遺跡・史跡
久留倍官衙遺跡をめぐる諸問題とその展開 Ⅰ「遺跡の概要と遺構の年代について」
久留倍官賀衙遺跡 全景(北北東から空撮) 提供 四日市市教育委員会
はじめに
概 要
久留倍官衙遺跡においては、古代の官衙に関係すると思われる掘立柱建物が80棟近く検出されている。これらの建物の変遷については『久留倍遺跡5』(2)(以下「報告書」という)において、①建物の重複関係、②建物の向き(方位)、③建て替えの有無と回数、④建物の棟間距離、⑤造営尺、⑥建物配置、⑦建てられた場所、⑧掘方の大きさ、⑨出土遺物を元に検討を行った。その結果、大きく3つのまとまりに整理され、以下の3時期の変遷が想定されている。
Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期の区分については、既に定着しているため、昨年の3月5日、史跡公園に先行してオープンしたガイダンス施設の「くるべ古代歴史館」の展示においてもそれを踏襲し、本稿の中でもⅠ期からⅢ期に分けて説明する。なお、それぞれの時期について重複関係などから小時期も設定されている。
Ⅰ期(7世紀後半~8世紀前半)
東向きの正殿(SB436) とその左右に脇殿(SB443・SB444)が建てられ、それらに連なる塀の東部中央に八脚門(3)(SB434)が配置されており、これらが郡衙政庁(4)を形成すると考えられている。
また、その背後にはかなり大きな総柱建物の倉庫(SB429・SB430)が建てられ、丘陵の裾部にはSB412やSB402をはじめとして、方位の異なるSB1357などの一連の建物が配置されている。
なお、Ⅰ期の建物群を、都と地方を結ぶ官道である東海道 沿いに置かれた「駅家 」とか、近年では持統天皇の行幸に関わる「行宮」ではないかとする説もある 。
図1 Ⅰ期(7世紀後半~8世紀前半)遺構配置図(くるべ古代歴史館常設展示より 以下同)
Ⅱ期(8世紀中頃~8世紀後半)
東西に長大な建物(SB437が最大で6.9m×29.40mの建物、次いでSB439で6.75m×30.00mなど)を中心とする建物群。
Ⅲ期(8世紀後半~10世紀前半)
Ⅱ期の建物群に区画溝に囲まれた正倉群を中心に正倉院を形成する時期。
また、Ⅱ期とⅢ期の区分けは明瞭では無くⅡ期に特徴的な長大な建物に類似した建物もⅢ期にも存在し、Ⅱ期もⅢ期も、ともに正倉別院 と捉える方が正鵠を得ているかとも思われる(5) 。
なお、通常、役所や寺院などは南を正面とするが、久留倍官衙遺跡の建物群は東を正面とするのが特徴である。
図2 Ⅱ期(8世紀中頃~8世紀後半)・Ⅲ期(8世紀後半~10世紀前半)遺構配置図(左:Ⅱ期・右:Ⅲ期)
Ⅰ期 郡衙政庁成立時期の再検討について
前掲の「報告書」刊行以後にⅠ期に属するいくつかの建物の年代について若干の疑問点が指摘されたため、改めて出土遺物を中心として検討し直すこととなった。
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 重見 泰 氏、奈良文化財研究所 尾野善裕 氏、小田裕樹 氏、川越俊一 氏に出土遺物を実見していただき、所見をうかがった上で、再検討を行った。久留倍では、官衙遺跡の時期には遺物が殆ど検出されておらず、僅かにSB412に先行する遺物が数点検出されているばかりである。
再検討された出土遺物
検討の結果、4氏の所見は全く同じものであった。これらの遺物は7世紀第3四半期の新しいところ、つまり650年~675年の間の新しいところということであり、670年前後ということになるであろうか。そして、他の時期の遺物も全く混じらないことから、時を経ずして次の建物が建てられたのであろうというものであった。すなわち670年頃から時を経ずしてSB412Aが建てられたということになる。
図3 SB412 廂付大型掘立柱建物(赤枠:SB412A・青枠:SB412B) 出典:四日市市教育委員会46、一般国道1号補正バイパス建設事業に伴う埋蔵文化財調査報告書Ⅱ「久留倍遺跡5-遺構編-」(2013年)より(改編)
ここで、Ⅰ期建物群の構成について、再度詳しくみてみることとしよう。
Ⅰ期建物群は、以下の3類に分類される。
㋑丘陵上の整然と区画された郡衙政庁とみられる建物群と比較的大きな2棟の総柱の倉庫
㋺丘陵裾部に建てられ郡衙政庁と方位を同じくする建物群
㋩丘陵下の北東隅に建てられた建物群
これらの内、㋺のSB412にのみ建て替えがあって(SB412B)、建て替え後に廂が付けられている。これらの関係について、「報告書」ではSB412が建て替えられ、廂が付けられた時に丘陵上にも同じ方位で郡衙政庁が建てられたと解釈している。
