味」や「美」という精神性を意識することが必須となる。そしてそれは、発掘調査で検出される池や石組や州浜や流れなどの形状や技術の見方に具体的にフィードバックされ、庭園景色の意味や美との関係を考えてゆくことになる。「庭園考古学」というものが今後できてくるとすれば、ここにその胚胎があったというべきだろう。

庭園考古学を育む

庭園の発掘調査で大切なのは、以上のような個々の要素への客観的分析とともに、庭園景色の「意味」・「美」に関する精神性の追求であり、その具体的客観的な造形表現へのまなざしである。大地に刻まれた痕跡とモノを対象とし、客観視を本領とする考古学には、少しばかり不得手感がある範囲ではある。庭園考古学が一つの分野としてカテゴライズされるとすれば、この点は大きな考えどころである。すなわち、造形物をその形にたらしめている精神性を、具体的なモノとどの様に関係づけて解読するか、ということである。従来の考古学は「形とモノ」との関係性を軸に、具体的に歴史を解読してきた。庭園では「形とモノ」に加え、より人の精神と関係する事象とモノとの関係性を読み解いてゆく必要がある。端的に言えば「人の創造性とモノとの関係性」であろう。

写真4 史跡赤土山古墳家形埴輪祭祀遺構(奈良県天理市)(撮影:筆者 2012年)

さて、この20年くらいの間で、古墳の発掘調査で面白いものが見つかっている。奈良県広陵町の全長200mの前方後円墳巣山古墳の濠中から見つかった異形の島状遺構がある。この遺構は一辺15mの方形の島の二角がヒトデ状に張り出し、縁には石積がされ、ところどころに石が建てられている。葺石とは技法が違う。島の岸は拳大の礫で州浜状に整えられ、島上には家形埴輪や水鳥形埴輪などが立て並べられていた。もう一例は天理市の赤土山古墳である。解説板によれば丘陵上に築造された全長106mほどの前方後円墳で、後円部裾に石積で入江あるいは谷と台地の造形を行い、家形埴輪などが後円部を背景に樹立されていた。家形埴輪祭祀遺構とされる(写真4)。これらがいったい何であるかは答えられないが、着目すべきは、これらが実景か空想的景観かは別として、墳丘を背景に地形や構造物・建築物を縮景して景観的に造形表現されている点である。まさに「見立て」であり庭園に通底する手法である。

 

遺跡庭園や文化財庭園の調査研究のみならず、「庭園」の発生とその変遷、いわば「庭園」とは何かという根源的な問いをも含めて、広く庭園を考古学的に考究する流れが広がってゆくことに期待したい。

参考文献
小野健吉『日本庭園-空間の美と歴史』岩波新書1177、岩波書店 2009年
河上邦彦 『シリーズ遺跡を学ぶ026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』、新泉社 2006年
菅野成寛(監修)・及川司(編)『平泉を掘る 寺院庭園・柳之御所・平泉遺跡群、平泉の文化史1 吉川弘文館 2020年
杉本宏「庭園と考古学」『文化財庭園の整備と考古学-庭園考古学へのいざない-』、庭園学講座ⅩⅩⅦ 京都芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センター 2021年
鈴木久男 『シリーズ遺跡を学ぶ131 平安末期の広大な浄土庭園 鳥羽離宮跡』、新泉社 2018年
森蘊『日本庭園史話』、日本放送出版協会 1981年

公開日:2023年12月15日

杉本 宏すぎもと ひろし京都芸術大学 日本庭園・歴史遺産研究センター 主任研究員 芸術学部客員教授

1956年生まれ。龍谷大学文学部史学科卒。宇治市の文化財専門職員として史跡及び名勝平等院庭園の調査・整備事業、重要文化的景観「宇治の文化的景観」の選定整備に関わる。2018年に京都芸術大学芸術学部歴史遺産学科教授、2023年から現職。