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考古学

南アジア文化遺産の世界 第3回-現生人類ホモ・サピエンスの旅路-

野口 淳 / Atsushi NOGUCHI

NPO法人南アジア文化遺産センター理事・事務局長

人類2回目のグレート・ジャーニー

前回は南アジア最初の人類について、およそ200~150万年前にアフリカから世界各地へ進出した原人=ホモ・エレクトゥスの残した遺跡についてふれた。

ところで原人たちが足跡を残したのは、ヨーロッパ中南部~中央アジア南部~中国中北部までで、それより北には到達していない。現在のインドネシアにあたる島嶼部では、海を越えていくつかの島に到達したもののパプアニューギニアにはたどり着かなかった。オーストラリアと南北アメリカ大陸は、人類未踏の地のままだった。

それから100万年近くの間、世界各地に広まった原人はいくつかの異なる種に進化した。南アジアでは、インド中部マドゥヤ・プラデーシュ州のナルマダ川で発見された化石人類(ナルマダ人)が知られている。これは、かつて原人とされたが、今ではもう少し新しい、およそ30万年前のハイデルベルグ人(ホモ・ハイデルベルゲンシス)と同時代の古代型人類だと考えられている。その後、ヨーロッパ~西アジアにかけてはネアンデルタール人、シベリアにはデニソワ人、インドネシアのフローレス島にはフローレス人があらわれた。そしておよそ20万年前、アフリカでは古代型人類から、私たち現生人類に直接つながる祖先が進化した。ホモ・サピエンスである。

それから10万年ほどの間、ホモ・サピエンスはアフリカの中で技術と文化を発展させた。洗練された石器と骨角器づくりの技、貝やダチョウの卵殻を材料としたビーズ、赤色顔料による絵画や石を刻んだ彫刻などが次々に現れた。その間、暮らしの場所も、サバンナから熱帯雨林、海岸から砂漠まで広がった。そしてついに、アフリカの外に足を踏み出したのである。

10~7万年前のホモ・サピエンスの足跡は、まだ地中海東岸(現在のイスラエル)やアラビア半島南部(現在のオマーン)に限られていた。ところが5万年前以降、急速に各地に広がっていく。ヨーロッパ、中央アジア、南アジアに、いくつもの遺跡が見つかっている。さらに原人の時代とは異なり、ホモ・サピエンスは、パプアニューギニアとオーストラリア、日本列島、シベリアなど、海を渡った先や寒冷地にも進出した。そしてついにはアメリカ大陸や太平洋の島々も版図に収め、最終的には地球のすみずみにまで分布範囲を広げたのである(図1)。

図1 ホモ・サピエンスの拡散

南アジアのホモ・サピエンス

ホモ・サピエンスの全世界への移住・拡散は、人類の進化史上、2度目の「出アフリカ」、すなわちアウト・オブ・アフリカ2とも呼ばれ、現在の先史人類学、考古学においてもっとも注目を集めている研究課題である1)。一般向けの書籍も多数出版されている2)。そのような中、南アジアはこの研究課題においても重要な位置を占めている。出アフリカを果たしたホモ・サピエンスがユーラシアで最初に定着して人口を増やし、アジア各地やオーストラリアへ広がっていった際の起点が南アジアだったのではないかという仮説が、遺伝人類学の研究によりあきらかに示されているからである。

遺伝人類学の証拠とは次のようなものである。現代のホモ・サピエンスには多様な遺伝型が認められるが、大別するとアフリカの集団だけに認められる型と、アフリカ以外にだけ認められる型がある。このため後者は、出アフリカ後に分化・変化したと言える。そしてそれら出アフリカ後に分化した集団の故地が南アジアにあり、ここからさらに各地の集団に分かれたと考えられる3)。しかしながら、考古学や化石人類学上の証拠は長らく希薄だった。そこで2000年代に入ると、インド、スリランカなどで遺跡の発掘調査が精力的に進められるようになった。

その結果、4万年前を前後する頃、インド中~南部からスリランカに、細石器と呼ばれる特徴的な石器技術を有したホモ・サピエンスがいたことが明らかにされた。細石器の技術は、ホモ・サピエンスの故地である東・南アフリカのものとよく似ており、さらにダチョウの卵の殻や石製のビーズも見つかっている。このことに気づいたイギリスの考古学者ポール・メラーズ(Paul Mellars)は「東へ(Going to the East)」と題した論文で、およそ6~5万年前に東アフリカからアラビア半島南東部の海岸部を経て南アジアへホモ・サピエンスの急速な拡散があり、そこからさらに東南アジア、オーストラリアまで至ったとする「沿岸特急(Coastal Express)」仮説を提示した4)

