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遺跡・史跡

世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産

阿部 千春 / CHIHARU ABE

北海道環境生活部 文化局文化振興課 縄文世界遺産推進室 特別研究員

世界文化遺産に登録された資産は、北海道南部と北東北に分布する17の遺跡で構成されている。それらは、定住の開始期、発展期、成熟期のステージに区分され、各ステージはさらに前半と後半に細分される(図1)。ここでステージの時間軸に従い、各構成資産を紹介する。

図1 集落展開及び精神文化に関する6つのステージ

1.開始期の資産

①居住地の形成

 

【大平山元遺跡(青森県 外ヶ浜町)】

陸奥湾に注ぐ蟹田川中流域の段丘上に立地している。調理に用いた土器片や石器を製作した場所の広がりが確認されており、土器片は放射性炭素による年代測定により、15,000年以上前の値が示されている(写真1)。年代的には更新世の末期にあたり、旧石器文化の要素を有する石器群も出土していることから、季節的な定住であったと推測される。しかし、移動に適さない土器の使用は遊動生活からの転換を示す重要な証左であり、定住生活の起点と位置づけられる。

写真1 出土した土器片(大平山元遺跡)

②集落の成立

 

【垣ノ島遺跡(北海道 函館市)】

太平洋に迫る海岸段丘上に立地する紀元前7,000年頃~紀元前1,000年頃の集落跡である。紀元前5000年頃の集落では、竪穴建物で構成される居住域と複数の墓が集中する墓域に区分される。竪穴建物の床面から漁労で使用する網の石錘がまとまって出土しており、海洋での漁労が始まっていたことが分かる。墓域の形成は、遊動生活から定住生活へ移行したことにより、死者のための空間が設けられたことを示している。なかには、子どもの足を押しつけた「足形付土板」(写真2)が出土する墓もあり、当時の葬制や精神文化を知ることができる。

写真2 足形付土板(垣ノ島遺跡)

2.発展期の資産

①集落施設の多様化

 

【北黄金貝塚(北海道 伊達市)】

内浦湾に面した緩やかな段丘上に立地する紀元前5,000年頃~紀元前3,500年頃の貝塚を伴う集落跡である。台地上に居住域と貝塚が配置され、低地に湧水点と石皿やすり石などの道具類を廃棄した水場遺構がある。貝塚は温暖化による海進期には台地の頂部に配置され、その後、海岸線の後退に伴って低地に移動するなど、気候変動に適応した生業のあり方を示している。また、貝塚には人の墓がつくられ、シカの頭骨を並べた動物儀礼の痕跡が認められるなど、祭祀的な要素も伺うことができる。

 

【田小屋野貝塚(青森県 つがる市)】

海進期の内湾である古十三湖に面した紀元前4,000年頃~紀元前2,000年頃の貝塚を伴う集落である(写真3)。集落は、竪穴建物、貯蔵穴、墓、貝塚、盛土遺構など多様な要素によって構成されている。貝塚からは汽水性のヤマトシジミを主体とし、コイやサバなどの魚骨、イルカやクジラなどの海獣骨が出土している。また、ベンケイ貝を加工した腕輪の未製品が多数出土していることから、この地で貝輪の製作が行われていたことが分かっており、内湾地域における生業や集落での営みを知ることができる。

 

写真3 竪穴建物跡の下部貝層(田小屋野貝塚)

【二ツ森貝塚(青森県 七戸町)】

汽水性の小川原湖に面した丘陵上に立地する紀元前3,500年頃~紀元前2,000年頃の大規模な貝塚を伴う集落跡である。丘陵の平坦部に竪穴建物や貯蔵穴、その外側に貝塚や墓が配置されている。貝塚は丘陵の北と南の斜面に形成され、下層にはマガキ・ハマグリ・ホタテなどの海水性貝類、上層にはヤマトシジミなどの汽水性貝類の殻が堆積しており、海進から海退に至る周辺環境の変化と、それに伴う食料ターゲットの変遷を読み取ることができる。また、貯蔵穴から埋葬された幼犬の骨が出土しており、人とイヌの関係も窺うことができる。

 

②拠点集落の出現

 

ここで定義する「拠点集落」とは、竪穴建物、貯蔵穴、捨て場、祭祀場、墓など集落を構成する要素が揃った集落のことをいう。

 

【三内丸山遺跡(青森県 青森市)】

陸奥湾を望む河岸段丘上に立地する紀元前3,900年頃~紀元前2,200年頃まで長期間存続した大規模な集落跡である(写真4)。竪穴建物や長軸18mに及ぶ大型竪穴建物で構成される居住域、列状に配置された墓による墓域、膨大な量の土器、石器、2,000点を超える土偶が出土した盛土遺構による祭祀場のほか、食糧の貯蔵穴や掘立柱建物が規則性をもって配置されている。出土した多種多様な魚骨や動物骨、クリ・クルミなど堅果類の状況等から通年において自然資源を巧みに活用していた様子が分かるほか、黒曜石・ヒスイ・アオトラ石など遠隔地から運ばれた遺物も多いなど、内湾地域における生活、祭祀、交流の多様性を示している。

