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遺跡・史跡

水中世界の文化遺産

木村淳 / JUN KIMURA

東海大学人文学部人文学科准教授

埋蔵文化財包蔵地である静岡県南伊豆町入間沖伝ニール号沈没地点の海底。ニール号の構造物が残る。いろは丸、開陽丸、国史跡エルトゥールル号と同じく、「幕末明治初期沈没船遺跡群」の1隻(撮影:鉄多加志)

文化遺産、遺跡が水中に所在するというその“存在形態”が好奇心やロマンを掻き立て、水中遺跡の保存状態やその特有の性質が、研究者たちを惹きつけてきた。存在形態は、水中考古学の成立を促し、その背景となる海と人類との歴史の関係性に着目する海事考古学や船舶考古学が、専門分野として確立していった。

水中世界を探る

水中の世界を直接目にすることができるのは、限られた潜水者である。水中世界の成長性を見据えて、明治維新前夜の横浜で潜水技術を習得、機器潜水の草分けの一人とされる人物に増田萬吉がいる。増田は、現在は埋蔵文化財包蔵地となっている横浜旧港(象の鼻防波堤)の築造に携わり、遭難事件遺跡として史跡指定されている和歌山県エルトゥールル号の沈没(1890年)では、遺体捜索や遺物引き揚げに関わった。

 

戦前、水中世界を生業とする潜水者が、時に、水底の沈没船、特にその積荷の引揚げを売買目的に行うことがあった。これに対して、「文化財では?」という声が、意外なところで古くから上がっていた。井伏鱒二の『海揚り』には、1919(大正8)年頃に瀬戸内海海底から備前焼を引き揚げていた潜水夫の話、1940(昭和15)年頃の海揚り陶磁器の組織的なサルベージの話があり、井伏は、文化財保護の法制度にまで言及している。作中、アクアラング1)という器材で水底で遺物を探すという紹介がある。1940年代は、水面から空気を送気するヘルメット式潜水に代わり、圧縮空気を充填したタンクを背負って海に潜ることができるスキューバ式潜水へと、技術変革が起こった時代であった2)

 

20世紀後半には、現在に近いかたちのスキューバダイビング技術が普及、職業潜水士らの発掘調査への協力無しには、北海道江差開陽丸、鷹島海底遺跡、(伝)ニール号沈没地点といった各地の遺跡調査は実現しなかった3)。文化庁の『水中遺跡ハンドブック』は、水中世界の遺跡の把握周知と調整の段階での、潜水を専門とする技術者との協力の重要性を強調している。無論、『ハンドブック』は、水面下の文化財を調査する潜水考古学者への手引きともなっている。

水中遺跡と水中文化遺産

「海域や湖沼等において、常時もしくは満潮時に水面下にある遺跡」とされる“水中遺跡”と、“水中文化遺産”との違いについて聞かれることがある。文化財保護法上、埋蔵文化財あるいは遺跡(貝づか、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡)の明記はあるが、水中遺跡という文言は無い4)。しかしながら、行政発出の文書で、“水底”あるいは“水面下”の文化財は、陸上と同様に埋蔵文化財として取り扱うこととされてきた5)。“水中”と言う用語の使用以前に、水中考古学の重要性を提唱したパイオニアらによっても、当初は、“水底”の考古資料を、その研究対象とするという言い方がされてきた6)。水底の世界を研究するという意味では、滋賀県主体で遺跡把握が進んだ淡水域の琵琶湖では○○湖底遺跡という呼称が長らく採用され、海水域の鷹島では海底遺跡が定着した。

 

文化庁による水中遺跡保護のための一連の報告(昭和56年、平成12年、平成29年刊行)では、水中遺跡の用語が使用されてきた。『昭和56年報告』では財団法人京都市埋蔵文化財研究所が、『平成12年報告』では任意団体九州・沖縄水中考古学協会が、報告作成に貢献した。開陽丸発掘調査が実施された江差町や、水中考古学実践者が所属していた上述の団体が、陸上と遜色ない精度で発掘調査を積み上げてきたことで、水中遺跡は、考古学の研究対象として認知されるに至った。

 