写真1 ジュワラプーラム遺跡群に立つラーヴィー・コリセッター氏(2014年1月筆者撮影)

しかしながら、現在までに発見され調査された遺跡は沿岸部より内陸部に多く、また短期間に通過したというよりは地域ごとの環境に適応した痕跡が残されている。このため、インドのラーヴィー・コリセッター(Ravi Korisettar:写真1)をはじめとする研究者らは、初期のホモ・サピエンスは内陸を含め着実に定着しながらアジア各地へ広がっていったと主張している。一方のメラーズは、沿岸部の調査はほとんど進んでおらず、また氷河期の終わりとともに起こった海面上昇によって水没した遺跡も少なくなかったはずだと反論している。

いまのところ、考古学、化石人類学の証拠はともに、4万年前を前後する頃、短期間に南アジアから東南アジア~オーストラリアまで人類が広がった可能性を強く支持するが、現在のインドネシア島嶼部に至るより前の沿岸または海洋適応の様相は全く不明である。この論争に決着がつくには、まだまだ時間がかかりそうである。

写真2~3は、サヴァンナ~草原的な環境の広がるインド南部アーンドラ・プラデーシュ州のジュワラプーラム遺跡群の景観である。写真2は農業用のダムによる溜め池だが、旧石器時代にも盆地の中心部には雨季を迎えるごとに湿地が広がり、そこに集まるシカなどを狙う狩人たちが丘陵の裾の巨岩の陰にキャンプしていたのだろう(写真4)。岩陰の遺跡からは、3万年を遡る細石器、ビーズ、鹿角製の銛先などが出土している(写真5)。

写真2 ジュワラプーラム遺跡群全景(西から)(2014年1月筆者撮影)

写真3 ジュワラプーラム遺跡群に隣接する農業用ダムのため池(乾季) (2014年1月筆者撮影)

写真4 ジュワラプーラム第9地点(岩陰遺跡) (2014年1月筆者撮影)

写真5 後期旧石器時代の石核(ジュワラプーラム第9地点付近)(2014年1月筆者撮影)

写真6~7は、スリランカ中部のバダドンバ・レナ洞窟5)である。谷筋の道路から、ゴムのプランテーションと二次林の斜面を片道1時間半登ったところに位置する。水牛などの大型動物の化石が出土する谷合を一望できる場所にあるが、発掘調査によると、サルや鳥など熱帯雨林にすむ中~小型の動物や野生のバナナなどの植物をおもな食料としていたことが判明した。最下層の年代は4万年前に近く、スリランカに到達したホモ・サピエンスは早くに山岳の熱帯雨林に適応したことが分かる。しかしジュワラプーラム遺跡群とバダドンバ・レナ洞窟から出土する石器はよく似ている。どうやら石器技術の類似または相違は、生活の違いを直接示さない場合もあるようだ。

写真6 バダドンバ・レナ洞窟外観(写真右手に開口部)(2016年1月筆者撮影)

写真7 バダドンバ・レナ洞窟から山麓を臨む(写真左は野生種のバナナ) (2016年1月筆者撮影)

ホモ・サピエンスの拡散における南アジアの重要性

同じころ、中央アジアからシベリア方面へ、あるいは西アジアからヨーロッパ中・北部へ広がったホモ・サピエンスは、ウマ、シカ、トナカイなどの大きな群れを狩ることに適応していた。現在のインドネシアや、日本の琉球列島(沖縄)のホモ・サピエンスは、海岸で貝を集めて貝塚を作り、貝殻を磨いて作った釣り針でマグロなど遠洋の大型魚を含む海産資源を利用していた。こうした多様な環境への適応能力の大きさこそが、出アフリカ後のホモ・サピエンスが世界各地へ急速に広まっていった理由であろう。

なお、ホモ・サピエンスが世界各地へ広がっていった時期は、氷河時代の中でももっと寒冷化が進んだ時期(最寒冷期)でもあった。かつてない規模で発達した大氷河は、海水面の低下を招き、海峡で分断されていた島や大陸を陸橋でつないだ。こうした地形環境がホモ・サピエンスの急速な拡散の背景にあったことは確かである。と同時に、氷河時代最寒冷期の、もっとも厳しい気候環境を乗り越えるために発揮されたであろう能力もまた、世界各地への進出の原動力になったに違いない。

