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考古学

江戸の発掘庭園

谷川 章雄 / Akio Tanigawa

早稲田大学人間科学学術院教授

旧浜離宮庭園 松の御茶屋(撮影:筆者)

はじめに

近世都市江戸の考古学は、1970年頃から注目されるようになり、1980年代中頃から発掘調査件数が増加した。そのなかで、大名屋敷や旗本屋敷をはじめとする庭園の発掘事例が蓄積されてきており1)、文化財庭園として現存する小石川後楽園、旧浜離宮庭園、旧芝離宮庭園などの整備にかかわる発掘調査が行われている2)。ここでは、近年の成果を加えて、改めて都市江戸の発掘された庭園をめぐる問題を考えてみることにしたい。

発掘された大名庭園

江戸の大名屋敷には、池を中心にした大規模な回遊式庭園が造られた。山の手の大名屋敷では武蔵野台地の起伏のある地形を利用した庭園が営まれている。山の手の発掘された大名庭園の事例としては、尾張藩市谷邸(上屋敷)の楽々園と戸山荘(下屋敷)がある。

 

尾張藩市谷邸は、明暦2年(1656)に尾張藩徳川家がこの地を拝領した。楽々園の発掘では、藩邸北東側の長延寺谷にのびる埋没谷地形を利用した深い池が確認された。池にともなう遺構は、東岸の乱杭護岸、野面積み・間知石積みなどの石組護岸、北西の御船小屋の船渠と覆屋、土塁に囲まれた平場へ降りる階段、石敷、轆轤、植栽列、掘立柱塀などである。御殿は池を望む東側に位置していた。また、短冊形の溝状の区画が並んだ御花壇が発掘されており、この花壇の植物の用途は、観賞用、食用・薬用、儀礼用など専ら藩主に関わるものであった(図1)3)

図1 尾張藩市谷邸の御花壇(新宿区市谷本村町遺跡調査団1993『尾張藩徳川家上屋敷跡』、一部改変)

尾張藩戸山荘は、17世紀後葉の2代藩主徳川光友による「山御屋敷」の時代と、9代宗睦による「戸山荘」の時代に区分される。発掘調査では、カニ川の谷を利用した大泉水の護岸の杭列・柵が検出された。御殿などは大泉水を見下ろす南側の台地上にあった。大泉水の下流にあった龍門滝にともなう2ヵ所の堰、龍門橋の橋台、沢渡および水路が発掘された。龍門滝は小石川後楽園の白糸の滝に類似する大規模なものであった(写真1)。また、17世紀後葉にボタンが栽培されていた花壇が発掘されている4)

写真1 尾張藩戸山荘の龍門滝(新宿区戸山遺跡調査会 2003『尾張藩徳川家下屋敷跡』Ⅱ)

図2 仙台藩芝口邸(下屋敷)の池(東京都埋蔵文化財センター 1997『汐留遺跡』Ⅰ、一部改変)

海岸の大名屋敷では、干潟や湿地を埋め立てた盛土層が認められ、そこに庭園が作庭されている。発掘された海岸の大名庭園の代表的な事例は仙台藩芝口邸である。

 

仙台藩伊達家は、寛永18年(1641)にこの地を下屋敷として拝領し、海岸を埋め立てて屋敷を造営した。下屋敷の中庭にあった石組の魚溜のある、間知石の石組護岸の池などが発掘されている(図2)。延宝4年(1676)以降の上屋敷では、3時期の盛土層が確認された。表向の庭園の池は石組護岸で一部杭列が認められ、中島、岩島と橋があり、玉川上水を滝から引き込んだ流れには沢渡があった。庭園の一角には堀で囲まれた建物跡が検出されている。奥向の庭園の池は玉石護岸で、岩島がつくられていた。これらの池は、山の手の大名庭園の池と比較すると浅い。長屋付近には、甕の魚溜のある玉石護岸の池があり、能舞台の脇からは、池底に漆喰を敷いた、甕と桶の魚溜のある池が検出された。他に、切石の石敷きに砂利を敷いた池底を有する、間知石の石組護岸の池があった5)

