遺跡・史跡
高輪築堤跡の発掘調査
高輪築堤とは
図1 「写真名所一覧 高なわ蒸気車往返之図」歌川国政(4代)明治5(1872)年(出典:鈴木重三 監修『明治鉄道錦絵』1971年)
高輪築堤は、明治5(1872)年に日本最初の鉄道路線として新橋駅(現汐留駅)-横浜駅(現桜木町駅)が約29㎞に渡って開業するにあたり、海上に線路を敷設する必要が発生したことにより築かれた鉄道構造物である。弓なりに湾曲する海岸線に沿うように、新橋駅-品川駅間のうち約2.7㎞に渡って築かれたとされる。明治時代を通じて稼働した後、大正時代にかけての東京湾埋め立てにより陸地化し、その姿は当時の錦絵や残された写真でしか触れることはできなくなってしまっていた(図1)。
わざわざ海上に線路を敷設した理由として、兵部省の軍用地や旧薩摩藩邸が田町・高輪にあり、特に国内鉄道敷設よりも国防に注力すべきとの意見によって、土地利用を認めなかった等、いくつかの要因が重なって決定されたといわれている。
なお、発掘調査は港区教育委員会が主体となって実施しているが、筆者は、民間調査組織の立場からこの高輪築堤跡の調査に支援の形で比較的初期から携わることとなった。港区教育委員会によって公開された情報をもとに、これまでの調査で明らかになった事項等について述べたい。
高輪築堤跡の発見とその対応
鉄道開業150年を3年後に控えた平成31(2019)年4月、東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)が進める品川駅改良工事の際に石垣の一部が発見されたことを契機として、高輪築堤跡が残存していることが明らかになった。
その後、港区教育委員会による遺構検出調査が令和2(2020)年8月から令和3(2021)年3月にかけて実施され、事業地内の約800mにおよぶ高輪築堤跡の一部が約100年ぶりにその姿を現した(写真1)。特に令和2(2020)年春に発見された第7橋梁部は、その様相が錦絵等に描かれた姿そのものであった(写真2)。
写真1 発見された高輪築堤跡(4街区)(提供:国際文化財株式会社)
写真2 発見された第7橋梁部(3街区)(提供:大成エンジニアリング株式会社)
このような中、遺跡の重要性が各機関で認識され、令和2(2020)年12月に、JR東日本が高輪築堤跡の発見を正式発表し、翌令和3(2021)年1月には、一般向けの現地説明会も実施された。
また、令和2(2020)年9月18日に第1回の高輪築堤調査・保存等検討委員会が開催され、有識者を交えての調査方針・保存等に関する議論が始まった。
さらに令和3(2021)年5月29日には菅内閣総理大臣(当時)及び萩生田文部科学大臣(当時)が現地視察する等、世間の注目も高まる中、同年9月17日に、高輪築堤跡を国史跡「旧新橋駅停車場跡」に追加指定し、名称を「旧新橋駅停車場跡及び高輪築堤跡」とすることが文部科学大臣により告示された。これは文化審議会から1カ月前に答申されたもので、異例中の異例のスピードで決定している。
このように、再開発事業が進む中、現地での確認調査の成果を各機関が共有し、その歴史的価値を検討・審議した結果、JR東日本は事業計画を見直し、
①2街区の公園隣接部約40mを現地保存する。
②3街区第7橋梁を含む約80mを現地保存する。
③4街区信号機跡を含む約30mを移築保存する(高輪ゲートウェイ駅前中央広場)。
④それ以外の区間は詳細な調査(記録保存)を行ったうえで撤去し埋め戻しする
―ことが決定され、令和5(2023)年5月にはJR東日本による「史跡旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」における 高輪築堤跡保存活用計画書がまとめられ、2027年度の公開を目指すこととなった。
遺跡としての高輪築堤跡
高輪築堤跡の記録保存調査は現在も進行中のため、詳細な成果は発掘調査報告書の刊行を待つことになるが、公開されている情報をもとに、調査で明らかになっていることを述べたい。
〔築堤上面の線路敷設部〕
築堤上面は数年前まで山手線・京浜東北線が稼働していたことから、約150年間に渡って途切れることなく線路として使用されていたと考えられる。そのため明治時代の線路や枕木等の施設は残っていないが、現代のバラスト等を撤去した直下には、部分的に当時のバラスト道床と考えられる層を確認している。
〔海側石垣〕
海側の石垣の積み方は、各段の高さを揃えて石の継ぎ目が横一直線になるように積む、いわゆる「布積み」で、約30度の勾配をもって構築されている。ほとんどのエリアで、上段~中段部の石垣が撤去され、下段の5~7段のみ残存した状態で検出されているが、本来は15段ほど積まれていたと想定される。石垣には一辺が約50㎝の築石を積み上げ、最下層に直方体の根石を横に並べている。石垣の外側には、群杭と呼ばれる杭が3~5列打設されている(写真3)。
写真3 高輪築堤の海側石垣(4街区)(提供:国際文化財株式会社 以下同じ)
