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遺跡・史跡

特別史跡 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市・吉野ヶ里町)

細川金也 / HOSOKAWA KINYA

佐賀県立博物館・美術館 学芸員

復元集落遠景  提供 佐賀県教育委員会

佐賀県神埼市・吉野ヶ里町にまたがる特別史跡吉野ヶ里遺跡は、全国2番目の歴史公園として整備され、年間70万人を超える来園者でにぎわう公園となっている。この吉野ヶ里遺跡は開発に伴う発掘調査終了後に消え去る運命にあったが、マスコミ報道により全国的に注目を浴び、一転、遺跡保存が決定した。遺跡保存決定後も佐賀県教育委員会は、発掘調査を継続し、祭殿とみられる大型掘立柱建物跡や九州初出土の銅鐸、九州最大の前方後方墳等が新たに発見され、弥生時代研究にも大きく貢献した。

 

今回、国営歴史公園となった吉野ヶ里遺跡を取り上げ、その遺跡のあゆみと調査成果、保存整備後の取り組みについて述べ、歴史公園後の活用事業に関する課題についての報告を行う。

平成のはじまりとともに注目を浴びた大規模環濠集落

元号が昭和から平成に代わったばかりの平成元年2月23日は、昭和天皇の大喪の礼前日であった。この日の午前7時から流されたNHKのトップニュースは、この大喪の礼に関するものであったが、直後に『魏志倭人伝』に記された邪馬台国を彷彿させる大規模環濠集落が佐賀県で発見されたと報道された。また、朝日新聞にも同様の記事が、一面を飾った。吉野ヶ里遺跡の全国デビューの日である。この日を境に、地元マスコミだけでなく、全国紙の記者も遺跡に常駐し、取材合戦を繰り広げた。テレビや新聞などの報道を通じて吉野ヶ里遺跡の存在を知った人々が、その姿を一目見ようと全国各地から押し寄せ、「吉野ヶ里フィーバー」と呼ばれる社会現象を起こした。

 

この過熱する報道は、地元自治体や関係者をも巻き込み、遺跡保存の大きなうねりとなり、調査完了後に工業団地予定地として消え去る運命にあった吉野ヶ里遺跡をその消滅の危機から救うこととなった。保存の決定した吉野ヶ里遺跡は、「弥生時代における有力首長層の成長や古代国家の形成を考えるうえで欠くことのできない大規模環濠集落」として、平成2年5月に国史跡、翌平成3年には特別史跡として指定された。

 

現在は、年間70万人を超える来園者を迎える国営歴史公園として整備・利用されている吉野ヶ里遺跡。調査のあゆみと成果、遺跡の整備手法について振り返る。

発掘作業の様子(外環濠跡)  提供 佐賀県教育委員会

吉野ヶ里遺跡の歩み

吉野ヶ里遺跡が初めて報告された時期は比較的古く、大正14年(1925)に藤谷庸夫・古賀孝・松尾禎作らによって『古代東肥前の研究』に報告された。その後、昭和9年(1934)には、三友国五郎や七田忠志らが『考古学雑誌』や『史前学雑誌』等の中央の学会誌に吉野ヶ里遺跡周辺での吉野ヶ里町戦場ヶ谷遺跡の縄文土器や同町西石動での中広形銅戈鋳型の紹介とともに、佐賀平野を含む筑紫平野に存在する遺跡の重要性を指摘する中で、吉野ヶ里遺跡を取りあげた。

 

吉野ヶ里遺跡周辺では、昭和50年代まで大規模な開発が行われず、丘陵上は畑として、周辺の沖積地は水田として利用され続けていた。

昭和40年代に、遺跡南部の丘陵部付近に農業高校建設の計画が持ち上がったが、遺跡密度が高く、発掘調査に多額の費用と工期が長期にわたることから計画が断念された。

ところが、吉野ヶ里遺跡から東に約5km離れた位置に造成された「東部工業団地」の分譲が終了すると、新たな工業団地の適地の選定が開始され、吉野ヶ里遺跡周辺がその場所に求められた。