 

海岸の大名庭園には海を望む景観が形成され、潮入の池があったことで知られるが、仙台藩芝口邸(上屋敷)の表向の池は潮入ではなく、玉川上水が池水に用いられていた。海に面した熊本藩八丁堀邸(下屋敷)6)の石組護岸の池でも上水が引き込まれており、同様の事例であろう。

浜御殿と水戸藩小石川邸の後楽園

写真2 旧浜離宮庭園 横堀の潮入(撮影:筆者)

特別名勝及び特別史跡である旧浜離宮庭園は、承応3年(1654)に甲府宰相松平綱重の屋敷が造営され、宝永6年(1709)に綱重の子・綱豊が6代将軍家宣となって、徳川将軍家の別邸「浜御殿」と称するようになる。

 

これまで籾倉跡、横堀や大泉水および中島・小の字島、海手お伝い橋・中の橋・中島橋、中の御門、旧稲生神社、内堀、松の御茶屋・燕の御茶屋・鷹の御茶屋、外周石垣などの整備にともなう発掘調査が行われている。とくに、横堀の潮入のところから、17世紀後葉から18世紀前葉頃の石垣石の護岸が確認され、潮が満ちてきたときに滝のような景観をつくり出したのではないかとされる(写真2)。また、大泉水周辺では、宝永4年(1707)の大改修のときの埋め立て土が確認されている7)

特別名勝及び特別史跡である小石川後楽園は、寛永6年(1629)初代藩主徳川頼房が水戸藩小石川邸(上屋敷)に作庭し、2代藩主光圀が完成させた「後楽園」である。

 

これまで大泉水、内庭、石橋、蓮池、白糸の滝および周辺、唐門および袖塀・脇塀などの整備にともなう発掘調査が行われた。とくに、白糸の滝の滝下の流れから発掘された板敷は類例のない施設である(写真3)。こうした調査成果にもとづく庭園の歴史的変遷が明らかにされた8)。この地にあった「小石川大沼」と称する低地に大規模な盛土が行われ、屋敷が造営され、庭園が作庭されたことが判明している9)

写真3 小石川後楽園 白糸の滝と流れの板敷(撮影:筆者)

小石川谷の武家屋敷の庭園

ここでは庭園と旧地形の関係について、東京都文京区小石川一丁目遺跡の小石川谷に造営された武家屋敷の庭園の事例を見ることにしたい10)。この地は、寛永12年(1635)に小倉藩小笠原家が拝領して小倉藩小石川邸(中屋敷)とし、17世紀後葉以降は主に高禄の旗本屋敷から低禄の旗本・御家人屋敷となった。

写真4 小石川一丁目遺跡の池(テイケイトレード株式会社2022『小石川一丁目遺跡』)

これらの武家屋敷は、17世紀前葉・後葉・18世紀前葉という3時期の盛土をともなう屋敷が造営されて池がつくられたが(写真4)、それは庭園の池と思われるものだけでなく、方形や逆L字形を呈する溜池や浸透桝のようなものも見られた。とくに旗本屋敷の池は屋敷地の2~4割を占めていたと推定される。立地は、小石川(谷端川)が形成した低地で周辺の湧水や雨水が集中する場所にあり、享保13年(1728)には大水害に見舞われた。このような小石川谷の武家屋敷の庭園の池は、他方で湧水や雨水などの調整を行う機能を有していたとされる11)。同様のあり方は、低地を埋め立てる過程でできた、水寄せのための池を庭園の池として利用している本所の武家屋敷にも認められる12)

江戸の都市生態系の中の庭園

これまで、都市江戸の発掘された武家屋敷の庭園について、とくに屋敷の造営と旧地形、庭園の作庭の関係を述べてきた。江戸の大名屋敷の発掘調査では、屋敷内の大規模な土取り・切土・盛土・版築という造成や御殿・長屋などの建物の建築などの普請の実態が明らかにされている。大名庭園の作庭はこうした大名屋敷の普請の中に位置づけられるため、庭園の作庭に関わる技術と大名屋敷の普請との関係を検討する必要があるだろう。

