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遺跡・史跡

「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録に寄せて

菊池徹夫 / TETSUO KIKUCHI

早稲田大学 名誉教授

大湯環状列石 夏至の日没 出典:JOMON ARCHIVES(撮影:縄文遺跡群世界遺産保存活用協議会)

長い道のり

日本列島の先史文化「縄文」の遺跡群が、コロナ禍の2021年7月27日、世界文化遺産に登録された。1993年に日本で初めての「法隆寺地域の仏教建造物」の登録以来、文化遺産としてはちょうど20件目となる。

 

ここまでの長い道のり、文化庁をはじめ、とりわけ4道県の関係者、市民の方々の熱意とご努力は大変なものだった。いま改めて心から敬意を表したい。

 

この資産が暫定一覧表に記載されて、登録推進本部の設置されたのが2009年、また青森県の三村申吾知事が、県内の縄文遺跡群世界文化遺産登録推進を正式に表明したのが2005年であったから、いずれにしてもゆうに10年以上。仮に三内丸山遺跡の保存決定がなった1994年をそもそもの発端と考えれば、じつに27年にもなろうという長い年月であった。

 

しかも、この案件は、1道3県の14市町にまたがる17遺跡群で構成されるシリアル・ノミネーションである。各自治体間でよくぞまとまって完遂されたと申し上げたい。この成功は、担当者すべてのチーム・ワークの賜物であり、とりわけ三内丸山を中心に8遺跡を抱える青森県の三村知事を先頭に、岡田康博氏が終始第一線に立って、文字どおりエンジン役を果たされた結果であろう。

 

世界遺産は、資産のもつ学術的価値はもちろん重要だが、そもそも国家間の条約に基づくものであって、その意味では本来行政上の問題である。つまり、今回で言えば国(文化庁)と4道県、および各関係自治体の連帯と力こそが基本なのである。

 

2020年秋に行われたイコモスによる現地調査についても、折悪しくコロナ禍で苦労されながら、来日された担当委員を各遺跡で案内された、文化庁と自治体担当者の方々による的確な応答・説明が、結果として極めて大きな役割を果たしたものと思われる。

 

いずれにせよ翌2021年5月には、イコモスからユネスコに対し「世界文化遺産一覧表への記載が適当」という旨の勧告がなされ、しかも、そこには特に付された重大な条件や課題もなく、関係者の全てが驚くほどスムーズなものであった。

三内丸山遺跡におけるイコモス現地調査の様子
提供:縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局

御所野遺跡におけるイコモス現地調査の様子
提供:縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局

イコモスの勧告

さて、私は比較考古学の立場から、2009年以来、専門家委員会の委員長としてお手伝いをさせて頂いたが、1998年以来、国の文化審議会文化財分科会、2007年からは同じく世界遺産特別委員会に関わって、その間、世界遺産の推薦・登録状況を見続けていただけに、今回の無事な登録決定は感慨一入だったのである。

 

実際2000年以降には、「石見銀山」、そして「平泉」と相次いでイコモスから厳しい延期勧告が出され、「石見銀山」は2007年にユネスコの本委員会で何とか「政治的」に採決に持ち込んだものの、「平泉」は構成資産の再検討と絞り込みを余儀なくされ、推薦から実に4年後の2011年にようやく登録に至っている。

 

続く「富士山」は、前もって自然遺産から文化遺産へ切り替えての推薦だったが、イコモスから構成資産の「三保の松原」を外すように勧告を受け、結局、登録は2013年にまで遅れた。また知名度が高く、早くから暫定リストに入っていた「鎌倉」は「不登録」という最も厳しい勧告を受け、推薦自体を取り下げざるを得ないこととなった。

 

さらに「宗像・沖ノ島」も、イコモスから古墳群などの資産は外すようにとの勧告を受け、最終的にはこれまた委員会での採決に拠ることとなった。続く「長崎の教会群」にしても、近世日本のキリスト教受容史といったコンセプトがイコモスによって認められず、一旦は推薦取り下げとなったが、「潜伏キリシタン」に中心を置くという、いわば妥協案を呑む形で2018年にようやく登録が実現した。なお、推薦書作成を文化庁というより内閣官房が取り仕切ったとも仄聞する「明治日本の産業革命遺産」はかなり異例で、早くも2015年には登録されている。

 

こう見てくると、今世紀に入り、「富岡製糸場」(2014年)や「百舌鳥・古市古墳群」(2019年)など、それぞれの理由で、幸いにも厳しい勧告を受けなかったのがむしろ例外的で、関係者は皆、大変な苦労と心配の連続であった。

 

そうした事情を知るだけに、今回、私どもは登録まで不安を抱えつつ、これら前例に学びながら、待たされた長い期間とにかく万全を期そうと努めたのである。

 