写真4  6本柱建物と大型竪穴建物(三内丸山遺跡)

【大船遺跡(北海道 函館市)】

太平洋に迫る海岸段丘上に立地する紀元前3,500年頃~紀元前2,000年頃の集落跡である。竪穴建物は深く掘り込んで床面を造るものが多く、深さ2mを超えるものもある。盛土遺構には石皿をはじめ夥しい量の遺物が堆積し、焼土も広がっていることから、廃棄に伴う祭祀場としての機能があったと考えられる。また、クジラ・マグロ・タラの骨・オットセイの牙などが廃棄後の竪穴建物の凹み等から出土しており、豊かな水産資源に支えられた暮らしの様子が分かる。さらに、北海道に自生していなかったクリの炭化種子がまとまって出土しており、本州との交流も伺うことができる。

 

【御所野遺跡(岩手県 一戸町)】

馬淵川沿いの河岸段丘上に立地する紀元前2,500年前頃~紀元前2,000年頃の集落跡である。東西に長い台地の中央部に墓域と祭祀場である盛土遺構を配置し、その東西に大型建物、竪穴建物、貯蔵穴で構成される居住域が配置されている。

墓域には土坑墓のほか、直径2~3mの配石遺構が環状に配置され、その外側に掘立柱建物が造られている。盛土遺構からは大量の土器、石器とともに、焼かれたシカ・イノシシなどの動物骨、サケ・マスなどの魚骨、土偶、土製品・石製品などの祭祀遺物が出土しており、内陸の河川流域における生業と精神生活のあり方を示している。

3.成熟期の資産

①共同の祭祀場と墓地の進出

 

【入江貝塚(北海道 洞爺湖町)】

内浦湾を望む海岸段丘に立地する紀元前1,800年前頃の貝塚を伴う集落跡である。一時的な寒冷化により集落が縮小・分散した時期であり、当遺跡においても小型で掘り込みの浅い竪穴建物跡が確認されている。焼失住居の状況等から土葺き屋根であったと想定されている。貝塚からは、アサリ・イガイなどの貝類、ニシン・ヒラメなどの魚類のほか、イルカなどの海獣類、動物の骨角を加工した釣針・離頭銛などの漁労具が出土している。墓域からは、筋萎縮症に罹った成人骨が見つかっており、集落内で介護を受けながら暮らしていたことがうかがえる。

 

【大湯環状列石(秋田県 鹿角市)】

米代川支流の大湯川沿いの段丘に立地する紀元前2,000年前頃~紀元前1,500年前頃の環状列石を主体とする祭祀遺跡である(写真5)。環状列石は、万座と野中堂の二つがある。万座環状列石は最大径が52m、野中堂環状列石は最大径が44mであり、周囲には掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが配置される。二つの環状列石の中心にある石と「日時計状組石」を結んだ軸線が夏至の日没方向とほぼ一致するため、太陽の運航を意識して構築されたとする意見もある。土偶や祭祀具のほか、狩猟具や漁労具、クリ・クルミなどの堅果類も検出されており、内陸の丘陵地における祭祀と生活の在り方を示している。

写真5 万座環状列石と野中堂環状列石(大湯環状列石)

【伊勢堂岱遺跡(秋田県 北秋田市)】

米代川支流の湯車川左岸の段丘に立地する紀元前2,000年頃~紀元前1,700年頃の環状列石を主体とする祭祀遺跡である。遠方の山並みが一望できる段丘に四つの環状列石が配置されている。最大の環状列石は直径約45mの三重のものがある。また、途中で構築を止めたものもある。環状列石の下部には土坑墓が見られ、墓地と祭祀場を兼ねた空間となっている。列石の周囲には掘立柱建物、貯蔵穴などが同心円状に配置され、土偶・動物形土製品・鐸形土製品・岩版・三脚石器・石刀などの祭祀遺物が多数出土しており、山岳の河川付近における葬制や祭祀、および生活の在り方を示している。

 

【小牧野遺跡(青森県 青森市)】

八甲田山西麓に広がる舌状台地に立地する紀元前2,000年頃の環状列石を主体とする祭祀遺跡である。環状列石は、直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35mの外帯で構成されているほか、その周りには一部四重となる列石などが配置されており、全体では約55mの規模になる。環状列石の内帯や外帯は、平らな石を縦横に繰り返しながら並べる独特の配列になっている。また、環状列石の構築に際しては、あらかじめ地面を平坦にする土地造成が行われている。環状列石や周辺の捨て場から、土偶やミニチュア土器、400点を超える三角形岩板などの祭祀遺物が出土しており、山岳地における祭祀の在り方を示している。