 

旧地形との関係については、山の手の大名屋敷では武蔵野台地を浸食した谷などの起伏のある地形を利用した庭園が営まれた。海岸の大名屋敷では、干潟や湿地を埋め立てた盛土層が認められ、そこに庭園が作庭されている。小石川谷の武家屋敷の庭園の池は、他方で湧水や雨水などの調整を行う機能を有していたと考えられており、本所の武家屋敷では、低地を埋め立てる過程でできた水寄せのための池を庭園の池として利用している。こうした旧地形のあり方は、屋敷の普請とも関わる問題である。

辻誠一郎氏は、「江戸都市生態系と大名庭園」という小文の中で、「緑の小宇宙が都市の中で造り出され、それら多数の広大な庭園が巨大都市生態系を成り立たせていたと観ることができる」と述べているが13)、上述の屋敷の造営と旧地形、庭園の作庭の関係はそうした都市生態系の中に包摂されるものであろう。


1)谷川章雄 「発掘された江戸の庭園」『日本造園学会誌 ランドスケープ研究』Vol.61 No.3、1998年;谷川章雄 「江戸の大名屋敷と庭園」『日本庭園学会誌』30、2016年
2)谷川章雄 「文化財庭園の発掘調査と江戸の庭園の考古学」『都市公園』229、2020年、東京都公園協会;谷川章雄「総論 近世大名庭園の考古学」『考古学ジャーナル』781、2023年
3)新宿区市谷本村町遺跡調査団(編)『尾張藩徳川家上屋敷跡』1993年;新宿区市谷本村町遺跡調査団(編)『市谷本村町遺跡』Ⅳ、1999年;東京都埋蔵文化財センター(編)『尾張藩上屋敷跡』Ⅳ、1999年
4)新宿区戸山遺跡調査会(編)『尾張藩徳川家下屋敷跡』Ⅱ、2003年;株式会社四門(編)『尾張藩徳川家下屋敷跡』Ⅸ、2016年;大成エンジニアリング株式会社(編)『尾張藩徳川家下屋敷跡』Ⅹ、2018年
5)東京都埋蔵文化財センター(編)『汐留遺跡』Ⅰ・Ⅱ・Ⅳ、1997・2000・2006年
6)中央区教育委員会(編)『日本橋兜町遺跡』、2023年
7)仲光克顕「将軍家の庭園~浜御殿跡の調査」『考古学ジャーナル』781、2023年
8)池田悦夫 「小石川後楽園の整備と考古学」『考古学ジャーナル』781、2023年
9)文京区教育委員会 (編)『国指定特別史跡及び特別名勝小石川後楽園大泉水護岸修復工事に伴う第一次確認調査』、2016年
10)テイケイトレード株式会社(編)『小石川一丁目遺跡』、2022年
11)石井たま子「小石川一丁目遺跡の江戸時代から近代について」『小石川一丁目遺跡』、2022年
12)墨田区江東橋二丁目遺跡調査団(編)『江東橋二丁目遺跡』、1997年
13)辻誠一郎「都市生態系と大名庭園」『考古学ジャーナル』781、2023年

公開日:2024年4月1日

谷川 章雄たにがわ あきお早稲田大学人間科学学術院教授

1953年東京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。早稲田大学教育学部助手、人間科学部専任講師、助教授を経て、人間科学学術院教授。博士(人間科学)。専門は近世考古学。1980年代から近世都市江戸の遺跡の調査及び文化財庭園の整備にかかわる。主な論文は、「江戸の大名屋敷と庭園」『日本庭園学会誌』30 2016、「文化財庭園の発掘調査と江戸の庭園の考古学」『都市公園』229 東京都公園協会 2020など。

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