遺跡・史跡
北東アジアから見た縄文遺跡群
ロシア沿海地方南部のエクスペディツィア湾を望む。 湾岸には貝塚を伴う集落遺跡が多数分布する。新石器時代後期のザイサノフカ文化期には雑穀農耕が伝わり、狩猟・採集・漁労を含む複合的な生業活動が行われたことが判明している。 撮影:著者
まえがき
本稿では、狩猟・採集・漁労を基盤とした定住生活が発展した北東アジアの先史文化との比較検討を行い、北海道・北東北の縄文遺跡群の位置づけを述べる。
北東アジアの先史時代
「北海道・北東北の縄文遺跡群」(以下、「縄文遺跡群」という)は、紀元前13,000年から紀元前400年にかけて北東アジアにおいて発展した狩猟・漁労・採集を基盤とした定住社会の開始・発展・成熟の過程を表し、農耕社会以前の人々の生活の在り方と複雑な精神性を示す物証として、世界遺産一覧表に記載された。ここでいう「北東アジア」とは、ユーラシア大陸の北東部、現在の中国、ロシアのシベリア及び極東、モンゴル、朝鮮半島、日本列島を中心とした地域を指す。
紀元前13,000年以降、地球規模で気候が温暖化すると、森林や動物相は大きく変わった(図1)。こうした環境変化への適応として、北東アジアの人々の暮らしも移動生活から定住生活へと移行した。定住を支える生業は地域によって異なり、中国南部の長江中・下流域では稲作農耕、中国北部の黄河中・下流域から遼河流域ではアワ・キビの雑穀農耕、中国東北部やロシア極東、朝鮮半島、日本列島では狩猟・採集・漁労を基盤として定住が発展した。
図1 北東アジアの植生図
土器の出現と定住のはじまり
「定住」を示す物証は、日常生活を送る住居、食べた貝殻や動物骨などを廃棄して形成された貝塚、食料を貯蔵・保管するための貯蔵穴などが挙げられる。それらによって構成された空間が集落である。紀元前13,000年頃の集落は不明瞭だが、この頃に出現する土器は重量があり、壊れやすいため、頻繁な移動生活には適さず、定住を示す指標の一つとして理解されている。
北東アジアは、世界的にみても土器の出現が古いことが知られている(小林2019)。縄文遺跡群を構成する大平山元 遺跡では、石刃や石刃素材の石器(掻器・彫器・削器)、石斧とともに、土器片が出土した。その土器に付着した炭化物の放射性炭素年代測定の結果、紀元前13,000年頃のものであることが明らかにされた。
近年、日本列島だけでなく、中国やロシア極東でも紀元前10,000年を遡る土器が確認されている(図2)。その出現過程についてはよくわかっていないが、最古の発生地から各地へ伝播するのではなく、同時期に複数の地域で出現したという見方が有力になりつつある。また、その背景についても、水産資源の利用や堅果類のあく抜きなどさまざまな見解があるが、気候や植生などの環境変化を背景とした食料資源利用の多角化が一因だったと推察される。
図2 北東アジアの土器出現期の遺跡
集落の成立(紀元前7,000年頃~紀元前5,000年頃)
集落の構成要素となる住居は、地域によって形態が異なる。シベリアでは移動に適したテント型の住居、中国華北以南の地域では平地建物や高床建物、日本列島や中国東北部、ロシア極東、朝鮮半島では竪穴建物が用いられた(大貫2010)。紀元前7,000年頃になると、北東アジアでは地理的・自然的環境に応じた生業が営まれ、地域差も生じはじめた。中国やロシアの考古学研究では、遺構や遺物の時間的・空間的なまとまりに基づき、さまざまな考古学文化が設定されている(図3)。
図3 北東アジアの地域文化(紀元前6,000〜5,000年頃)
北海道・北東北では、紀元前7,000年頃に複数の竪穴建物からなる小規模な集落が形成され、紀元前5,000年頃には居住域と墓域が分離して集落内の機能分化が明確になる。
