遺跡・史跡
旧大阪府庁舎跡の発掘調査
旧大阪府庁舎調査地全景(南から)(以下画像はいずれも公益財団法人大阪府文化財センター提供)
はじめに
図1 旧大阪府庁舎平面図
ここで紹介するのは、大阪市中央区大手前にある現在の大阪府庁舎以前に、1874(明治7)年から1926(大正15)年まで、現在の大阪市西区江之子島にあった旧大阪府庁舎跡である。この旧大阪庁舎は2代目なのだが、大阪府庁舎として初めて建設されたもので、初代の府庁舎は、中央区本町橋にあった旧西町奉行所を転用したものである。
この旧大阪府庁舎跡(図1)は、1872(明治5)年に着工し、1874年に竣工した。円形ドームの中央棟屋を持つ中央棟と小ぶりの南北両翼が付くものであった。なお、建物各棟の正式呼称は不明である。その後、1914・1915(大正3・4)年度に大改造が行われ、南北両翼の建物を取り壊し地階が存在する木造庁舎が新築され、1916年5月に竣工した。既存の中央棟は、正面玄関や中央塔屋はほぼもとのままで、内部は改造したとされる(葛野1931)。なお、明治・大正期とも、建築に関わる詳細な仕様書は未発見である。
現府庁舎移転後は、工業奨励館として使用されたが、1945(昭和20)年の空襲により、現在も江之子島文化芸術創造センターとして残る大阪府立工業会館を除き、ほとんどの施設が焼失した。旧大阪府庁舎の敷地は、戦後、府立産業技術総合研究所として再整備されたが、1996(平成8)年に和泉市に移転し閉館した。その後、大阪府はこの旧府立産業技術総合研究所跡地を事業コンペにより売却する方針を打ちだし、一般の遺跡ではないが事前の発掘調査も仕様書にうたわれ、公益財団法人大阪府文化財センターが、2011(平成23)年5月から9月に、現地における発掘調査を実施した。
江之子島の府庁舎建設へ向けた動き
ここで、今回紹介する大阪府庁舎建設についての歴史的経緯を整理しておく。新庁舎建設に向けた動きは、明治初頭からあったようだが、江之子島の府庁舎建設へ向けた動きは1872(明治5)年の庁舎新築の上申に始まる。大蔵省宛の渡辺昇大阪府権知事による伺には、地盤工事に費用がかさむことなどから、官費1万5000円を要求し、同額が支給されれば今後増額要求はしないことが記されていた。この伺に対し、煉瓦造での建物を認めることや、裕福な商人が多いことから民費を徴収することがさほど困難ではないだろうことが記され、費用3万8736円余のうち官費として3分の1の1万2912円を出す、との回答があった。
ここで煉瓦造が認められていることは、特例中の特例である。他の府県庁舎で煉瓦造が導入されるのは1886(明治19)年起工の滋賀県庁舎が初で、中央官庁でも1881(明治14)年の外務省が嚆矢で、これ以前の1875(明治8)年の内務省による煉瓦造での新築希望も、木造との条件でしか許可されていない(石田1993)。
さて、竣工後の9月には内務省宛大阪府伺が出され、物価高騰や実地による設計変更などにより、当初の官費1万5000円では不足で、1万6632円98銭4厘の支給を要望し、同額が支給されたようだ。結局、総工費は5万369円21銭2厘で、明治一桁代の府県庁舎の多くが6000円から1万3000円に収まる中で(石田1993)、飛び抜けた額である。
この府庁舎の設計者だが、府庁舎に先立ち大阪に築かれた造幣寮の建築に携わったウォートルスとも、造幣寮首長のキンドルとも、設計を外国人に依頼したが報酬が高額なため図面だけ写し取って日本人の手で行った(葛野1931)ともいう。いずれにせよ、外観は正統な西洋風建築である。