しかしながら、これが正しいとすると、最も利用されやすい筈の丘陵上の平坦地には何も建てられておらず、丘陵裾部の建物群だけがあって、SB412Bで廂が付けられたのに合わせて丘陵上に郡衙政庁が整備されたということになるが、いかがなものであろうか。むしろ、丘陵上の平坦部(6)に郡衙政庁が整備されて、同じ方位で廂の無いSB412AおよびSB454・SB414が建てられ、その後この建物SB412Aは、豪族の居宅など使用頻度の高かった建物であったのであろうが、廂付きの建物に建て替えられたと考える方が穏当であろう。
そう考えてくると、㋑・㋺ともに成立時期は670年を挟んだ前後の時期となり、それらの方位に関わらず地形に合わせて建てられた㋩はそれ以前の成立ということになろう。すなわち同じⅠ期でも、㋩の建物群は㋑㋺よりも古い段階の建物の建て方と考えられる。
それにしても、670年を挟んだ前後の時期というのはいかにも悩ましい時期である。なぜならば672年に壬申の乱が起こっているからである。このことについては、いずれ詳論するが、ここでは㋩は壬申の乱の時期から存在し、㋑㋺は壬申の乱の直後に成立したと結論だけを述べておこう。
Ⅰ期建物群は670年を挟んだ前後の頃からいつ頃まで使われたのであろうか。SB412が建て替えられ同時並行で存在したと考えられることから比較的長く使われたものであろう。すなわちⅡ期の建物群が成立する直前まで使われたものとかんがえられるのである。
Ⅱ期・Ⅲ期建物群について
Ⅱ期建物群は、SB437に代表される長大な建物がその特徴と言えるであろう。SB437をはじめとする長大建物は時を経て次第に小型化していくがそれが実情にあった大きさだったからであろう。
この長大な建物を中心とするⅡ期建物群は、一般に天平12年(740)の聖武天皇の行幸に関連して理解されている。それまで郡衙政庁が存在した場所が、それらが一気に無くなって、一種独特な長大な建物を中心とする建物群が出来する要因が天皇の行幸にあるということは理解がしやすいところであろう。
ただ、この建物は側柱建物であって、一般には屋(7)と呼ばれる建物の性格を有し、基本的には土間敷の建物であって廂も無く、格式の低い建物である。もちろん転ばし根太等で床を張ることは出来るが、その痕跡は検出されていない。いずれにしても天皇の居所としてはふさわしくないと考える次第である。
Ⅱ期建物群は、建替えの無い建物もあるが、1回の建替えを経て凡そ8世紀後半まで存続しそれから以降、Ⅲ期は正倉を中心として区画溝で囲繞された正倉院が中心の建物群となる。Ⅲ期も建替えの無い建物もあるものの1回ないしは2回の建替えを行いながら9世紀末頃まで存続したと考えられている。
まとめ
- 久留倍官衙遺跡建物群の特徴
Ⅱ期の長大建物は東西棟であるため、建物だけを見ると南向きの建物とみられるが、遺構全体としてとらえると東を意識して建てられていることが分かる。そのことはⅠ期建物群の南北の脇殿が北や南を向いていても、全体としては東向きの建物群となることと同様である。
Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期で向く方位は少しずつ違いがあるが、いずれにしても同じ方位を意識して建てられていることには違いない。その理由は、いずれ詳述するが、壬申の乱の時、大海人皇子が天照大神を望拝したことに由来するものと考えている。
- 遺跡の成立と壬申の乱・聖武天皇の行幸の関係
『続日本紀』によると、聖武天皇は天平12年(740)に突然に東国行幸を行ったように記述されているが、実は何年も前から計画された行幸であり、赤坂から不破までは、曾祖父である天武天皇の壬申の乱を追体験したものであり、その際朝明郡に2泊して、その時の和歌が万葉集に残されている。
- 遺跡の重要性
都や斎宮などの遺跡であれば、中央の歴史の中に登場したり、その接点が見出せたりするものであるが、日本全体では数多くの地方の国衙や郡衙が発掘されているものの、それらのうち中央の歴史と直接関わる官衙遺跡がどれだけあるだろうか。
ましてや古代最大の内乱である壬申の乱や、恐らくは1000人をも超えるような聖武天皇の行幸に関わる遺跡は今のところ他にはない。その意味からも久留倍官衙遺跡は、史跡として保存・整備を図りながら、調査研究を進める意義があるものと考える。そして私は、四日市市民の、三重県民の誇りともいえる遺跡であると考えている。
なお、本稿で論ずる内容については、遺構や遺物などに関する事実関係以外の論点は、四日市市教育委員会の見解ではなく、あくまでも私見であることを申し添えておくこととする。
公開日:2019年2月5日最終更新日:2019年2月27日