ただ、私はその間も「縄文」を世界遺産にという企てそのものの成功を疑ったことは一度もなかった。というのも、この17の縄文遺跡はもちろん二つの関連資産(長七谷地貝塚・鷲ノ木遺跡)も含めて、それらに象徴される縄文文化全体がもつ世界史的価値や人類史的意義といったものを、強く信じていたからである。

 

むしろ登録まで時間がかかったぶん、推薦書作成に向かって周到な準備ができた、といってよいかもしれない。特に2009年の暫定リスト記載から2019年の国の推薦決定(閣議了解)までの10年間は、個々の資産についての文化財行政上の具体的問題はもとより、例えば「そもそも縄文文化とは?」といった基本的問題をはじめ、世界遺産の理念などについても、くり返しくり返し議論した。そして、これらを受けて、登録推進本部は絶えず文化庁と意見交換しつつ、あくまでその責任において内容を磨き上げ、最終的に英文による大部の推薦書を完成させていったのである。

 

ともかく、私たちは今やっと、いわば縄文文化を世界に向けて紹介するという役割だけは、何とか果たし得たか、と思う。これからは多くの方々によってさらにさらに研究が深められ、いよいよ世界史の中のJOMONを確立して頂きたい、と願っている。

三内丸山遺跡 遠景 出典:JOMON ARCHIVES(撮影:青森県)

いくつかの問題点

ところで今回、登録までの作業上、少なからず問題もあった。これを文化財、とりわけ埋蔵文化財の観点から見てみよう。

 

例えば、縄文遺跡群が、当然のことながら純粋に考古学的な、しかも日本で初めて、文字記録を伴わない先史時代の遺産であったことだ。考古学的遺産というなら、すでに2019年登録の「百舌鳥・古市古墳群」があるし、例えば「平泉」など、他のいくつかの遺産でもその一部にこうした要素を含んでいる。しかし、いうまでもなく社寺、城郭、あるいは古墳などと違って、縄文文化は背景に文字資料を持たない、字義どおり先史時代の文化なのだ。

 

評価されるべき対象は大方が地下遺構で、一部が発掘等によって地上に露出されているに過ぎない。それも縄文の遺構は、配石を除けば、ほとんどは地面に穿たれた穴や土盛りだ。

 

そこで、新しく柱を立て梁や桁を掛け、萱などで屋根を葺きもする。我々としては、こうした「復元」はかなり慎重に行っているつもりだし、極力、本来の地下遺構を傷めないようにする。このような行為は実験考古学的に、また遺構の保存や景観のため、さらに一般市民、ことに子供たちの理解のため、と思ってのことだ。しかし、じつは世界遺産の評価で重要なのは地下遺構そのものの保存、真正性・完全性である。

 

そんなわけで今回、各遺跡でまず目を引く復元建物が、海外で石と煉瓦の堂々たる遺産を見慣れたイコモスの現地調査員の目でどのように評価されるか、密かに気にはなっていた。しかし結果的にはコロナ禍にもかかわらず来日され、全遺跡を巡察された委員が、新世界オーストラリアの、しかも考古学の専門家でよかった、と思っている。環太平洋の列島の先史文化である「縄文」を理解、評価し審査するうえで、ふさわしいと思われるからである。ここでも、日本の考古学、とりわけ発掘技術や調査・研究手法のレベルが、国際的に高く評価されていることも、もちろんありがたく、うれしかった。

大船遺跡 重なり合う竪穴建物跡
出典:JOMON ARCHIVES(撮影:函館市教育委員会)

大船遺跡 復元建物
出典:JOMON ARCHIVES(撮影:函館市教育委員会)

一方、推薦・登録の対象となるのがなぜ北海道と北東北3県だけなのか、それもなぜこの17遺跡だけなのかといった問いは、いわば「よくある質問」だった。国の特別委員会でもこのことは絶えず問われたと記憶する。確かに、日本列島全体に分布する縄文遺跡群のなかで、他ではなく、なぜこの地域の、しかも17の遺跡だけなのか、という問いは決して小さな問題ではない。当然、私たちは日本列島各地の縄文遺跡はもとより、東北アジアをはじめ世界各地のさまざまな遺跡との比較研究を行った。私自身も、内モンゴルの興隆溝、オークニー諸島のスカラ・ブレイ、クイーンシャーロット諸島のスカン・グアイ、ミシシッピ文化のカホキア、そしてタイのバンチェンなど、限られた数ではあるが実際に現地調査も試みた。

 

世界遺産の直接の対象は不動産としての遺跡であるが、この北海道と北東北3県の地域は遺物だけでなく遺跡自体がよく調査・研究され、かつ保存・整備され、それゆえ史跡指定など国の管理が行き届いていることなども重要な点だと思われた。