そのような時代にあっても、ユーラシア全体の中では南に位置し、インド洋の影響により比較的な穏やかな気候が保たれていた南アジアは、故地アフリカの環境に似ていることも含め、出アフリカ後のホモ・サピエンスにとっては重要な避難地であるとともに気力を養うための場でもあったのだろう。とくに最寒冷期にはアフリカ北部からアラビア半島にかけての砂漠がいま以上に広がり、その環境もきわめて厳しいものであったことから、ひとたび出アフリカを果たしたホモ・サピエンスは容易には故地に戻ることができなくなっていたと考えられる。氷河時代の厳しい環境への挑戦がホモ・サピエンスの進化と拡散に大きな影響を与えた時、同時に南アジアのより暮らしやすい環境は人口を維持し各地へ広がるための第2の故郷となっていたのではないだろうか。

番外編:現代南アジア社会と人類進化の考え方

ところで、日本ではほとんど気にかけることもないのだが、聖書至上主義にもとづくキリスト教原理派の影響が根強いアメリカなどでは、過去数百万年にわたる人類の進化という考え方自体を否定し、独自の世界観と年代観を信じる人たちも少なくない。

それでは多様な宗教が根づく南アジアでは、人類の進化という概念はどのように受け入れられているのだろうか? たとえばインドで多数派を占めるヒンドゥー教徒の間では、一般的には人類の進化や先史考古学の成果と宗教とは別のものとして受け入れられるか、または信心深い人たちにとって考古学や人類学はほとんど興味がないもののようである。また南アジアのキリスト教徒の間では、聖書至上主義は広がっていない。

それではヒンドゥー教につぐ信徒数を擁するイスラーム教の場合はどうなのだろうか? イスラーム教もまた、キリスト教徒同じく旧約聖書を聖典のひとつとしており、唯一神(アッラー)が万物を創造したと信じている。この点で、サルと共通する祖先から人類が進化したという概念は、宗教的には受け入れ難いのだという。一方で、聖書などに記された創造の過程に関する年代観は聖書至上主義に立つ一部のキリスト教徒とは異なり、よりゆるやか、かつ長い時間の流れを想定しているという。最初に農業をはじめたカビール(旧約聖書のカイン)がおよそ1万年前に生きていたという理解は、新石器時代のはじまりに関する考古学的知見と整合的である。また人類が、ヒトとして変化(進化)して世界各地へ広がっていったという考え方も、それが唯一神の導きによるという理解にもとづけば許容されるのだという。

これらはあくまで、いくつもの宗派・法学派に分かれているイスラーム教の中で、スンニ派ハナフィー学派に属するイスラーム法学者の解説にもとづいたものであるが6)、基本的に、イスラーム教徒の間では人類の誕生のような種の進化に関わる事柄はともかく、それ以降の人類学・考古学に関する研究と宗教の両立はそれほど難しくないようである。世界で最も厳しいイスラーム教国とされるサウジアラビア王国でも旧石器時代遺跡の調査研究が進められていることからも、こうした理解はおおむね間違っていないと言えるだろう。

 


(1)    国際的な研究プロジェクトがいくつも進められているが、東京大学総合研究博物館の西秋良宏教授を代表とする文部科学省科学技術研究費新学術領域研究「パレオアジア文化史学」は、日本の研究者らがアジアにおけるホモ・サピエンスの拡散を追及するプロジェクトであり注目される(http://paleoasia.jp)。
(2)    最新の成果をまとめた日本語の文献としては、A.ロバーツ『人類20万年遥かなる旅路』文藝春秋 2013年、海部陽介『日本人はどこから来たのか?』文藝春秋 2016年、など。
(3)    遺伝人類学の研究に関する一般向けの邦訳書も多数あるが、代表的なものとしてS.オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』草思社 2007年、篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』岩波書店 2015年、など。
(4)    P. Mellars Going East: new genetic and archaeological perspectives on the modern human colonization of Eurasia, Science313: 796-800.
(5)    バタトンバ・レナ、バタトバレナなどと表記されることもあるが、同じ遺跡である。
(6)    パキスタン・ハザーラ大学イスラーム・宗教学研究室のムハンマド・リアーズ師(准教授)および考古学研究室のムハンマド・ザヒル准教授のご教示による。

公開日:2017年2月3日

野口 淳のぐち あつしNPO法人南アジア文化遺産センター理事・事務局長

1971年東京都生まれ。専門は日本と南アジア、アラビア半島の旧石器時代考古学。2004年よりパキスタンでの考古学調査に携わる。2014年にNPO法人南アジア文化遺産センターを立ち上げ、南アジア諸国での文化遺産の調査・保護の支援協力に乗り出す。著書に『イスラームと文化財』(共編著、新泉社)など。
NPO法人南アジア文化遺産センターwebサイト(http://jcsach.com)