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考古学

考古学と地元コミュニティ~スーダン・ヌビア地域のランドスケープ~

伏屋智美 / Tomomi FUSHIYA

ライデン大学考古学部博士課程

考古学は、発掘された建物跡やものを通じて、各々の土地の歴史を解き明かす学問である。しかし、日本や西欧と異なり、北米やオーストラリアを含めた植民地支配を経た土地では、そこに暮らす人々、彼らの視点や知識、引き継がれてきた文化とは切り離されて歴史が解釈され、また研究結果も彼らに届くかたちで共有されることはほとんどなかった。その一方で、考古学者でない地元の人々は、何も知らず、興味もなく、遺跡を破壊すると一方的に批判されてきた。

この数十年の間に、欧米では、考古学の方法論や歴史が再評価されている。パブリック考古学1)や文化遺産保存の分野では、 各々の地域の社会・歴史的な背景や環境についての理解を踏まえた上で、どのようにより社会に根ざした考古学や遺跡保存を実施するかについて議論が高まっている。

私は2015年からスーダン北部において、 地元の人々の視点からみた遺跡、地元の歴史、考古学について理解を深めながら考古学と地元の関係を探っている。最終的にはコミュニティ考古学2)を通じて外国人考古学者が地元の人々とともに、地元社会へどのように持続可能な貢献ができるか、というモデル構築を目指している。

スーダンとアマラ西の位置 筆者作成

ここでは、数回に分けて私の研究とスーダン・ヌビア地域の文化遺産を、大きく変化しつつある日常的景観とともに紹介していきたい。

アマラ西遺跡を発掘する考古学者と地元出身のワーカー 撮影:Amara West Research Project (British Museum)

私が調査対象にするアマラ西遺跡は、紀元前1300年頃に古代エジプトが上ヌビア地方を支配していた際に支配の拠点として建てられた街と墓地を中心とする遺跡である。2008年からイギリス・大英博物館の調査隊が調査をしている。保存状態が良好な街における調査では、当時の人びとがエジプトとヌビアの二つの文化のはざまで、どのような生活していたかについて研究が進められている。街が建設された当時はナイル川に浮かぶ島であったが、北側の支流が次第に干上がり、街での生活が困難になったために、紀元前1000年ごろ人々は対岸に街を移したと考えられている。そのため、遺跡は現在、南側を流れるナイル川以外には砂漠で囲まれ、現代の街は対岸や別の島に存在する。

アマラ西遺跡の古代の街:石製の脇柱が2つの住居への入口を示している  撮影:Amara West Research Project (British Museum)

考古学者にはアマラ西(対岸にはアマラ東村がある)として知られる遺跡だが、地元の人々にはアブカニサと呼ばれる。カニサはアラビア語で教会や寺院を指すことばである。現代の街・村の周辺には多くの未調査の遺跡が存在するが、遺跡に近いアマラ東村やエルネッタ島では「遺跡・古代神殿(ビルバ)」という言葉は、特にアマラ西遺跡を指して使われることもある。

古代の墓地の一つから、古代に干上がった北側の川のあとを眺める  撮影: Amara West Research Project (British Museum)

さて、この地域のことはほとんど知らない私がどのように調査をはじめたらよいだろうか。幸運なことに調査隊がアマラ西遺跡についての本を作成したので、地元の人々に配布する必要があった。地元出身のスーダン人考古学者に聞くと、「みんな調査隊のことは知っているから、家を訪ねなさい」と言われた。自己紹介をかねて、村の少年の運転するロバに引かせた荷車に本をつんで、家を一つ一つ回った。この地域では、アラブ湾岸諸国や首都ハルツームなどの都市に出稼ぎに行く男性や家族が非常に多く、空き家となっている建物がとても多い。村の子供達が人の住んでいる家に案内してくれて助かった。考古学や修復の作業の合間に同僚たちも本の配布を手伝ってくれた。図書室ではなく図書棚しかないが小学校にも数冊寄贈した。同じ月、調査隊の隊長とスーダン人考古学者による公開レクチャーも開催した。

ロバに引かせた荷車でアマラ西遺跡についての本を地元の村に配布  撮影: Amara West Research Project (British Museum)

家を訪ねると家族みんなで出迎えてくれた  撮影: Amara West Research Project (British Museum)

村の子供達も本配りを手伝ってくれた  撮影: Amara West Research Project (British Museum)

本を配りながらの立ち話、本やレクチャーに対する村の人たちの反応、質問や意見は、私の調査の基礎となった。また、正直ショックだったのが、ある村人から「調査隊の人たちは、村の人たちと話したりしたくないのかと思っていた。」と言われたことだ。確かに、私たち考古学者が地元の人々と話す機会は限られているが、話したくないわけではない。村の人たちを労働者として雇い、朝食やお茶をともにしているだけでは、考古学者は孤立しているような存在と思われていることがよくわかった。

発掘調査中の朝ごはん。地元の村の各家庭のおいしいレシピを楽しめる 撮影:Amara West Research Project (British Museum)

だれが村一番のサッカープレヤーかを競って考古学者も参加 撮影:Amara West Research Project (British Museum)

色鮮やかなタバア(食べ物にかぶせて虫・ほこりよけするもの)地元の人がヌビアの文化遺産として紹介したものの一つ  撮影:Amara West Research Project (British Museum)

また、同時に開始したインタビューでは、村の人たちが遺跡をヌビアの文化遺産と考えていること、遺跡だけではない様々な建物、歌や詩、もの、言語、そして山やナイル川などの景観が文化遺産と捉えられていることもわかった。考古学者は自身が調査する遺跡だけに注目しがちである。しかし、遺跡が文化遺産と考えられているのであれば、他の文化遺産と合わせて総合的に地元の文化と歴史を捉えていくことは、遺跡保存のためにはとても重要なことである。また大きな視点、現在にいたる長い地元の歴史文化のなかで遺跡をとらえることで、別の視点から考古学研究内容を再解釈することができるであろう。


(1)    考古学と現代社会の関係を研究し、さらにその関係を改善していく方法を探求する考古学の分野
(2)    地元コミュニティや先住民コミュニティなど、ある特定の社会集団と考古学の関係に注目して研究を実施する、パブリック考古学に含まれる研究分野

公開日:2016年11月14日

伏屋智美ふしやともみライデン大学考古学部博士課程

1981年愛知県生まれ。早稲田大学で学士、イギリス、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンにおいて遺跡マネジメント修士号取得。日本、アメリカ、イギリス、エジプトにおいて考古学や遺跡修復マネジメントプロジェクトに従事したのち、現在スーダンにおける考古学と地元コミュニティの関係について研究をおこなっている。近著に野口淳、安倍雅史編『イスラームと文化財』の「エジプト・「アラブの春と文化財」」がある。

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