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遺跡・史跡

イスラエル・パレスチナの文化遺産:ベイティン遺跡

間舎 裕生 / Hiroo KANSHA 

東京文化財研究所 アソシエイトフェロー

 

イスラエルとパレスチナ(パレスチナ自治区)は、日本の四国地方ほどの面積をもち、地中海沿岸の南東部に位置する(図1)。東に隣接するヨルダンとの事実上の国境線となっているヨルダン川は大地溝帯を流れており、海抜下400メートルにある塩湖・死海へと注いでいる。イスラエルやパレスチナを含めた「中東」というと、見渡す限りの砂漠を想像される方がいるかもしれない。じっさい、南部にあるシナイ半島には広大な砂漠が広がっている。一方で、ヨルダン川の水源を擁する北部には森林や湿地があり、標高が1000メートル近いエルサレム周辺には低木がまばらに立つ荒野が広がっているし、地中海岸の砂浜はリゾート地として開発されている。このように、イスラエルとパレスチナでは、狭い地域の中にさまざまな自然環境を見ることができる。

図1:イスラエル・パレスチナの位置

イスラエルとパレスチナは、エジプトとメソポタミアという二大文明に挟まれており、古くから多くの人や文化、モノが往来した。また旧約聖書の物語の舞台であり、後にはイエス・キリストが布教活動を行った土地でもある。とくに旧約聖書に登場する地名が現在でも残っており、その記述の史実性を確認するために、19世紀後半以降、欧米を中心とした研究者によって遺跡の発掘調査が行われてきた(間舎2015: 106)。日本の調査隊も、1960年代以降、合計4か所の遺跡で発掘調査を実施している。

ベイティン遺跡

私が現在発掘調査に参加している遺跡は、エルサレムから北へ15キロメートルほどの場所にある、パレスチナ自治区内のベイティンという村の中に位置する。ベイティンにはいくつかの遺跡があり、銅石器時代からビザンツ時代までの遺構が検出されているテル(遺跡丘)のほかに、渓谷の斜面に分布するローマ時代の墓域群、廃墟となった「塔」などが散在している。

 

ベイティンは旧約聖書に登場する「ベテル」という土地であったと考えられている。ベテルとは、旧約聖書の書かれたヘブライ語で「神の家」を意味し、族長のヤコブが宿営し、「天の梯子」の幻を見た場所である(創世記28: 11–22; 35: 1–15)。また、南北イスラエル分裂後は、北王国イスラエルの国家聖所となり、「金の子牛」が置かれた場所である(I列王記12: 26–33)。ベイティンにおいて、そういった記述に相当する時代の活動の痕跡を残しているのはテルであり、現在から80年以上前にアメリカ人の研究者によって発掘調査が行われた(杉本・間舎2013: 106–107)。

 

ベテルは、その後も宗教的に重要な場所であり続けたようである。キリスト教神学者のヒエロニムスは、ギリシア語で書かれたエウセビオスの『地名録』を紀元390年頃にラテン語に翻訳した際に、ヤコブの幻を記念した教会堂がベテルにあったと記している。19世紀以降は、ヨーロッパの研究者がパレスチナ地方を旅行し、記録を残すようになった。中にはベイティンを訪れた者もあり、先述の「塔」に教会堂の建材が使用されていることが指摘されている(Guérin 1868: 16; Robinson 1856: 448)。1874年にこの遺跡を訪れたコンダーとキッチナーも、「塔」に教会堂の柱頭が用いられていることをスケッチと共に紹介し、この場所がアブラハムの宿営した「ベテルの東」であろうと述べている(Conder and Kitchener 1882: 307)。

写真1:ブルジュ・ベイティン遺跡の「塔」(慶應義塾大学西アジア考古学調査団提供)

現在私たちが調査しているのは、この「塔」があるブルジュ・ベイティン遺跡である(写真1)。ブルジュとはアラビア語で「塔」を意味しており、約10メートル四方の塔の遺構が、調査開始前から6メートルほどの高さで露出していた。ブルジュ・ベイティン遺跡において発掘調査が行われるのは、これが初である。