 

昭和57年(1982)年、吉野ヶ里丘陵一帯で工業団地造成に伴う事前の範囲確認調査が開始された。その対象面積は80haにも及び丘陵部を中心とした地区に濃密な遺構が確認された。その調査結果を受け、佐賀県教育委員会は、昭和61年(1986)年5月に神埼工業団地予定地内の埋蔵文化財調査に着手した。この発掘調査は、3年間で30haの調査を実施するというもので、県教委の専門職員3名だけでなく、神埼町、三田川町の地元自治体から計3名の職員の派遣を受けての対応となった。

吉野ヶ里遺跡全体図  提供 佐賀県教育委員会

吉野ヶ里遺跡(環濠内)  提供 佐賀県教育委員会

吉野ヶ里遺跡の調査と成果

遺跡の規模や性格から『魏志倭人伝』との関連で語られることの多い吉野ヶ里遺跡であるが、旧石器時代後期のナイフ形石器が出土しているほか、奈良時代の官衙関連遺構や丘陵を切通し状に掘削した官道、戦国時代後期には城館跡として再利用された墳丘墓があり、長期にわたり営まれた複合遺跡である。

佐賀県教育委員会が主体となって実施した吉野ヶ里遺跡の発掘調査は、昭和61年から平成25年までのおよそ約30年近くにわたり行われた。その成果は弥生時代だけでも多岐にわたるため、重要と思われる項目に絞って解説する。

① 北内郭と南内郭

弥生時代後期に成立した大規模な環濠の内部に環濠を巡らせる2つの区画が存在する。この区画のうち、北側にある区画を北内郭、南側のそれを南内郭と呼ぶ。

 

南内郭は、平成元年に環濠集落として報道された区画で、弥生時代後期後半に成立し、終末期に規模を拡大して掘り直される。この南内郭は、環濠の一部を半円形に4ヶ所に張り出し、そこに物見櫓とみられる掘立柱建物が配置される。弥生時代終末期に成立した北内郭は二重の環濠によって区画され、平面形がアルファベットの「A」字に近い。北内郭の内部には、弥生時代最大の建物で、祭祀的な性格を持つ3間×3間の総柱の掘立柱建物が建てられる。

 

この二つの内郭とその内部に存在する建物は、弥生時代終末期の吉野ヶ里遺跡の中核的施設とされ、復元・整備されている。

② 後期の大規模環濠と高床倉庫群

復元された倉と市  提供 佐賀県教育委員会

丘陵の西側縁辺部に沿って、延長1kmを超える断面V字形の環濠が確認された。この環濠は弥生時代後期に成立し、墳丘墓の北側から西側斜面に沿って南側に向けて延び、丘陵南側先端を巡るように作られる。もっとも残りの良い場所での環濠の規模は幅約6m、深さ2,7mで、防御性が強い。また、この環濠の埋土からは、多量の土器とともに巴形銅器の鋳型や鉄製品が出土しており、隣接する南内郭の性格を考えるうえでも重要である。また、南内郭の西側丘陵緩斜面には、南北約200m、東西150mの空間に後期後半から終末期とみられる掘立柱建物群70棟以上で構成される大規模な掘立柱建物群が存在する。

 

これらの掘立柱建物跡は概ね4つの群に分かれて分布する。外環濠と並行する溝跡との間には、大型の掘立柱建物4棟が南北方向に並ぶ。中央部付近の建物跡群には、2間×2間、3間×4間の総柱建物が存在し、倉庫群を管理する中心的な建物と考えられている。建物群の間には、広場とみられる空閑地も認められる。この建物群と広場は、『魏志倭人伝』に「収租賦有邸閣 國國有市 交易有無」と記された租税を納める倉庫群または管理用の建物(市楼)、広場は市を開く場所の可能性が高い。吉野ヶ里歴史公園では、この掘立柱建物跡が集中する地点を「倉と市」して復元・整備している。