直近の『平成29年』報告及び『水中遺跡ハンドブック』では、陸上との対比での、水中の遺跡という考えを整理している。全国の陸上の遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)件数に対して、水面下の埋蔵文化財は387件にとどまるという現状、水中遺跡と陸上の遺跡は不可分の関係で、文化財保護法は水域に及ぶという考えが提示され、埋蔵文化財行政における“水中遺跡”の位置づけを明確にした。またハンドブックでは、概念提示に留まらず、水中環境にある遺跡の類型化(水没集落、沈没船と積み荷、港湾、船着場、生産・製造遺跡、治水・灌漑遺跡、祭祀遺跡など)まで踏み込んでいる。

 

水中遺跡と比較して、水中文化遺産は、水域に所在する考古学遺産保護の国際的な法整備のなかで定着した用語である。「文化遺産」とされているが、法整備の経緯を追うと、実際には、「考古遺産」であることが分かる。20世紀後半、地中海沿岸国での、スキューバダイビング技術を利用した無秩序な遺物サルベージ発生の懸念や、スウェーデン・ヴァーサ王朝期のヴァーサ号引き揚げ(1961年)さらにチューダー朝のメアリーローズ号引揚げ(1982年)による、海底に残る史跡沈没船への関心は、国連海洋法条約(1982年採択)に、“考古学的及び歴史的な物”に関する条項(第149条及び303条)を盛り込むことを後押しした。国際記念物遺跡会議イコモスは、1990 年「考古学遺産管理運営に関する憲章」に対する補足として、1996年「水中文化遺産の保護と管理に関する憲章」を発布した。その前文で、水域の考古学的遺産=(イコール)水中文化遺産であると明文化されている。1996年イコモス憲章を草案に、2001年にユネスコ「水中文化遺産保護に関する条約」が採択された。ユネスコの文化遺産関連の六条約体制にあって、唯一、考古学遺産のみを対象とする性格を有するのが同条約である7)

海洋と文化遺産・遺跡

「土地や水面下に埋蔵されている考古学的な遺跡・遺構・遺物」は、一般に、人目に触れ得ない状態で水底に所在するが、一方で、海洋という目に見える環境との関係性、その重要性の議論が進んでいる。社会の持続可能な発展を模索する今日、海洋の利用は、持続可能目標の一つに掲げられている。国際社会では、「国連海洋科学の10年(2021-2030年)」プロジェクトが推進されるなど、現代の海洋環境を取り巻く問題に、科学がどのように関わっていくべきかが、議論されている8)。海洋科学の対象として、水中文化遺産を位置づけるべく、水中考古学の専門家らは国際連携の枠組みOcean Decade Heritage Networkを発足させ、議論への参画を試みている。海洋の生物資源、鉱物資源の持続的な保全と利用の理解に比べ、海洋の文化資源という考え方が、海洋科学の世界で必ずしも浸透しているわけではない。開発事業に対しての水中遺跡の脆弱性が指摘されるが、海洋科学分野でいう、レジリエンス(回復力、resilience)は遺跡には備わっていない。海洋生物資源や環境のように自己回復を望めないのが、遺跡や文化遺産である。万一の陸上遺跡の損傷は、人の目にとまるかもしれないが、水底や水面下では、何が破壊されているかは分からない。海洋環境の持続可能な発展と利用のなかに、水中文化遺産を組み入れる理由は、実感が伴わない海洋での遺跡消失へ意識を向ける試みでもある。

 

開発行為からの保護が、遺跡対応の全てではない。陸上遺跡に見いだせない価値を、海洋の遺跡に発見することがある。小江は、「その海底、ことに内湾、接岸海域の水底には、過去の活動のさなかの人間の生活に関する物的証拠が、地震、大風や洪水、水位の変化によって、化石になったような状態で保存されている可能性が大きい」と予見した9)。後期更新世から完新世の海面の水位の変化で、日本列島沿岸沖には水没地形が形成された。海底には、文化財保護法上の埋蔵文化財包蔵地とはなっていないが、確実に人が訪れたであろう水没地形がある。伊豆七島の一つ神津島に隣り合う、恩馳島周囲の海底には黒曜石が採取された鉱脈が広がる。海生付着物に覆われた黒曜石の海底岩礁があり、礫大の黒曜石や、破片となっている黒曜石が散布する(写真1)。

写真1:恩場馳島海底の黒曜石破片(撮影:木村淳)

近年の高度なダイビング技術の普及は、完新世期の海洋の水位の変化で水没した洞窟内での潜水を可能とし、遺跡の特定にもつながった。鹿児島県徳之島のウンブキ洞窟では、2019年に洞窟潜水を専門とするケーブダイバーによって、洞窟内で縄文時代の早い段階に相当する時期の土器が確認された。2021年からは、三菱財団の助成を受けた潜水調査が開始され、洞窟内水底での土器片散布の様相が写真記録されている(写真2)。

