遺跡・史跡
アコリス調査の沿革
ヘレニズム・ローマ時代の都市址と岩山 提供:アコリス調査団(以下同)
概観
カイロから南に230kmほど隔たったナイル東岸の段丘上に、調査地アコリスが占地する(図1、2)。アコリスという遺跡名は、『エジプト誌』で紹介されたプトレマイオス朝期(前332-前30年)のギリシア語の奉献磨崖碑文※1に由来するのであるが、遺跡の南西隅にひときわ高くそびえ立つ岩山にちなんだ「タ・デヘネト(頂きの土地)」という王朝名のほうが、景観にはふさわしい。
この岩山の北・南に約15haの荒涼とした古代都市域が広がる。ワディ※2を隔てた彼方の崖面には墓域が、さらにその外周の山頂に広大な採石場址が生々しい操業のあとをとどめている。つまり、生活・葬送・生業の場がセットになっているわけである。
1980年、ここを調査地に選定し、翌年調査を開始して現在に至っている。この間40年余の沿革は、大別して2期に分けられる。公益財団法人古代学協会を主体者とした1980-1995年と、自主参加の合同チームを組んだ1996年以降である。
図1 アコリス位置図(エジプト全図)
図2 アコリス全体図
第1期調査(1981-1995)
岩山の北側中腹に営まれた神殿域から調査に着手した。第1期はここを中心とし、さらに都市域中央の中央神殿や外壁などにも調査の手を及ぼして全容の復元に努めた。こうしてこの地に展開した人間活動の変遷を辿ることを目指したのである。そのためには、文字史料の助力を得ながら、土器・日乾レンガ・石材加工痕などの編年を確立する必要がある。さいわい初年度の発掘でその概略を定立することができたのは、エジプト考古学に不慣れな我われにとっては、心強い限りであった。
着手した西方神殿はローマ帝政期に大幅な拡充・改変が加えられ、岩窟内に至聖所、外部に多柱室や中庭や参道などを備えたエジプト・ローマ混合様式として出発した。ネロ(54-68年在位)やコンモドゥス(180-192年在位)の名が門柱に刻まれ、各種の奉献碑が出土した。三段櫂船船長の奉献碑2基が含まれ、ワニのミイラが大量に出土し、至聖所側壁にワニ形のニッチをそなえてあることは、本地の伝統的神格であるソベク神信仰の、ローマ帝政期における隆盛を示唆している。
ところが神殿の淵源は、ローマ帝政期をはるかに遡るようである。20世紀の始めに、ラメセスⅡ世(前1279-前1213年在位)銘の建材片が神殿域で発見されているので、神殿の創始は第19王朝期に遡る可能性がある。また、我われの調査では神殿域から第21王朝ピヌジェムⅠ世(テーベのアメン大司祭。前1070年頃在職)や第23王朝オソルコンⅢ世(タニスの王。前780年頃在位)の奉献碑が発見され、中エジプトをめぐる第3中間期の南北攻防の一端を伝えている。
また、岩窟内の竪坑墓の1基からは思わぬ発見があった。木製のファラオ像や葬送船模型などの、中王国時代(前1980-前1640年頃)の遺物群が出土したのである。葬送船は、模型といえども当時の姿を実にリアルに再現してある(写真1)。水夫の身長から船の全長を推算すると、20mに達する。まさに往時の巨船である。また、その竪坑墓の工具痕によって、ここに中王国時代岩窟墓4基があい接して営まれていたことも判明した。
写真1 復元された葬送船の模型
しかしローマ帝政期の西方神殿域は、紀元後3世紀を境にして碑文の奉献が絶え、4世紀以降のコプト時代に入ると、神殿内は一般住居の進出によって、オリーブの搾油(写真2)やコプト織(写真3)や製粉のような手工業生産の場へと変容し、イスラム支配の到来後ほどなくコプト都市アコリスは終焉を迎えた。古代都市のこのような変容・衰微はアナトリアやレヴァントの諸例とも軌道を同じくするので、後期古代研究者の間でおおいに議論されている。
写真2 オリーブ搾油機
写真3 出土したコプト裂
都市域に痕跡をとどめる日乾レンガ壁をことごとく図化し編年して、都市の街路の変遷を辿る作業を完成させたのは、第1期の後半であった。その成果を発掘結果と合わせて、前2千年紀前半から後700年頃に至るアコリスの動向を、概括にせよ復元した。エジプトにおける古代都市変遷の貴重なケーススタディとして特筆されてよいと思う。第1期調査の仔細はAKORIS: Report of the Excavations at Akoris in Middle Egypt 1981-1992 (1995)として刊行した。