また、この江之子島が選ばれた理由だが、木津川を挟んだ西側に1868年に設置された川口居留地の存在が大きいとされる。しかし、この地の水深が浅く大型船舶の入港が困難なため、川口居留地にいた外国人商人は次第に神戸居留地へ移転した。このため、当初の思惑であった川口居留地を介した外国との貿易による発展という図式は、うまくいかなかった。もし、この思惑通りであれば、当地に神戸のような街並みがあったのかもしれない。なお、この府庁舎は「政府」とも呼ばれ、後々まで写真集や絵葉書にも登場する観光スポットであった。
発掘調査成果にみる明治期の府庁舎
中央棟の北半部分は遺
写真1 中央塔屋直下の基礎と排水用の石組暗渠(北から)
調査区中央では、府庁舎で象徴的であった中央塔屋の基礎が確認できた(写真1)。基礎は厚さ70~90㎝の炭や焼き物の屑が混じるコンクリート様基礎で、これが石灰コンクリートであろう。当時は国産セメント生産本格化以前である。その上には、長さ1.5m前後、幅・厚さが約30㎝の直方体の石材が、2段に積まれ、これが「御影の切石」に相当する。石材は黒雲母花崗岩をはじめ花崗閃緑岩、玢岩で、産地は花崗閃緑岩が岡山県笠岡市北木島、黒雲母花崗岩が兵庫県神戸市御影付近と考えられる。なお、これらの加工には、楔を打ち込んで石を割る伝統的な切石技法が使用されていた。
また、これらの切石側面には2段に積まれた切石の凸凹を修復したり、切石表面を丁寧に仕上げたりするため、石片や瓦片を心材として漆喰が塗布されていた。瓦片には、明治初年の生産品を含み、上述の切石の加工法も含め、建物の外観は西洋風ながら、随所に伝統的な手法が用いられていた。
この上位の煉瓦壁体は、ほとんどが残存しなかったが、切石上に墨打ちの痕跡があり、その間隔97~98㎝であることから、壁厚は3尺2寸程と推定できた。また、わずかに残っていた煉瓦には、「HANFU JUSANSIO」銘刻印が見られた(写真2)。これは、今回の調査で出土した「阪府 授産所」銘刻印煉瓦(写真3)のローマ字表記と推定できる。
写真2 「HANFU JUSANSIO」銘刻印
写真3 「阪府 授産所」銘刻印
写真4 中央棟から東へ延びる石組暗渠(東から)
銘にある授産所は、1872年1月に大貧院から改称され、翌年8月に第一勧業場となった授産所、もしくは1872年8月に設置され、翌年8月に第二勧業場となった出張授産所のいずれかと考えられ、特に後者の可能性も指摘されている(大阪府教育委員会2007)。いずれの場合でも、府庁舎の建築年代と一致する。
なお、「阪府 授産所」銘刻印煉瓦は、佐賀藩蔵屋敷跡からも出土している(大阪市博物館協会大阪文化財研究所2012)。当該地は、廃藩置県後1885(明治18)年まで懲役場が設置され、1890(明治23)年には大阪控訴院の庁舎が竣工している。煉瓦の生産時期からは、懲役場に伴い使用されたと推定できる。これらの出土例からはこの煉瓦が公共施設にのみ使用されている特徴があるようだ。
なお、発掘調査では、基礎以下で排水用の石組暗渠が確認できた(写真1・4)。
これは、側面に控えの長い間知石を3段積み、底に板石を設置し、同様な板石で蓋をしていた。この暗渠には、土管が接続しており、庁舎内の生活排水や雨水などをこの暗渠に集めていたと推定できる。なお、この暗渠は西の木津川と東の百間堀川に排水していたようだ。なお、百間堀川は昭和39(1964年)に埋め立てられた。
発掘調査成果にみる大正期の府庁舎
大きくは、北・南翼が当該期の遺構として挙げられ、地階が検出できた。先に記したように、南北両翼は木造とされていたが、地階の壁は煉瓦造で、表面にはタールが塗布されていた。さらにその上に漆喰が塗られており、建物内部は白を基調としていた。建物のレイアウトは、中央の長い廊下と、その両側の間仕切り壁に囲まれた部屋の区画があることを基本とする。部屋数は、北翼13、南翼21で、後者の部屋割りが細かい(図1、写真5)。