写真2-1:徳之島天城町ウンブキ洞窟遺跡(写真撮影:木村淳)

写真2-2:暗闇の水没洞窟内に多数の土器片が散布している(写真撮影:木村淳)

気候変動による海水準面の変動や雨量変化による湖水面の変化以外に、列島の人類が経験してきた自然現象・自然災害が水中遺跡形成に大きく関わっている。1888年の福島県の磐梯山噴火と山体崩壊による、せき止め湖(桧原湖)の形成は、かつての会津・米沢街道の宿場町として栄えた桧原宿を湖底に沈めることとなった。活火山である磐梯山に関わる湖底遺跡は、過去の火山災害の痕跡を記録する災害遺跡としての性格をもつ。水没した桧原集落は、周知の埋蔵文化財包蔵地として、江戸・明治の街道集落への理解を深めるだけでなく、活火山の災害メカニズム、せき止め湖の形成過程から集落移転の過程という、過去の自然災害と人間行動の検証を可能とする水中遺跡である。

 

水中遺跡でも慎重な取り扱いが要求されるのは「軍事に関する遺跡」である。海上輸送や兵器として使用された太平洋戦争期の民間徴用船、艦船、軍用機が海底に残っている。沖縄海域で旧日本軍の特攻攻撃によって沈んだUSSエモンズは、特攻攻撃が検証可能な状態で、沈没時の船体を留める。その周囲には、特攻機の残骸が沈む。海洋の戦跡のなかには、伊豆半島の下田港内外で確認される特攻兵器である特殊潜航艇海龍のように、開発工事の影響を受けやすい海底に所在するものもある(写真3)。下田周辺の海岸部には多数の特攻兵器格納庫が残り、潮間帯には、柿崎では船台(斜路)が見られる。駿河湾一帯には艇庫、掩体壕・格納壕が残り、“特攻兵器の海防景観”を形成する。戦禍や軍事侵攻を、過去と錯覚した21世紀世界で、「軍事に関する遺跡」、戦跡の保全とは何かが問われている。水中に形を留める船舶や航空機を、陸上戦跡を巡る議論と切り離さない視点が必要となる。

写真3:下田港外の海底に沈む特攻兵器海龍の3次元写真測量図。太平洋戦争末期200名を超す海軍特別年少兵が、下田一帯の海食崖に特攻基地の壕を掘った。(撮影・作成:ウィンディーネットワーク)

海域と分断・狭間におかれる水中遺跡

「○○地域の遺跡」というように、あるいは研究の専門分野が「~地域」というように、文化遺産や遺跡とは陸域視点で扱われる。海域史観の提唱や地中海世界の研究があるのならば、○○海域が専門とは言い過ぎであろうか。海域は、陸域との一体性で、人類史におけるその利用が理解されてきた。陸のシルクロード(道)に対して、海のシルクルート(路)は、事例の一つであり、陸上と海上の交易網や交渉を統合的に捉える見方である。海域のシルクルートは、中国での文化遺産論の形態の一つとして、近年、議論の機会が増加してきた。近年では、国外の専門家を巻き込み世界遺産へのシリアルノミネーションの動きもある。日本は、貿易陶磁器研究などを通じ、海の路の議論に先鞭も付けたが、遺産としての議論は低調である(写真4)。

写真4: 9世紀黄釉貼花文褐彩水注(鴻臚館跡)。唐代、海上輸送の陶磁器製品が流入していた博多は海のシルクルート網の恩恵を受けていた。8世紀末~9世紀初頃のベトナム・チャウタン沈没船出土長沙窯同型水注。チャウタン沈没船は崑崙系のシルクロード交易船と考えられている。(撮影:木村淳)