 

いずれにせよ、そもそもこの案件は文化庁による公募に対し、これら自治体が自発的、積極的に応募し承認されてスタートしたことが重要なので、以後、4道県のチーム・ワークと本部のリーダーシップとが相まって成功に導いたことは前述のとおりである。

 

なお、かなりの日本人が持っている弥生・古墳時代以前の「未開な縄文」といった偏見、一方また西欧の、新石器時代を含む「正統的な」人類史観からの「縄文」への無理解といった問題もあったが、これらはすでに他の機会に縷々述べたので、ここでは省略させていただく。

 

さて、登録が叶った今、「縄文」とは、ということを私なりに改めて考えている。世界遺産のOUVとは「縄文」の場合、一体何なのか。だが、これについても紙幅の関係と、また必ずしもここで与えられたテーマではないように思われるので省くこととしよう。

 

それより、ここでは今回の登録の意義といったことについて、簡単に私見を記してまとめたい。

 

まず一つは、西欧にありがちな進化論的、一元論的人類史観に対して、極東の島国からいささか異を唱えることができた、つまり人類史の多様性を示すきっかけを作り得たということだ。

 

すなわちJOMONは今後、人類文化の形成過程全体の中で、東北アジアにおける一つの個別具体的な先史文化として、それも極めて個性的なタイプとして理解されることになるのだから。

 

そしてもう一つは、縄文社会を学び、その自然環境との関係性を知ることで、現代の環境問題や地球温暖化といった課題解決へ、何らかのヒントを得られるのではないか、ということだ。

 

これからの世界を生きる子供たちのために、今回、ともかく「縄文」を世界史の表舞台に登場させたことだけでも、決して無意味ではなかったと、私は思っているのだが。

三内丸山遺跡にて修学旅行生を案内するボランティアガイド
提供:縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局

結びに代えて

終わりに、今回の作業を振り返って、今後のご参考までに一言。今回のような考古学的遺跡の場合、弥生・古墳時代以降で文字史料を伴う時、もちろんそれはそれで有利だが、前述のとおり世界遺産の直接の対象はあくまで不動産たる遺跡・遺構だから、先史遺跡の場合それで不利なことはない。むしろ物質文化として精確に調査され、客観的に分析され、明確に説明されれば問題はない。

 

個々の遺跡がそれ自体特殊であることは当然で、むしろそれが普遍に通ずる。それより、その両者をいかに説得的に結びつけ得るか、そして普遍的価値を明確に主張することこそ肝心であろう。

 

その場合、コンセプトと説明はできる限り簡潔、明瞭、明快でなければならない。この点からも構成資産は必要十分に整理されることが前提となろう。

 

とにかくこうした息の長い取り組みの場合、その遺跡の顕著で普遍的な価値を自ら強く信じ、信頼されるリーダーシップのもと、最後までチーム・ワークを保ち、焦らず、粘り強い努力こそが大切だ。

 

登録から早くもすでに半年、いよいよ大変なのはこれからだろう。活用(たとえば観光)と保存のせめぎ合いも必至だ。世界遺産条約の目的が遺産の永遠の保全にあることだけは忘れないようにしたい。いずれにせよ国と4道県は、国際的に大きな責任を負ったことは間違いない。シリアル・ノミネーションゆえに発揮された4道県の、あのチーム・ワークを忘れず、ますます協調を図って進んでいただきたい。

 

何より、今回の登録を千載一遇のチャンスとして、世界遺産クラスや特定の遺跡だけでなく、むしろ足元の、身の回りのあらゆる文化財に目を注いでほしい。

 

もっとも、私個人の関心でいえば、列島の基層文化としての「縄文」を、東アジア史の中でどうとらえ直していくか、という課題も、ここでは挙げておきたい。そこでは、例えば縄文と弥生、アイヌ民族、土偶や環状列石の意味論といった興味ぶかい課題も改めて問い直されるに違いない。

 

ともかく、日本の世界遺産にしては珍しく、王侯貴族ならぬいわば民衆の文化「縄文」がその仲間入りをしたという、そのことをも喜びつつ擱筆する。

三内丸山遺跡の発掘調査現場を見学する来訪者
提供:三内丸山遺跡センター

三内丸山遺跡の発掘調査現場を見学する子どもたち
提供:三内丸山遺跡センター

菊池徹夫きくち てつお早稲田大学 名誉教授

1939年北海道函館市生まれ。1963年早稲田大学文学部卒業、1967年東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学助手、早稲田大学助教授を経て、1986年早稲田大学教授、2010年から現職。2008年〜2011年まで日本考古学協会会長。2009年から縄文遺跡群世界遺産登録推進専門家委員会委員長。2011年から福島県文化財センター白河館「まほろん」館長。

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