写真5 南翼全景(南東から)
大阪府公文書館所蔵「旧大阪府庁建物配置図」(発行年不明)には、北翼が内務部棟、南翼が警察部棟とある。同図に地階の図面はないが、南翼の細かい区画は留置場と推定している。南翼の一部では、竈と手洗いが確認でき、同様な施設は1926(大正15)年竣工の兵庫県尼崎市の旧尼崎警察署地下留置場にも見られ、両者の類似性からその可能性は高いと考える。なお、この手洗いで使用されていた衛生陶器に残っていた製造会社のロゴマークは、類例が福島県耶麻郡猪苗代町所在の有栖川宮家別邸天鏡閣客室便所の腰掛陶器に見られるのみで、極めて珍しい。ただし、製造会社は不明である。また、北翼では、タイル敷の区画があり(写真6)、食堂の可能性がある。
写真6 北翼 タイル張りの区画(東から)
また、南北両翼の建物内3か所では、暖炉が確認できた(写真7)。暖炉の内側には耐火煉瓦が用いられており、「BIZEN-INBE」「MARUSAN」「Mitsuishi」の各刻印がみられた。BIZEN-INBEは岡山県備前市(旧伊部村)の備前陶器株式会社を前身とする日本窯業備前支社、MARUSANは大阪市難波の丸三耐火煉瓦製造所、Mitsuishiは岡山県備前市(旧三石)の三石耐火煉瓦株式会社もしくは三石の名を冠する他の会社と考えられる。
煉瓦には、岸和田煉瓦、大阪窯業、堺煉瓦、日本煉瓦各社の社印が残る製品や、不明刻印が残る煉瓦や無刻印の煉瓦、さらには、明治期庁舎に使用された煉瓦(阪府授産所・HANFU JUSANSIO刻印)の転用もあった。なお、ほかの明治期煉瓦の転用品に「YEGAWA」銘煉瓦がある。この銘を持つ煉瓦は、1871年竣工の造幣寮泉布観の例が知られる。府庁舎建設に際し、造幣寮の残品が使用されたとの資料があり(加藤1965)、これが裏付けられた。
写真7 北翼の暖炉(北から)
おわりに
私たちが生きている現代と、江之子島の府庁舎の時期である近代とは、いわば地続きであり、ごく身近な存在といえる。発掘調査の際に行った現地説明会では、多くの方に来場いただき、関心の高さを窺うことができ、中には江之子島の府庁舎が空襲で焼け落ちるのを見たとおっしゃる方もおられた。遺構の保存についての意見も寄せられ、2020年3月末からは、大手前の府庁舎本館の正面玄関前で、中央棟屋基礎石と石組暗渠、および暖炉の一部が移築展示されている。なお、現在の府庁舎1階には、この旧府庁舎跡のブロンズ模型が展示されている。これは、冒頭に記したように府庁舎移転後工業奨励館として再出発したものの、1937(昭和12)年には旧府庁舎が取り壊されることとなり、反対意見も実らず実施される方向となった際に製作されたものである。翌年には建築資材調達困難のため無期延期となり解体を免れたものの、空襲により失われてしまった。なお、調査の詳細については報告書(大阪府文化財センター2012)を参照頂けると幸いである。
石田潤一郎 1993『都道府県庁舎―その建築史的考察』、思文閣出版
大阪市博物館協会大阪文化財研究所 2012『佐賀藩蔵屋敷跡発掘調査報告』
大阪府教育委員会 2007「資料紹介 旧府庁跡出土の刻印資料」、『大阪府教育委員会文化財調査事務所年報』11
大阪府文化財センター 2012『旧大阪府庁舎跡』
加藤政一 1965「江の子島府庁について」、『大阪百年史紀要』1、大阪府史編纂資料室
葛野壮一郎 1931「旧府庁舎の建築」、『建築と社会』14-5、日本建築協会
公開日:2024年12月25日