第2期調査(1996-現在)
第1期調査で判明していなかった、プトレマイオス朝期の動向と末期王朝時代の都市外壁を、遺跡北端で確認するところから第2期が始まった。そして、プトレマイオス朝期の巨柱未製品の発見がローマ・コプト時代を含む近傍の採石場址へと我われを誘い、南方のニュー・ミニヤ地区にも調査の手が及んだことは、半ば望外の展開ではあった。しかしこの展開によって、プトレマイオス朝期からコプト時代に至る採石技術の編年、プトレマイオス朝期の未完成のファラオ巨像やオベリスクを対象とした加工過程の検討、また、採石場址に残るギリシア語とデモティック※3の解読によって、往時の採石場の実態が浮き彫りになりつつある。
一方、北端で検出された末期王朝期の外壁の問題は、岩山の南斜面~谷間に残る第3中間期の住居址群(南区 写真4)や西斜面の岩棚上の墓群(西区)へと我われを駆り立てた。すなわち、外壁をそなえた都市としてアコリスが出現する前夜の、王朝の勢威が衰微した第3中間期における庶民層の実態の究明が、こうして第2期調査のもう一つの柱となったのである。
写真4 住居や円形貯蔵庫が立ち並ぶ南区の様子
2002年に着手してひとまず終了した西区の墓群は、古王国時代末期(前2200年頃)のマスタバ墓※4を中心にした竪坑墓群で、造墓時の埋葬や第3中間期以降に造られた墓も合わせると63基を発掘し、その多くが第3中間期に再利用したものであることを確認した。これに対して南区は、第20王朝期(前1190-前1075年頃)における軍事要塞の建設を契機として集落形成が始まり、程なく3haほどに集落が密集するようになった。それに付随して円形貯蔵庫、織物/製糸・銅器加工・土器製作などの各種の工房が営まれ、加えてガラス/ファイアンス玉やファイアンス製女神像の製作もここで行っていたことが、鋳型の出土によって知られた。さらに、末期王朝にかかる頃には皮革工房も営まれ、おもに靴やサンダル類を製作していたことが、工房址の調査によって解明された。住民が農業や漁業に携わっていたことは、サイロ用の円形貯蔵庫や農具や漁具の出土によって明らかであり、ブタやヒツジやヤギを飼育していたことも骨や糞から推察されるが、たとえ半専業にせよ、ワタリ工人にせよ、各種の手工業に携わっていたことは、この集落を性格付けるうえで見逃せない。
さらに、出土土器のなかにフェニキア産のアンフォラ(写真5)が大量に含まれ、同系と思しい巡礼壷や食卓用小型磨研土器も少なくない。直接であれ、間接であれ、これらの波頭をこえた遠隔地との交易活動に連なり、他方、紅海方面からタカラ貝が、上エジプトからはマール・クレイ土器がこれもまた大量に持ち込まれている。加えて、出土住居址や墓制に規模の大小や体裁の精粗があり、この集落群が貧富差を内包していたらしい事実も見逃せない。つまり、王朝の衰微に反比例して、手工業や交易活動に活発に携わるようになった庶民層の姿をここに見ることができるわけである。
写真5 フェニキア産のアンフォラ
アコリスが都市化に向かった前1千年紀前半というと、レヴァント方面ではアラム人が、メソポタミアでは新アッシリアのもとで、ともに定住傾向の著しかった時代である。エジプトでもまたこの頃から都市化へ向かって転舵し、末期王朝に至って拍車の掛かったことが知られる。アコリスの場合、南区は墓域化して衰微したけれども、末期王朝期には外壁をそなえた都市として整備され、居住地と墓域との分離が進んだようである。
以上、アコリスは孤ならず。この地における都市形成と衰微が、エジプトに加え、西アジア方面とも連動していたことを、近年の研究成果が伝えているのである。
なお、第2期調査の成果については年度ごとにPreliminary Report AKORISを刊行しているが、公式ウェブサイト(http://www.akoris.jp)でも見ることができるので参照を願いたい。
- 岸壁の表面に彫られた碑文
- 涸れ谷(雨が降った時だけ水が流れる谷状の地形)
- 古代エジプトではエジプト語を表記するのに、ヒエログリフ(聖刻文字)、ヒエラティック(神官文字)、デモティック(民衆文字)の3種類の文字が使われた。
- 古代エジプトで建設された、長方形の礼拝堂を備えた墓