③ 甕棺墓と墳丘墓

墳丘墓全景  提供 佐賀県教育委員会

吉野ヶ里遺跡で確認されている弥生時代の墳墓は、北部九州独特の墓制である甕棺墓が一般的であるが、土壙墓、木棺墓、石棺墓なども一部認められる。これまでの調査で弥生時代前期後半から後期前半にかけての甕棺墓3,000基が発見されている。保存状況の良い甕棺墓の内部には、人骨が良好な形で残っていることが多い。また、一部の甕棺からは、南海産とみられるイモガイやゴホウラでつくられた貝輪を装着している人骨もみられるが、一般の墓地では、副葬品をもつ甕棺墓は限られる。

 

人骨に関して、中期中頃(須玖式期)の甕棺から頭部を切断された人骨が発見され、その解剖学的所見により右手の橈骨及び右鎖骨の内面に刀傷が確認され、接近戦で殺害された後に頭部を切り取られたものであることが判明した。吉野ヶ里遺跡で確認された人骨には、大腿骨に銅剣切先が嵌入したものや腹部に石鏃を複数本打ち込まれたものも見つかっており、弥生時代の戦闘を示す資料といえる。

 

弥生時代中期前半に築造された吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は全長40mで、その内部から14基の甕棺が発見された。中央に埋葬された甕棺墓が最も古く、南から反時計回りに甕棺が順次埋葬されている。この墳丘墓に埋葬された甕棺は、一般の墓地に用いられるよりも大型で、内外面を黒塗りするなど特殊なものある。また、墳丘墓の甕棺8基からは細形銅剣等の副葬品を持つことから、集落構成員内ですでに階層差が生じていた現象の一つであろう。

④ 青銅器鋳造関連遺構と鋳型

吉野ヶ里墳丘墓 銅剣一式 提供 佐賀県教育委員会

吉野ヶ里遺跡からは、おもに丘陵南部で銅剣や銅矛を製作した鋳型片が4点確認されている。特に鋳型の両面および両側面に銅矛・銅剣の型を掘り込んだ青銅器鋳型が錫塊や銅滓等ともに弥生時代中期初めの大型土坑から出土している。青銅器の材料である錫塊片や不純物とみられる銅滓等の鋳造関連品の出土は、遺跡内で青銅器を作っていた証左となる。また、この大型土坑の北側に位置する前期環濠からは、銅矛の中子、鞴羽口などの鋳造に関連した遺物が出土することから吉野ヶ里遺跡での青銅器生産は前期にさかのぼる可能性もある。

 

この鋳造関連遺構が発見される丘陵南部一帯は、朝鮮半島系の無文土器が集中する地点であることから、青銅器鋳造には、半島系の人々の関与が認められる。この青銅器鋳型と朝鮮半島系無文土器とのセット関係は、吉野ヶ里遺跡以外にも小城市土生遺跡や佐賀市鍋島本村遺跡と隣接する佐賀市増田遺跡、神埼市姉遺跡など他の佐賀平野の鋳造関連遺跡にも認められる。

 

佐賀平野では、後期の青銅器生産は縮小し、神埼や鳥栖市域のいくつかの遺跡に限られる。吉野ヶ里遺跡では、弥生時代後期の巴形銅器や用途不明の不明青銅器鋳型が南内郭付近の外環濠から出土しており、青銅器生産が後期まで継続していたことが分かる。

⑤ 吉野ヶ里遺跡の終焉と前方後方墳

九州最大の前方後方墳 提供 佐賀県教育委員会

南内郭では、弥生時代最終末期に新段階の環濠が埋没し、丘陵上からは竪穴住居などの集落に関する遺構は激減する。古墳時代初頭の集落は吉野ヶ里丘陵西側斜面付近に移るが、その数はわずかである。南内郭付近の集落と入れ替わるように丘陵上には前方後方墳4基が相次いで築造される。これらの前方後方墳は、墳丘及び主体部が削平され、周溝しか残っていないが、周溝出土の土器から北から南に向け順次築造されたことが判明している。