日本列島対岸のアムール河中・下流域では、河川流域の自然堤防や段丘上に集落が立地する。集落内における居住域と墓域の分離は不明だが、集落とは別な場所に複数の土坑墓からなる墓地が形成されたことが知られている。
遼河以西の地域(遼西)に成立した興隆窪文化(紀元前6,200~5,000年頃)は、狩猟・採集・漁労に加えて、雑穀農耕を基盤として定住したことを示す文化である。集落は河川流域の台地に立地する。興隆窪遺跡(内蒙古自治区赤峰市)は、楕円形状に溝がめぐる環濠集落である。集落内には、100棟余りの竪穴建物跡が列状に配置され、中央部には面積140㎡を超える大型竪穴建物がある。集落内に墓域はないが、竪穴建物の床面に埋葬施設を設ける屋内墓がある。墓には土器・玉器のほか、遺体の傍らにイノシシを副葬する例もあり、この地域独特の葬送儀礼のあり方を伝える。このほか、居住域と墓域との関係を示す集落として、白音長汗遺跡(内蒙古自治区赤峰市林西県)と査海遺跡(遼寧省阜新市)がある。白音長汗遺跡は、二つの環濠集落からなり、環濠内に竪穴建物、環濠の外に墓地が形成され、日常と非日常の空間区分がみられる。査海遺跡では、集落中央に土坑墓からなる墓域が位置し、その周囲に竪穴住居跡が配置され、集落内の居住域と墓域の区分を示唆する(図4)。
図4 査海遺跡の集落構造
『査海』(遼寧省文物考古研究所、文物出版社、2012)をもとに著者作成
定住の発展(紀元前5,000年頃~紀元前3,000年頃)
紀元前5,000年以降も気候の温暖化が続き、定住が発展した。北海道・北東北では、竪穴建物や墓に加え、魚や貝などを捨てた貝塚、大型の貯蔵施設が普及し、集落を構成する施設が多様化する。
日本海対岸のロシア沿海地方から朝鮮半島沿岸部でも貝塚を伴う集落が発達し、集落内の施設が多様化する(図5)。沿海地方南部の日本海沿岸に広がるボイスマン文化(紀元前5,000~3,500年頃)は、海洋適応を示す文化である。集落は、海浜に面した丘陵上に立地し、数棟の竪穴建物や貝塚で構成される。墓域は不明瞭だが、ボイスマン2遺跡で貝塚内から多くの埋葬人骨が確認された。貝塚からは、カキを主体とし、マグロなどの大型魚類、アシカ、トド、ゴマフアザラシなどの海獣、イヌ、イノシシ、シカなどの動物骨が出土している(甲元 2008)。石槍、石鏃、石錘のほか、骨角製の銛・ヤス・釣り針もみられ、陸上動物の狩猟に加え、海洋での海獣狩猟・漁労が活発であったことを示す。
図5 北東アジアの地域文化(紀元前5,000〜3,000年頃)
内陸のアムール河中・下流域ではコンドン文化(紀元前5,500~4,000年頃)やマリシェボ文化(紀元前4,000~3,000年頃)、中国黒龍江省とロシア沿海地方との国境地帯に位置するハンカ湖(興凱湖)沿岸に新開流文化(紀元前4,000~3,500年頃)が展開した。集落は、狩猟・漁労に適した河川沿いや湖沼沿岸の高台に立地する。竪穴建物や貯蔵施設となる土坑などで構成され、集落内に面積100㎡前後の大型竪穴建物もみられるようになる。土偶や動物形土製品(クマなど)などの祭祀的な遺物もみられ、精神文化の発達を物語る。墓地は、新開流遺跡のように集落の外に設けられる。
遼西では、興隆窪文化に続いて趙宝溝文化(紀元前5,000~4,700年頃)や紅山文化(紀元前4,700~3,000年頃)が展開し、雑穀農耕が定着する。集落は、環濠集落と非環濠集落がある。集落内には竪穴建物や貯蔵施設からなる居住域、祭祀的な性格を帯びた建物跡からなる祭祀場がみられ、集落内の祭祀場が発達する。さらに、集落外に複数の集団が共同で祭祀を行うための祭祀場もある。牛河梁遺跡群では大規模な祭祀施設(祭壇、女神廟)と積石塚などが確認されている。積石塚には石棺墓が構築され、墓には精巧な玉器(耳飾り、腕輪など)が副葬されるなど、社会がより複雑化して階層化が進んだことを示す。