 

②祭祀場と墓地の分離

 

【高砂貝塚(北海道 洞爺湖町)】

内浦湾を望む低位の海岸段丘上に立地する紀元前1,000年頃の貝塚を伴う共同墓地である。墓域は土坑墓と配石遺構で構成されている。土坑墓では、抜歯の痕跡が認められる人骨のほか、大量のベンガラが散布された胎児骨を伴う妊産婦の人骨などの出土例がある。配石遺構からは土偶やミニチュア土器などが出土している。貝塚からタマキビ・ホタテ・アサリなどの貝類、ニシン・カレイ・マグロなどの魚類のほか、エゾシカやイルカなども出土している。内湾の沿岸部における漁労を中心とした生活、および葬送や祭祀を示す遺跡である。

 

【亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県 つがる市)】

海進期に形成された古十三湖に面した岩木川左岸の丘陵上に立地する紀元前1,000年頃~紀元前400年頃の共同墓地である。土坑墓は多数群集しており(写真6)、墓の数に比べて竪穴建物の数が極端に少ないことから、周辺の複数の集落によって構築し、維持されていたと考えられる。墓からは土器や玉などの副葬品が出土している。墓域周辺の低湿地には、祭祀場としての捨て場が形成されており、土器・石器のほか、漆塗り土器、藍胎漆器、植物製品、玉類などが出土している。なかでも、「遮光器土偶」の名称のきっかけとなった大型土偶が著名である。

写真6 確認された土坑墓群(亀ヶ岡石器時代遺跡)

【是川石器時代遺跡(青森県 八戸市)】

新井田川左岸の段丘上に立地する紀元前1,000年頃~紀元前400年頃の集落跡である。本資産は中居、一王寺、堀田の3遺跡からなり、なかでも中居遺跡は竪穴建物、土坑墓、水場、捨て場など多様な施設を伴う集落であり、この時期において貴重な資料となっている。また、低湿地の捨て場からは精巧な土器土偶をはじめ、漆が塗られた弓、櫛、腕輪、木製容器などが出土しており、当時の高い精神性と工芸技術をいまに伝えている。また、貯木やトチノミのアク抜きを行ったと推定される水場も確認されており、内陸の河川周辺における生活の在り方をも示している。

 

【キウス周堤墓群(北海道 千歳市)】

石狩低地帯を望む緩やかな丘陵上に立地する紀元前1,200年頃の共同墓地である。周堤墓とは、円形の竪穴を掘り、その土を周囲にドーナツ状に積み上げて高い土手を造り、内側の竪穴に複数の墓を配置する特異な形態の共同墓地である。本資産では9基の周堤墓群が群集しており、最大のものは外径83m、周堤上部から竪穴底面までの高低差が4.7mの規模がある。現在でもその形状、および周堤墓に至る小道の凹みが視認できる。墓には赤色顔料が撒かれたものや、墓標と思われる石柱が見つかっており、当時の高い精神性と社会の複雑化を示している。

 

【大森勝山遺跡(青森県 弘前市)】

岩城山麓の丘陵上に立地する紀元前1,000年頃の環状列石を伴う祭祀遺跡である。環状列石は台地を整地した後に円丘状に盛土し、その縁辺に77基の組石を配置して円環を形成するという特殊な形態を有している。平面形は楕円形を呈し、長径は48.5m、短径は39.1mとなっている。環状列石およびその周辺から、円盤状石製品が約250点出土しており、環状列石で行われた祭祀・儀礼に用いられたものと考えられている。また、岩木山と環状列石との軸線上にあたる位置に大型竪穴建物跡が確認されており、冬至には岩木山に太陽が沈むことなどから、当時の世界観や高い精神文化を伺うことができる。

参考文献
  • 縄文遺跡群世界遺産登録本部『北海道・北東北の縄文遺跡群世界遺産登録推薦書/Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan』日本国 2019

阿部 千春あべ ちはる北海道環境生活部 文化局文化振興課 縄文世界遺産推進室 特別研究員

1959年北海道生まれ。1983年立正大学文学部史学科(考古学専攻)卒業。同年財団法人北海道埋蔵文化財センター(現 公益財団法人北海道埋蔵文化財センター)、1989年南茅部町教育委員会、1996年同文化財調査室長、2004年函館市教育委員会生涯学習部参事(埋蔵文化財)、2011年函館市縄文文化交流センター館長、2015年から現職。主な著書に「アスファルトの供給」『縄文時代の考古学6』(共著、同成社、2007)、『津軽海峡圏の縄文文化』(共編、雄山閣、2015)など。