 

前方後方墳のうち、最も南に位置するST568墳は、全長約40mで九州最大規模の前方後方墳である。九州の前方後方墳は、前方後円墳に比べ、その数が非常に少ないにも関わらず、吉野ヶ里遺跡に4基集中することは、極めて異例である。吉野ヶ里遺跡の性格を考えるうえで興味深い。

吉野ヶ里遺跡の保存とその影響 

昭和61年に工業団地造成工事に伴う文化財調査として開始された吉野ヶ里遺跡の発掘調査では、甕棺墓の列埋葬や大規模な環濠集落の発見、巴型銅器を初めとする青銅器鋳型出土等の重要な調査成果が明らかとなった。平成元年2月以降、マスコミに取り上げられると、多くの見学者が吉野ヶ里遺跡を訪れた。その動向が全国的な注目の的となり、吉野ヶ里遺跡を工業団地として開発を行うか遺跡の保存を図るか選択を迫られる状況を迎えた。当時の香月佐賀県知事は、最後の調査地点として残された丘状の高まり部分の調査内容から遺跡保存の判断を決定することになった。

 

この丘状の高まりは、事前の確認調査で甕棺が確認されており、弥生時代の墳丘墓の可能性が濃厚であった。当時、弥生時代の墳丘墓は、岡山県倉敷市盾築墳丘墓に代表されるように弥生時代後期から終末期に出現するものと考えられ、弥生時代中期にさかのぼる墳丘墓は、佐賀県での発見例はなく、福岡市早良区の樋渡墳丘墓が知られているに過ぎなかった。3月2日に墳丘墓の調査に着手したところ、朱塗りの甕棺から剣身と取手、飾り金具までが一鋳された有柄細形銅剣1口とスカイブルー色のガラス製管玉73点が発見された。墳丘墓出土の甕棺から副葬された銅剣とガラス製管玉の発見は、新聞やテレビニュースに取り上げられ、遺跡の重要性をさらに裏付けた。

 

平成元年3月7日、香月佐賀県知事は、弥生時代の環濠集落と墳丘墓を含む18ha(最終的に22ha)を文化財の保存活用地域として遺跡の保存を表明し、佐賀県は、文化庁の応援を受け遺跡の保存に向けた取り組みを開始した。

吉野ヶ里遺跡の保存に至る過程では、当時奈良国立文化財研究所に在籍していた佐原眞氏が大きくかかわっていた。佐原氏は、吉野ヶ里遺跡がマスコミに取り上げられる直前に金関恕天理大学教授とともに吉野ヶ里遺跡の調査指導に訪れている。ただ、その訪問には朝日新聞やNHKの記者も同行し、佐原氏から示唆を受けた記者が吉野ヶ里遺跡と『魏志倭人伝』に記された「邪馬台国」の関わりを積極的に報道したことから、全国的な注目を浴びることとなった。

 

この報道機関への情報提供により遺跡保存を行うという吉野ヶ里遺跡の取り組みは、各地での遺跡保存の取り組みに大きな影響を与えた。野球場の建設工事により調査された青森県三内丸山遺跡やゴルフ場造成工事に伴う鳥取県妻木晩田遺跡などの保存運動にも同様な手法が用いられ、遺跡の保存に繋げることができた。

国営歴史公園化への道のり

国営吉野ヶ里歴史公園全体図  提供 佐賀県教育委員会

遺跡保存を決定した佐賀県と佐賀県教育委員会は、本格的な遺跡整備に着手する前に仮整備を実施する計画を示し、遺跡の現場公開を平成元年のゴールデンウィークで一旦中断し、埋め戻すことになった。仮整備事業では、埋め戻した弥生時代後期の環濠集落を復元することを目的に、環濠のほか、竪穴住居4棟、高床倉庫2棟、物見櫓2棟を復元するとともに、墳丘墓に鉄骨トラス構造の覆屋を作り、平成元年秋から一般公開を再開した。