水辺を境に、陸上と水中は、分断される。国内の遺跡地図上では、陸上の遺跡が沿岸線まで迫る事例もあるが、その先の水中にまで遺跡の範囲が及ぶ例は多くない。陸上での出土例が少ない沈没船遺跡は、そもそもで評価が難しい遺跡であり、水中環境で発見されたとしても、埋蔵文化財包蔵地としての取り扱いに困難が伴う。沈没船あるいはその沈没地点を遺跡範囲とする考え方があるが、水面で可視化できない地点や、水底の船体が、遺跡あるいは遺構として広く周知されるのが困難なのが現状である。静岡県南伊豆入間沖のフランス郵船ニール号(1873年)の沈没地点は、(伝)ニール号沈没地点として周知の包蔵地となっており、ニール号の積み荷は東京国立博物館に収蔵展示されているが、遺跡と出土品を結び付ける考古学説明は、博物館公開のデータベースに無い。国内初の水中発掘調査が行われた開陽丸は、兵器類を中心に一部の展示が行われているが、指定範囲の周知や港湾内外が遺跡であることの認識も難しく、遺跡範囲への廃棄物の投棄も生じている(写真5)。

写真5:北海道檜山郡江差町開陽丸。日本近代海軍の旗艦開陽丸座礁の地であるが、現地でそれを知る術はない。埋蔵文化財包蔵地には、届出無しに海底へと係留物が落とされている。(撮影:木村淳)

このような状況下で、開陽丸については、江差町文化財担当を中心に現状を変えるべく努力が始まったことを歓迎したい。また、水域の行政界の境を超えて遺跡評価を行うべく、鹿児島県徳之島の島内三町の文化財担当同士が連携して沿岸沖の考古資料の把握に努めていることも、水中の文化遺産への試みとして評価したい。

 

国としては、海洋立国を標榜してもいるが、海洋政策の推進を目的に、国連海洋法条約を参考に制定された海洋基本法には、海洋の文化遺産を取り扱う条項は無い。ユネスコの文化遺産の六つの条約のなかで、日本の外務省による批准議論が著しく低調なのが水中文化遺産保護条約である。このような状況にあって、近年、水域や海洋に目を向けて、文化財と文化遺産を評価しようとする上述の地方自治体の動きや松浦市の国指定鷹島神崎遺跡での先進的な取り組みに、今後の希望を見いだすところである。

注釈
1)ジャック・イヴ・クストーらが開発した器材を指すが、戦前はスキューバ式潜水器材全般をアクアラングと呼称していた。
2)鉄(2020)に作業潜水でのスキューバ式器材の普及が詳しい。
3)開陽丸では現株式会社太武の関係者、鷹島海底遺跡では國富株式会社、ニール号では、鉄組潜水工業所が発掘作業を担った。
4)水之江(2020)
5)文化庁文化財第二課(2022a)、(2022b).
6)小江(1982)
7)世界遺産や無形文化遺産など五つのユネスコの文化遺産関連条約があるが、水中文化遺産保護条約は未批准である。
8)Trakadas et al.(2019)
9)小江(1982)

参考文献・資料
小江慶雄『水中考古学入門』、NHKブックス421、日本放送協会 1982
鉄芳松『潜水士の道』、マガジンランド 2020
文化庁文化財第二課『水中遺跡ハンドブック』、文化庁文化財第二課 2022a
文化庁文化財第二課「水中遺跡ハンドブック」、『月刊文化財』、第一法規 2022b
水之江和同 『入門 埋蔵文化財と考古学』、同成社 2020
Trakadas, A., Firth, A., Gregory, D., Elkin, D., Guerin, U., Henderson, J., Kimura, J., Della Scott-Ireton, Yvonne Shashoua, Chris Underwood & Andrew Viduka  2019:“The Ocean Decade Heritage Network: Integrating Cultural Heritage Within the UN Decade of Ocean Science 2021–2030”, Journal of Maritime Archaeology (14): 153–165.

公開日:2023年2月22日最終更新日:2023年4月24日

木村淳きむら・じゅん東海大学人文学部人文学科准教授

1979年生まれ。東海大学人文学部准教授。西オーストラリアのマードック大学アジア研究所、シカゴのフィールド自然史博物館の研究員を経て、現職。イコモス(国際記念物遺跡会議)国際水中文化遺産委員会や文化庁水中遺跡調査検討委員会の委員を務め、国内外の水中遺跡の調査と保護にあたっている。専門は、水中考古学、海事考古学、沈没船遺跡研究。研究テーマは東アジアの船体考古資料分析、海上シルクロードやマニラ・ガレオン交易。主な著書に『Archaeology of East Asian Shipbuilding』(Univ Pr of Florida、2016)、『海洋考古学入門:方法と実践』(共著、東海大学出版部、2018)、『図説 世界の水中遺跡』(共著、グラフィック社、2022)。