使用されている石垣石は、大きさが必ずしも揃っていないことから、元々は海岸の護岸として積まれていた石垣等を撤去し、転用したものと考えられる。それでも不足する石垣石や根石については、真鶴村(現在の神奈川県真鶴町)から運ばれていることが、当時の技術者の1人である平野弥十郎の記録に残されている。なお、当時発注された石のサイズは、「一辺1尺(約30㎝)、長さ3尺(約90㎝)で、4万本を発注した」と記録されており、サイズについては、今回発見された根石のサイズと合致する。また、石垣を支える土台には杭や胴木を組み合わせた木組みの基礎が認められる。石垣を直接支える留杭は、胴木とはボルトで固定されている。
〔陸側石垣〕
陸側の石垣は、明治5(1872)年の鉄道開業期に構築されたものと、さらに明治32(1899)年に築堤を3車線に拡幅した際に構築されたもの、2段階確認されている。開業期のものは海側同様「布積み」、拡幅後の石垣は石を斜め方向に積むいわゆる「谷積み」で構築されており、87および75度の勾配をもっている(写真4・5)。
写真4 開業期の陸側石垣(4街区)
写真5 3線化期の陸側石垣(4街区)
海側石垣と異なり、地点によっては石垣が存在せず、盛土のままか、あるいは簡易的な土留めのみで済ませている箇所もみられる。これは外海に接していないため、水による盛土崩落の危険性が少なく、作業の簡略化や資機材の節約のためと考えられる。
〔橋梁部〕
新橋駅-横浜駅間には、全部で22カ所の橋梁があったとされる。そのうち第5・6橋梁部は、当初の築堤計画時にはなかったものの、地元住民からの反対を受けて造られたものである。調査では、橋梁部は失われ、土台である橋台部のみが残存している状態だが、非常に堅牢なつくりで、なおかつ築堤拡幅の際に橋台部も積み足されている様子が確認された。錦絵にも写実的に描かれている(図2)。
図2 「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」歌川広重(3代) 明治5~6(1872~73)年頃(出典:鈴木重三 監修『明治鉄道錦絵』1971年)
この場所に橋梁部が作られたのは、すぐ近くに江戸の玄関口のひとつである「高輪大木戸」があり、江戸時代から船着き場等の施設があったためと想定される。
〔横仕切り堤〕
各橋梁部には、そのすぐ北と南に、築堤と陸地を繋ぐ陸橋が絵図にも描かれており(図3)、第7橋梁部の北横仕切り堤、南横仕切り堤がそれぞれ部分的に検出されている。日常的な通行のほか、修理・補修・管理のための資材運搬等に使用されたものと想定される(写真6)。
図3 「高輪牛町朧月景」小林清親 明治12(1879)年(出典:鈴木重三 監修『明治鉄道錦絵』1971年)
写真6 南横仕切り堤(4街区)
土留めはより外海の影響を受けやすい側を石垣、そうでない側を板柵列で構築しており、石垣石の積み方は布積みであることから、鉄道開業の段階で構築されていたものと考えられる。
〔信号台張り出し部〕
品川駅から北に約800mの位置で、海側石垣上に、テラス状に何らかの土台のための張り出し部が、内部に十字の木組み基礎が残存した状態で検出された(写真7)。
写真7 信号台張り出し部(4街区)
この張り出し部から北側は、ほぼ直線的に築堤が延びているが、南側は、元々の高輪海岸に沿うように湾曲し、品川駅に向かう形であることから、信号台等が設置されていたものと推測される。あるいは図2には線路より海側に、白い小屋が描かれていることから、当初は信号台ではなく、小屋が建てられ、人による信号旗等で合図を送っていた可能性も考えられる。
以上のような調査成果から、高輪築堤の土台部は、日本古来の木組み基礎をベースとして構築されていることがわかる。石積みの技術は江戸城をはじめとした城郭や石橋、幕末の品川台場等の建設と、脈々と受け継がれてきたものである。そのうえに当時の最新技術である蒸気機関車を走らせるという、新旧の技術を駆使して築造されたものと評価できる。
高輪築堤の今後
前述のように、記録保存調査以外の2街区の一部、第7橋梁部は現地保存され、将来的に復元・公開される予定である。また4街区信号台部も隣接地に移築のうえ、復元・公開されることが決定している。一方で、高輪築堤跡の発掘調査報告書は現在作成中で、なおかつ発掘調査が終了している地点の隣接地の記録保存調査も進行中である。発掘調査報告書によって報告されるであろう、より詳細な調査成果をもって、遺跡としての高輪築堤の価値が決まってくるものと期待される。
近年、江戸時代以降の明治時代の建築物も緊急発掘調査の対象となってきている。その中で鉄道敷設は、当時の国家規模のプロジェクトとして進められた事業であり、その一部である高輪築堤跡の存在は、今後の近代以降の発掘調査のひとつの指標となりうるものとして、扱っていく必要がある。
遺跡としての高輪築堤跡は、当時の錦絵に描かれた情景そのままの姿で発見された。さまざまな要因が重なり、日本最初の鉄道路線の一部が海上に構築されたために、その当時の姿を保存することができたともいえ、可能な限り詳細な記録とともにその姿を残し、多くの人の目に触れ、語り継がれていくことを切に願うものである。
港区教育委員会『概説 高輪築堤』2022
斉藤進「高輪築堤の発掘調査について」『月刊考古学ジャーナル』№790、ニューサイエンス社 2023
斉藤進『鉄道考古学事始・新橋停車場』新泉社 2014
桑原真人・田中彰『平野弥十郎幕末・維新日記』北海道大学出版会 2000
最終更新日:2025年5月30日