 

一方、元年8月に「吉野ヶ里遺跡保存活用検討委員会」を発足し、史跡指定の取り組みや整備方法についての議論を開始した。通常、遺跡の整備は国や自治体の史跡指定を受け、文化庁の補助事業として公有化や遺跡の整備を行うことが多いが、佐賀県は吉野ヶ里遺跡を核とした国営歴史公園化の構想が浮上したことから、都市公園法に定められた国営歴史公園としての整備を目指すこととなった。

 

ただ、国営公園のうち、歴史公園はロ号公園として「国家的な記念事業として、又は我が国固有のすぐれた文化的資産の保全と活用を図るため、閣議決定を経て認定する都市計画施設である公園」『都市公園法第2条第1項第2号ロ』と定められており、その認定には高いハードルが存在した。当時、国営歴史公園として整備された公園は、「高松塚古墳」「キトラ古墳」が所在する奈良県明日香村の「国営飛鳥歴史公園」のみであった。

 

このため、佐賀県は平成3年8月に「国営吉野ヶ里歴史公園実現推進本部」を設置し、官民挙げた取り組みを積極的に行った。この運動には、佐賀県や地元自治体だけでなく、全国史跡整備協議会や日本考古学協会、九州知事会等の各種団体からも歴史公園実現の要望書を受け取ることができた。

 

このような官民一体となった歴史公園整備の運動の取り組みにより、吉野ヶ里遺跡は、平成4年10月に閣議決定を受け、国営奈良明日香歴史公園に次ぐ2番目の歴史公園として整備されることになった。

 

平成5年3月に策定された「吉野ヶ里歴史公園基本計画」では、国営公園の周囲に県立公園区域(63ha)を設け、国営公園区域(54ha)と合わせた計117haを歴史公園として整備することに決定した。また、「弥生人の声が聞こえる」を公園の基本理念として、「吉野ヶ里遺跡の保存を通じての本物へのこだわりと適切な施設の復元やわかりやすい手触りの展示など、遺跡の活用を通じて、弥生時代を体験できる場を創出する。」ことを基本方針として決定した。具体的には、歴史公園を環濠集落ゾーン、古代の森ゾーン、古代の原ゾーン、入口ゾーン4つの空間に区画し、それぞれ目的に応じた整備を実施することとした。

環濠集落ゾーンでは、整備時期を弥生時代後期後半から終末期(紀元3世紀頃)を整備時期とし、これまでの発掘調査成果をもとに整備する竪穴住居や高床倉庫、環濠などを抽出し、遺構の上に復元をしている。ただし、これら復元整備工事では、遺構の保護を優先し、直接遺構面を傷つけないよう遺構面よりも30cm以上の盛り土による保護層を確保している。

平成13年の第1期開園時には、平成4・5年の調査で確認された北内郭部分の大型建物跡と周辺の建物群、環濠等の復元を行い、供用を開始している。

国営吉野ヶ里歴史公園開園後の遺跡活用の取り組み

国営吉野ヶ里歴史公園では、その特性を生かした様々な活用を行っている。復元された「祭殿」や竪穴住居等の復元建物の内部に入ることができ、当時の生活様式を再現した土器を始めとする様々な道具に触れることができる。また、南内郭に設置された物見櫓には階段が設置され、常時登ることができ、公園の周囲が見渡せる。また、園内には、公園のスタッフが多数配置され、来園者の質問や問い合わせにも答えることが可能となっている。

 

これら通常の遺跡公開だけでなく、弥生時代に関係する体験も数多く実施されている。復元水田では、希望者は田植えから稲刈りまでの工程を家族で楽しむことができる。また、竪穴住居を利用した宿泊体験や溶けた青銅を鋳型に流し込む鋳造体験、石器つくり、繭から糸を紡ぐ体験など、遺跡に係る様々な体験学習が可能となっている。また、雨天時にも対応できるようつくられた体験学習施設「弥生くらし館」では、来園者が希望すれば、勾玉つくりや火起こし等の体験学習はいつでも行うことができる。