定住の安定と祭祀の発達
(紀元前3,000年頃~紀元前2,000年頃)
紀元前4,300年頃を過ぎると、次第に冷涼化した。北海道・北東北では、三内丸山遺跡のような多様な施設を持つ拠点集落が登場した。
アムール河中・下流域では、マリシェボ文化に続きボズネセノフカ文化(紀元前2,700~1,500年頃)が展開した(図6)。集落には、径10mを超える大型竪穴建物もみられる。狩猟・採集・漁労に関わる道具のほか、人面が描かれた赤彩土器や土偶、動物形土製品などの祭祀的な遺物も顕著になる。集落内の墓域や祭祀場は判然としないが、集落外にサカチ・アリャン岩刻画などの岩画遺跡もあり、精神文化の発達がうかがえる。
図6 北東アジアの地域文化(紀元前3,000〜2,000年頃)
沿海地方南部では、ボイスマン文化に続いてザイサノフカ文化(紀元前3,000~1,400年頃)が展開した。集落は、河川や海に面した丘陵上に立地し、大型竪穴建物をともなうこともある。集落内に墓域はない。生業と関わる道具は、石鏃、石斧、石錘のほか、石鋤、石鏟、磨盤、磨棒、磨石など農耕との関連を示す石器もみられる。遺跡からは、クルミやハシバミ、ドングリなどの堅果類を主体に、アワ・キビの雑穀がわずかに確認されている(甲元 2008、宮本 2017)。紀元前3,000年頃までには、沿海地方南部にも雑穀農耕が伝わるものの、その主体は狩猟・採集・漁労であったことを示している。
遼西では、紅山文化に続いて小河沿文化(紀元前3,000~2,000年頃)が展開した。集落の規模は小規模化し、集落数も減少した(富2018)。集落外には、大南溝墓地(内蒙古自治区赤峰市)や哈拉海溝墓地(内蒙古自治区赤峰市)のように、複数の集団によって維持・管理された共同墓地も形成された。
北東アジアのなかの縄文遺跡群
北東アジアでは、紀元前13,000年以降に生じた環境変化に適応するかたちで、定住が成立し、多様な地域文化が育まれた。なかでも中国東北部やロシア極東南部では、落葉広葉樹を中心とした森林資源や水産資源を背景に狩猟・採集・漁労を基盤とした定住が営まれた。やがて、縄文遺跡群のステージⅢ(定住の成熟期)に相当する紀元前二千年紀になると、金属器をともなう時代へと移行し、雑穀農耕やブタの飼養も行われるようになった。
縄文遺跡群は、北東アジアのなかで最も長く採集・漁労・狩猟を基盤とした定住が続いたことを示す資産である。遺跡群を構成する17の遺跡は発掘調査によって全体像がわかり、周辺環境を含めた保存状態が良好で、法的な保護措置も適切に行われている。縄文遺跡群は、集落や祭祀場、墓地などの考古学的な物証に基づいて、北東アジアの狩猟・採集社会における定住のあり方とその過程、精神文化を物語る具体例の一つとして重要な意義を持つ。
- 大貫静夫「縄文文化と東北アジア」『縄文時代の考古学 縄文文化の輪郭』同成社 2010 pp.141-153
- 甲元眞之『東北アジアの初期農耕文化と社会』同成社. 2008
- 小林謙一(編)『土器のはじまり』同成社 2019
- 中澤寛将「北東アジアからみた縄文遺跡群」『世界遺産になった! 縄文遺跡』同成社 pp.17-22 2021
- 福田正宏・シェフコムード・内田和典・熊木俊朗(編)『東北アジアにおける定着的食料採集社会の形成および変容過程の研究』東京大学大学院人文社会系研究科付属北海文化研究常呂実習施設 2011
- 宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社 2017
- 富宝財『中国東北地方の新石器時代における社会形態変遷の研究』2018