教会堂の発見

発掘調査によって、「塔」の北側から、直径約6メートルの半円形の遺構が出土した(写真2)。このような形状の建物は、キリスト教会堂の祭壇である「アプシス」に典型的である。このほか、十字架を彫り込んだ石板や、祭儀に用いたと思われる土器なども同じ場所から出土し、ブルジュ・ベイティン遺跡にかつて教会堂が存在していた可能性が高まった。

写真2:出土した「アプシス」(慶應義塾大学西アジア考古学調査団提供)

遺跡の西側からは、約1.8メートルの間隔で据えられた2本の柱台を持つ、南北方向の壁が出土した(写真3)。この柱の間の部分を東に延長すると半円形遺構の最奥部に到達するため、これが建物の主要な出入口であったと想像される。また、教会堂は通常、東西方向に伸びる長方形を呈し、東に「アプシス」、西に出入口を設置することからも、この建物が教会堂であった可能性を支持している。建物の規模は東西約40メートルに達し、この地域の教会堂遺構の中でも大きなものの中に分類される。遺跡の南部からは、モザイクによって装飾を施された床も部分的に検出された(写真4)。

写真3:遺跡西端の出入口。奥に「アプシス」が見える(慶應義塾大学西アジア考古学調査団提供)

写真4:モザイクで装飾された床(慶應義塾大学西アジア考古学調査団提供)

キリスト教は、313年のミラノ勅令によってローマ帝国に公認され、392年には国教となった。これに伴い、5世紀以降大規模な教会堂が帝国各地に建設されるようになる。一方で、4世紀の教会堂というのは、イスラエル・パレスチナではエルサレムの聖墳墓教会、ベツレヘムの聖誕教会などごくわずかしか知られていない。ブルジュ・ベイティンの教会堂の建設時期を直接的に示す証拠はまだ出土していないが、ここがヒエロニムスの記述にある「ベテルの教会堂」であるとしたら、この遺構が4世紀には存在していた可能性も出てくる。調査が進めば、聖地エルサレムの近郊で、キリスト教がどのように発展していったのかということの一端を明らかにできるかもしれない。

 

ところで、遺跡の名前にもなっている「塔」も、教会堂の一部なのだろうか。「塔」の壁を観察すると、先に紹介した19世紀のヨーロッパ人の記述通り、本来別の建物に使用されていた石材が再利用されていることがわかる。つまり教会堂が使用されていたよりも後の時代の建設であり、おそらく12~13世紀の十字軍の時代のものと考えられる。また、このほかに13~16世紀のマムルーク朝時代の遺構や遺物も出土している。ブルジュ・ベイティン遺跡には青銅器時代や鉄器時代の居住は確認されていないが、ビザンツ時代以降さまざまな人々がこの地にやってきた証拠が残されている。今後は、あまり考古学的研究の進んでいない、エルサレム北部地域の歩んできた歴史を明らかにすることが期待される。

参考文献
(1)    間舎裕生 2015「パレスチナ―土地の歴史と文化財」野口淳・安倍雅史(編著)『イスラームと文化財』新泉社、104–109。
(2)    杉本智俊・間舎裕生 2013「二〇一二年度ベイティン遺跡(パレスチナ自治区)における考古学的一般調査」『史学』第82巻、105–127。
(3)    Conder, C. R. and H. H. Kitchener 1882: The Survey of Western Palestine: Memories of the Topography, Orography, Hydrography, and Archaeology, Vol. 2, Sheets VII–XVI, London: Palestine Exploration Fund.
(4)    Guérin, M. V. 1868: Descrioption géographique, historique, et archéologique de la Palestine: Judée, Vol. 3, Paris: L’imprimerie impériale.
(5)    Robinson, E. 1856: Biblical Researches in Palestine and the Adjacent Regions: A Journal of Travels in the Years 1838 by E. Robinson and E. Smith, Vol. 1, London: John Murray.

間舎 裕生東京文化財研究所 アソシエイトフェロー

1983年宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。同後期博士課程満期退学。慶應義塾大学文学部非常勤講師を経て現職。専門はイスラエル・パレスチナの考古学。近著に野口淳・安倍雅史(編著)『イスラームと文化遺産』の「パレスチナ―土地の歴史と文化財」(新泉社2015年)がある。