 

隣接する県立公園区域では、遺跡にとらわれない様々なイベントを実施している。園内駐車場の一部を開放し、軽トラック1台分のスペースを売店に利用したマーケット(軽トラ市)の開催やマラソンやグランドゴルフ、サッカー教室などのスポーツ催事、バーベキュー場の設置など、さまざまな工夫を凝らして集客を図っている。

このようなイベントの実施で春・秋の行楽シーズンには、佐賀県だけでなく九州一円からも多くの来園者が訪れ、歴史公園で行われるイベントを楽しんでいる。

 

近年、中国や韓国をはじめとする海外からの観光客も増加傾向で、それに応じパンフレットやサイン等も多言語化を図っている。また、佐賀県と公園管理者が合同で、台湾の博物館が開催する「考古生活フェティバル」に参加し、復元青銅器製作の体験を行い、吉野ヶ里遺跡の知名度の向上に貢献している。今後は国内だけでなく海外の来園者の獲得を視野に入れた取り組みが見込まれる。

これからの吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡は、遺跡保存が決定した平成元年から30年、国営歴史公園として利用が開始されてから平成13年から17年が経過している。この間、吉野ヶ里遺跡の整備は、一部を除きほぼ終了し、復元建物の補修等の維持管理業務に移行している。整備とともに実施してきた発掘調査も平成25年にいったん休止した状況が続いており、整備と並行した遺跡の新たな情報発信が難しくなってきている。

 

これまで調査を担ってきた佐賀県では、吉野ヶ里遺跡で実施してきた調査を総括するとともに調査指導委員会を設置し、これからの吉野ヶ里遺跡における調査のあり方を検討している。

 

また、当初計画にあった吉野ヶ里博物館の建設が未着手となっている。このため、吉野ヶ里遺跡の出土品は、園内にある展示施設で公開している。しかしながら、この展示施設はプレハブつくりのため、把頭飾付有柄細形銅剣やガラス製管玉等の重要文化財に指定されている出土品の展示ができない状況が続いている。博物館建設には多額の費用がかかることから早急な建設は見込めない。しかしながら、現地で本物をみたいという来園者からの要望が最も多いことも事実であり、博物館建設については、早急な検討が望まれる。

 

最後になるが、佐賀県立博物館・美術館では、約30年間にも及ぶ吉野ヶ里遺跡の調査成果を集大成した企画展を2020年冬に計画している。平成の始まりとともに話題となった佐賀県吉野ヶ里遺跡。その最新の成果にも注目して欲しい。

 

【特別史跡 吉野ヶ里遺跡】

名 称 特別史跡 吉野ヶ里遺跡(よしのがり いせき)

住 所 佐賀県神埼市・吉野ヶ里町

面 積 22ha (国営歴史公園117ha)

立 地 佐賀平野に南北に延びる標高7~20mの丘陵上とその周囲の沖積地

現 状 国営吉野ヶ里歴史公園

時 代 旧石器時代~室町時代(復元集落は弥生時代後期後半から終末期)

種 別 集落・墳墓

指 定 平成2年 国史跡に指定、平成3年 特別史跡に指定

【吉野ヶ里公園管理センター】

所在地 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843

休館日 12月31日 1月の第3月曜日とその翌日

時 間 9:00~17:00

入館料 有料 大人460円 中学以下 無料

公開日:2018年11月5日

細川金也ほそかわ きんや佐賀県立博物館・美術館 学芸員

國學院大學文学部考古学専攻卒 専門分野 考古学
昭和42年 愛媛県宇和島市生まれ 
平成4年 佐賀県教育委員会入庁。吉野ヶ里遺跡の発掘調査のほか、佐賀県内の発掘調査及び文化財保護行政に携わる。平成27年より現職

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